エピローグ
その後、フジは無事に国連の船、パドバローダク二号に引き上げられ、霧の国に戻ることとなった。カリオペ女史は秋の谷周辺の海域調査を行い、その結果が国連の実験結果とほぼ同じものだと分かった。すなわち、秋の谷は無事、海賊に荒らされない程に深く、静かに沈むことができたということだった。一仕事終わったわけだが、しかしカリオペ女史のげじげじ眉毛の間には、深い溝が刻まれっぱなしで、周りの者を縮み上がらせ続けた。というのは、事件の経緯についてフジにいくら尋ねても、フジが一言も口をきかなかったからだ。日がな海を眺めてばかりいた。声が出せないというわけでもないらしく、時折水夫たちの輪に混じっては笑い声をあげている。しかし会話をしようとすると、まったく貝のように口を閉ざして、ひと声も上げないのだった。では筆談はどうかというと、それについては、きつく手首を縛られていたせいで指に力が入らず、筆が持てないような仕草をするばかり、全然協力的でない。こちらの質問に肯定か否定で頭を動かすのみだが、気づくと質問の最中でも寝入ってしまう。カリオペ女史もまったく参ってしまった。ただの子供というわけではなく、秋の谷の姫という立場にあることを懇々と諭し、説明をするように言っても無駄だった。結局国連は海賊たちを追跡できないまま、精霊の支配する海域から退去するしかなかった。
一方フジは口をきかない以外は平常と変わらず、機嫌が良さそうだった。パドバローダク号の人々は皆親切で、当然と言えば当然だが手荒な真似は一切しなかった。それ以外に、フジを喜ばせることがあったのだ。それは吊るしにんにくのように海に捨てられた小人三人と再会できたことだった。
「ヒューがどさくさにまぎれて、俺たちを竿で掬ってくれたんだよ。そうして木切れに乗せてくれたのさ」
ターパチキンが臨場感たっぷりの身振り手振りで、どうやって助かったのかを教えてくれた。しかし、海賊たちがその後どうなったのかは三人とも知らなかった。ただ、カリオペ女史がその人並み外れた視覚で、
「確かに、銀色の頭をした、長身の男が乗った筏のようなものが見えた。銀色の頭の男はいるのだ」
と言い張るその一言があるのみだった。
霧の谷の港につくと、小人たちはピムローにもらえるはずの四頭立てネズミ車、十三世紀ガリバンゾー式邸宅、銀食器や固い瓶の蓋開け、それに知らないうちに追加されている何かの動物の角で作った笛と温泉卵作成機などについて話したり、ピムロー審議官やカリオペ女史の横暴さをさんざんに罵倒し、去っていった。
そうしてフジも、とうとう自由の身となった。寄港の情報が届いていないのだろう、ニッキは迎えに来ていなかった。もしかして、一人で店を切り盛りしているのが忙しいのかもしれない。体を悪くしてなければいいけれど。
カリオペ女史としてはフジを国連の施設に連れ帰り、言葉の回復を待って事情を訊きたかったのだが、フジがウォリウォリに帰ると意思表示をして、頑固を通したのだった。カリオペ女史もピムロー審議官も忙しく、帰ると言い張るフジの相手に時間を割くことはせず、好きにさせることにした。時期を改めるしかないだろう。フジも一度心を静めてから話をしに行く必要があることは、承知しているようだった。
カリオペ女史は口のきけないフジを案じ、ハーテムの街まで士官を伴につけた。士官はハーテムの警察官にフジをきっちりと引き渡したが、この馬のように間延びした顔の警察官が、ぬらりくらりしているくせにやけに粘着質で、フジは一緒に行くのが面倒だった。そこでこの警官が途中の街並みに気を取られているのをこれ幸いと、フジはとっとと逃げ出してしまった。
ウォリウォリの町では、ニッキが不安に過ごしていた。先日フジが無事ハーテムに到着したとの連絡があったが、直後にその消息が途絶えたという連絡が入ったのだ。最近はとみに海賊が右往左往していて、ウォリウォリの路上でも見かけることが数度あった。フジは無事にウォリウォリにたどり着けるだろうか。そもそも、ウォリウォリを目指してくれているのだろうか。風来坊のニタカのようにこのまま姿を消して、ニッキのところに帰ってこないなどということがあるかもしれない。最後のが一番あり得るような気がして、ニッキは胸がすかすかするような焦燥を感じた。
朝早く、まだ霧が深い時刻から起き上がったニッキは、窓を押し開いて、通りを眺めていた。霧が部屋に大量に入ってくるが、少しは路上の様子が見える程度に夜が明けてきていた。
冷たい空気が大地を震わせ、木々の葉はすっかり落ちていた。家々の窓に飾ってある花も、ヒナギクだとかカンシロギクだとかの菊科のものが多く目につく。中央通りはきれいに掃き清められているのだが、ニッキの魔法の植物の店のある小道では、落ちている枯葉がそこかしこで乾いた音を立てていた。
まだ荷車も動いていなければ、どこのかまども燃えていない、静まり帰った朝の空気に、静かな呼子笛の音が響いた。
ニッキは思わず窓から身を乗り出した。
笛の音は遠くで一度、遠慮がちに聞こえ、それきりまったく聞こえなかった。それでもニッキは無我夢中で自分の呼子笛を胸から引き抜くと、がむしゃらに吹いた。
あまりの吹き鳴らし方に、通りの窓から寝ぼけ眼の人々が次々と顔を出した。
「フジ様!フジ様!ご無事で!」
叫ぶなり家を飛び出し、最初に笛の音が鳴った方角へ走っていった。それは自分たちの家があった、森へと続く道だった。
真っ白に霧が立ち込める中、向こう側から小走りにやってくる人があった。それは紛れもない、フジだった。
「お怪我はございませんか?お具合の悪い所はございませんか?まあ、なんてお肌が白くおなりでしょう」
ニッキはフジに駆け寄り、フジの手を擦って泣いた。
「おお、フジ様!なんて儚くか細くなってしまったんでしょう。フジ様、フジ様」
なんだなんだと人々が次々と道に出てきて、フジとニッキを囲んだ。
「おやまあ、フジ。見違えるようにきれいになって!」
中の一人、面倒見のいい宿屋のおかみさんが、ニッキと見つめ合うフジを丸ごと抱きしめた。そしてしばらく二人を胸に抱えて泣いた後、胸に当たるフジの額の感触に違和感を覚え、汚れたとんがり帽子を遠慮なく剥ぎ取った。おかみさんとニッキはそこに角の折れた名残を見つけて、あっと息を飲んだ。血こそもう止まっているが、傷跡は何とも痛々しい。
「ふ、フジ様!」
「あんた、これなんの怪我?水牛の角みたいよ」
フジは口をつぐんで、照れたようにニッキに笑いかけた。あっけにとられていたニッキも、よくわからないままに、つられて笑った。
「さあ、さあ、まずはお店にお入りください。フジ様のお荷物はこれだけでございますか?」
ニッキの近くにいた男が気を利かせて、フジが首にかけていた麻袋を代わりに持った。フジは町の人に両腕を取られながら店の中に入るところだったが、男が無遠慮に袋の中身を手に取るのを見て、やめてほしいんですけど、と思った。
ごわついた袋に入っているのは、ニッキへの手紙の山だった。サローチカ号や魔女の島で、紙や布きれを見つけては書き溜めていたのだ。今更渡すのも気恥ずかしいのだが、捨てるにも忍びなく、それだけを持って帰ってきたのだ。
図らずも袋の中身を知ったニッキはとても嬉しそうだった。自分も店の二階に駆け上がると、大きな箱を抱えてきた。それはニッキからフジへの、宛先が分からないまま書いた手紙を保管した箱だった。涙で便箋がごわごわになったり、宛先がにじんでいたりするものばかりだ。ニッキも数枚を手に取ってフジに少しだけ見せたものの、すぐに箱に戻してしまった。フジは、
「じゃあ、おばあさんになったら、一緒に見せ合おうか」
と言った。
「あら、ロマンチックでございますわ」
二人は顔を見合わせて、微笑んだ。
余談だが、捨助にとうとう説き伏せられたユメハジーム公ことフジの兄のニタカは、香る国の第一魔女の夫という立場のまま、秋の谷の王として即位することになった。簡素な即位の式には、フジとニッキも呼ばれた。
香る国での滞在中、捨助は幾度も、フジにそのまま香る国に留まるよう勧めた。即位を通じて、ニタカの立場は安定を見せてきた。香る国での居心地も以前よりは良くなるはずだった。自分の力が全く及ばぬ遠い土地でフジが危険に身をさらす状況は、もうまっぴらだった。安全のためにも、また魔女としての修行を積むためにも、ぜひとも香る国の研究院に入ってもらいたい、これが捨助の悲願になっていた。
「今後は、この国における姫様の待遇も良くなるでしょう。そうなれば、大手を振って研究院で学ぶことが可能なのです」
幾度断っても、連日しつこく言ってくるので、フジはいい加減うんざりした。
ある夜、再度この話を捨助がし始めたとき、フジは思い切って、捨助の胸に自分の手を乗せてみた。小人に教わった、女の人が使う「お願い事に確実な方法」を試してみるいい機会だ。
ニッキがお茶の用意をして居間に戻ってきたとき、捨助はもう目を白黒させて、挨拶もしないまま退室していった。
「まあ不作法だこと。なんて慌て者なんでしょう」
ニッキはぷりぷりと怒ったが、ふとフジの方を顧みた。
「フジ様、捨助に何かなさったんですか?」
「うん、戴冠式が終わったらまたウォリウォリに帰れるようお願いしてみたんだけど、どうだろう。堅物の捨助には効かない方法なのかもなぁ。とっておきだったんだけど」
「特別な方法でお願いをなさったんですか?」
「そりゃもう、特別も特別さ。教えられないけど」
「気になりますわ」
「うん。でも、ニッキ、色々とごめんね」
「あら!本当に気になりますわ」
それから後、捨助が研究院の話でフジを悩ますことはなくなった。無事ニタカが王となったのを見届けた後、フジとニッキはウォリウォリに戻ることができたのだ。
二人は町中に新しい家を構え、植物を売ったり、占いをして睦まじく暮らした。
長らくお付き合いいただき、ありがとうございました。




