六
目を覚ましたときにはたっぷりと汗をかいていて、シーツまで濡れていた。秋の谷の最後の日の夢を見たのは久しぶりだった。だるい脚を寝台からおろし、外を窺うとまだ明け方である。霧にかすむベランダの手すりに何らかの鳥が止まっていたのが、フジが動いたのを感じてさっと飛び去っていった。寝台に目を戻すと、枕元に、見慣れない、丸く光る青いものがある。手に取ってみると、水の石に見えてくる。懐かしい、水の石。秋の谷では毎日見ていた。
フジは石を一旦枕元に戻し、大きくため息をついた。遠くから見ても、色、匂い、気配など、どうしても水の石に見える。フジは何度も目をこすった。そのまま部屋で右往左往してみたが、一向に考えもまとまらないので、ニッキの部屋に行ってみることにした。
ノックをすると、頭をマカロニ工場の爆発然に乱したニッキが出てきた。
寒いと文句を言うのをとにかく自室に引っ張っていくと、ニッキはぼんやりと寝台の上の石を見つめた。
「これがどうしたんですか」
「これ、水の石みたいじゃない?」
ニッキはつまらなさそうに石をつまみ、明け方の薄い光に透かしてみた。あくびを噛み殺そうと苦労したが、どうにも我慢ができなかった。
「そんなわけございませんよ。ふぁーああ」
「じゃ、なんだかわかる?」
ニッキは再度まじまじと見てから、やがてそっと元の場所に戻し、静かに言った。
「え?水の石なんですか?」
ようやく目が覚めたようで、息を飲んでいる。
フジは秋の谷にいたころ、魔女たちが集まって石を作っている場所へ足しげく通った。そこは城の裏手の羊歯が生い茂る場所で、切り立った向かいの崖から湧水がしみだしているため、年中ひんやりとして、暑がりだったフジが涼をとるのに格好の場所だった。大抵一人か二人の魔女が交代で作業場に詰めていて、それぞれ自分の一番やりやすい方法で水の石を作っていた。複雑な呪文や札、魔法陣を組み合わせて水の石を作る者や、崖際に煮炊きの窯を用意し、そこに薬をふんだんに混ぜ込んで作る者もいた。若い魔女は作成には参加しないので、母以外の魔女は皆年老いていて、作り方を聞いても、もにゃもにゃと聞き取れない声が返ってくるばかりだし、母に聞いても今度は難しすぎて理解できなかった。
おおざっぱな手順としては、元となる原石を用意して、それに魔法をかけてできるものらしい。原石はそこらにある石ころではだめで、ヘメラと呼ばれる貴重な鉱物を使っていた。作成に失敗した場合、失敗作は最初は不安定で、爆発する危険もあったが、数年経てばその失敗作が更に良い水の石の材料になるため、失敗作をためておく透明の大桶が用意されていた。時間が経つと失敗作は微小な光を発するため、その桶では下の方の石が木漏れ日を青白く反射していた。コックをひねると心地良い音が鳴り、底の方の古い失敗作が一つ転がり出てくる仕組みになっていて、フジはその作業が好きで、魔女が桶を指さした時はそれを取りに行く役目を買って出たものだった。
というのも、それは慎重に運ばないと魔力を失うことがあったのだ。衝撃を与えたり、むやみに揺らすとただの石になってしまう。フジは丁寧に丁寧に石を運んだ。慎重さを要する細かい作業をすることが、フジには苦ではなかったし、どちらかというとうまくやるので、魔女たちに重宝がられた。
そう、フジは成功作も、それよりも多くの失敗作も目にしてきた。成功作の判断基準は厳しく、三個に二個はなんらかの瑕疵が認められた。その目で見るに、寝台にこつ然と現れたこの真ん丸の水の石はとびきり出来のいい、一級品と考えられた。誰かが投げ入れたのだろうか?一体なんのために?
フジははっとして耳に手をやった。ニッキに隠れて、夜寝る間だけこっそりつけていた、あの占い客からの耳飾りがなくなっている。あの、銀糸のマントをまとった、やたらと洒落た男から騙し取ることになってしまった、三連の滴型の耳飾りだ。
「あの耳飾りは、ヘメラだったのかしら。あたしが、耳飾りに魔法をかけて作ったんだろうか……。」
フジが呟くと、ニッキが一瞬息をつめ、そして大笑いした。
「おっほっほ!まさか、フジ様が、おほほ!」
大笑いしていたものの、次第に笑い声がすぼまり、やがて信じられない、とありありと書かれた顔になった。
「だって、まさか……。香る国でも、水の石と言ったら、しかるべき場所で、しかるべき修行を積んだ魔女様だけが、それはもう複雑な手順で作り出し、作成に失敗すれば事故をおこすことだってある、まあそれは七面倒な、もとい尊い魔法ですもの」
言っている間に諭すような口調になり、人差し指を立てて語るニッキを前に、フジは黙り込んだ。しばらくしてもずっと何も言わないので、ニッキはごくりと唾を呑んだ。
「で、ではフジ様は、どうして急に水の石がここにあるとお思いになるんですか?」
フジは初めて、秋の谷の最後の日のことをニッキに伝えた。気が付いたら、母の指輪がなくなって、代わりに水の石のようなものが手の中にあったこと、自分一人だけ水に沈むことを免れ、岩場で発見されたのは、きっとその石のおかげだと思っているということ。つまり、自分にはなんとなく水の石を作ってしまう特殊な力があるのだ、と。
碌な魔法も使えないくせにどうしてそんなに楽観的になれるのか、とニッキは笑わなかった。突拍子もないことでも一応は主人を信じてみようとする、いい侍女だった。否定することなく、フジが初めて話す水没当時の様子を黙って聞いた。
屋根に上ったときに、遠くにある魔女の塔の小窓に映る人影を見たこと。塔の階段を年老いた魔女が登っていたが、途中で転んでいるのが見えたこと。なぜ兄は自分だけを屋根にあげたのか。みんな一緒に屋根に上っていたら全員助かっていたのではないか。そこでかいだ臭いや、屋根の手触りや冷たさを、自分はきっといつまでも覚えているのだろう。
とりとめもなく話している間にニッキはみるみる涙ぐんで、ハンカチで鼻をかんだ。
「いまさらですが、フジ様、本当におつらい経験でしたわ。今まで、どう伺ってよいのかわかりませんでしたけれど、お話しくださってありがとうございます。本当に……。まだお小さいのに、大変な、恐ろしい、切ないことですわ。これからはこのニッキに、なんでもお任せください。ええと、まずはこれが本当に水の石だったとして、どうなさるおつもりですか。そういえば、水の石ってきちんと保管しないと、ば、爆発するんじゃなかったですか?魔女じゃない者が持ったりしたりしたら……わ、わたくし先ほど持ってしまいました」
ニッキは急に慌てだし、後ずさりして水の石から離れた。
フジは石を指先で抓んで明るくなりかけた窓に透かした。懐かしい色だ、とフジはそっと目を細めた。
「出来の悪いやつはね、そうなんだよ。でも、これは大丈夫だよ。とっても上手にできて安定してるから。あたしが触っても大丈夫なんだもの。ねえこれ、売れるかな。秋の谷では使い終わった水の石は、結構な贈り物として重宝されてたんだ。他の国では、売られることもあるって聞いたけど」
「ああ。水の石を売るということ、わたくしは前々から恐れ多いことだと感じておりました。やくざの所業でございますよ」
「まあ固いこと言わず、売れるなら売ってみようよ。生活も楽になるじゃない。でも、うかつに人には聞けないね。泥棒されても困るし」
「役場に届けてしまって終わりにするのではいけないのですか?爆発したらことですし」
「ねぇニッキ。捨助や兄様にばれたら、あたしがつくった確証がなくても研究院にいれられちゃうじゃないの」
「確証がない?やはり誰かの落とし物ではないのでしょうか。だったら余計、役場に」
「いや、あたしが作ったからあたしのものなんだけどさ!」
「では、いっそ研究院にお入りにななればよろしゅうございます。わたくし、やっぱりフジ様には才能があると思っておりました。鼻たかだかでございますわ」
「あたし、入らないよ」
「またそれですか。いったい全体、何が理由でございますか?」
「規則が多いからさ」
え、そんなちっぽけな理由ですか?とニッキは疑わしげに眼を細めた。人類の未来がかかっているんですよ?
「まあ理由はおいおい伺いましょう。それにしても、フジ様、本当に、ご立派になって。どうも今日に限っては変身しなくても魔女様の気品のようなものが感じられますわ」
「ありがと。ま、とにかく、どうやって売るのか確かめよう。あと、耳飾りは返せなくなったけど、売ったお金のうち、いくらかを返すしかないよね」
ニッキは売って得られた全額を返すべきだと言いやしないかと案じたが、意外にもフジの提案はすんなりと受け入れられた。
「そうするしかございませんね。でも、危険なことにならないのでしょうか?やはり役場に届けるのがいいのではございませんか?」
「ふむ。じゃ、危険だったら、途中でやめようか」
「フジ様、いつの間にか分別がおつきになって」
色々と感慨深くなりつつ、それにしても、とニッキは笑いが湧き出てくるのを抑えるのに苦労した。耳飾りはいずれ返す予定なので、大切にしまってあるとフジは言っていたが、寝る間だけこっそり身につけていたとは。身を飾ることに気を配らないように見えても、やはり年頃の女の子なのだ。本人に面と向かって指摘すると恥ずかしがるため、ニッキはひっそりと笑顔になった。