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 秋の谷は古くから、制御の難しい水の石を世襲の王族を中心によく守ってきたが、最後は水の精霊の突然の暴走を制御しきれず、谷ごと水没してしまった。高台に建っていた城がいよいよ水に沈もうとしているとき、フジの家族で魔女の力を持たない王子や姫たちは、母の寝室に集まっていた。兄妹たちは各々、母が普段身に着けているものを手にし、がたがたと震えていた。少し前から、パン、パン、という短い音の後に振動が伝わってきて、魔女たちが守っている水の石が一つ、また一つとはじけているのを兄妹たちは感じていた。自分たちの谷はもうおしまいなのだ。

 一つきりの窓の外は夜よりも暗く、何も見通せなかった。末の妹が窓の外が暗くて怖いと泣くから、兄が布団で窓を覆った。隣の部屋の窓が割れ、水が侵入してくる音が聞こえた。

 母の寝室もいよいよ床から、窓からと水が入りこんできたとき、兄妹たちは火のついていない暖炉の前で皆ひっしと抱き合っていた。フジは当時固く太っていて暑がりだったので、誰かとくっついているのが息苦しかった。少し腕を解いて、ほーっと一息つくと、仲の良かった五つ上の兄が、その様子を見て笑った。それから、フジが握っていた母の指輪を妹の指にはめ直すと、上からハンカチで固定してくれた。フジの指はぷくぷくと太っていたが、それでも母の指輪は大きくてはずれそうだったからだ。それから、フジの肩を抱いて暖炉の奥へと促した。フジは意味がわからないまま暖炉に半ば詰め込まれる形で収まった。暖炉の内側には梯子がかかっていて、兄はフジにそれに登るように言う。フジは断った。なぜこの最期のときに、一人でこんな暗いところを登らなければならないのだ。しかし兄は鬼気迫る表情で、登れと命令する。いつも温和な兄だったが、水が迫ってくる恐怖に目に隈を宿し、汗ばんだ腕でフジを無理やり押し上げる。外の様子を見てきてほしいのだろうか。フジは一人になるのも、真っ暗な煙突を抜けていくのも怖かったが、兄の迫力に負け、仕方なく煙突を上っていった。

 梯子はさびて劣化していて、途中まで来たところで半分から下が崩れ落ちていった。下を振り返ると、兄はとっさに顔を引っ込めたので、ぶつからずに済んだようだ。梯子がこれではもう戻ることもかなわない。後で部屋に戻るときにはいったいどうしようかしら、と考えながらも、とりあえずフジは速度を上げて出口を目指した。もう少しで出口というところで、今一度下を振り返った。暖炉の底に兄の小さく蒼白な顔があった。向こうからはもうフジの顔が見えないのか、うつろな目で煙突を見上げていた。

 煙突の外に出ると、世界は真っ暗だった。城の三階の高さまで水がきている。魔女たちが詰めている城の一番高い塔はすべての明かりが消えている。

 春なのにやたらと枯葉が水に浮いていた。銀杏の木のてっぺんがかろうじて水の上に出ていたが、昨日まで緑だったはずの葉が色づき、黄色く光っている。空からは大きなエンジン音のようなものが響いてくる。どこからかとてつもなく生臭い臭いがやってきて、時節鼻を掠める。フジは、一通り外の景色を眺めると、部屋に戻るために煙突の中を覗いた。ところが、すでに煙突内にも水が浸入してきている。フジは光る枯葉を一枚煙突穴に落とし、それが煙突の半分の高さのところで水面に浮かんだのを暗い気持ちで眺めた。なぜだか犬の吠え声が煙突の中程から響いてくる。皆はどうなったのだろうか。煙突の水底に誰かの白い素足が見えるような気がする。

 フジはめまいを感じて屋根に倒れた。手だけはどうにかつくことができたので滑り落ちずに済んだが、四つん這いになったまま動けなくなってしまった。数十メートル先にちらちらしているものが、木の葉ではなくて人の手だということに気が付いた。それからもっと近くで音がしたのでそちらを見ると、人が肩まで浮かび上がり、大きな口を開けたかと思うとまた沈んでいった。

 とうとうフジの膝まで水が来た。ふと、指輪が熱くなっている気がして、右手をみた。ハンカチがほどけ、指輪が消えている。その代わりに、手のひらに何かを握っているではないか。指の隙間から見るに、それはフジが何度もみたこともある、水の石に似ている。驚いて手を放すと、石は屋根を転がって行く。フジはとっさに追いかけた。そこで足をもつれさせ、顔からすてんと転んでしまったのだった。

 それからのことは覚えていない。人から聞くところによると、フジは秋の谷から数百キロ離れた温泉地の岩場に裸で倒れていたのを、観光客に見つかって助けられたのだった。

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