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四十二

「フジ、本当にこれでうまくいくのかよ。もう俺、あんなねとねとの体にくっつくのいやだよ」

 ターパチキンが服にしみ込んだ粘液を拭き取ろうと苦戦しながら言った。

 フジの作戦では、砂糖の小人には、日中はずっと砂糖になってロディオンにへばりつき、浸透圧を利用してロディオンの体の水分をできるだけ抜くことになっていた。

 バダンスキーとマチャルコフは手分けしてロディオンの専用トイレや専用の椅子、塩がなくなるよういつもピカピカに磨き上げられているものに塩水を吸わせる作業をしている。彼の食事に塩を多めに振りかけたりもしている。とにかく、航海長を乾かして水の石もどきを歯の箱から取り出すまで仕向ける、というのが計画の一部であった。やたらに人頼みで、不安定な計画である。

「まあ、これくらいしかできることってないから、やるしかないよ。ご苦労だけども」

 フジははちみつの瓶を開けて、黄金色の蜜をパンに浸しながら言った。バダンスキーが目を怒らせた。

「おい、それは俺たちの報酬だろう。許可なく減らすな」

「まだあたしのだよ。はちみつがなくならないうちに、早く仕事を終わらせないとね」

 フジは瓶の蓋をかたく閉め、パンを自分の口の中に放りこんだ。パンの大きさから言って、自分たち三人がパンをもらえると思っていた小人たちは憤慨した。

「お前は鬼だ」

 フジは顎をもぐもぐと動かしながら「見たらわかるでしょ」と答えた。ターパチキンはまだあきらめきれない様子のようだが、バダンスキーはすぐに切り替えた。

「さっき、ターパチキンが砂糖から元の姿に戻るとき、掃除の少年がこちらを見ていた。あいつはフジヤマのところにもちょくちょく飯などを運んでくる奴だろう?もしかしたら、気づいたかもしれない」

「ヒューが?まさか」

 ヒューが小人を見つけたとしたら、大騒ぎするに決まっている。あるいは捕まえようとして、おおっぴらでまぬけな罠をしかけたりするだろう。

「心配ないんじゃない?ヒューよりも、犬のボーに気を付けて。この間トイレのために甲板に出たら、くんくんあたしのにおいを嗅いできたから。小人臭がするのかも」

「俺たちは無臭だ。だがお前は臭いぞ、フジヤマ」

「あたしだって無臭だ。今の言葉を取り消したら、パンを少し分けてあげるよ」

「う、うむ。失言だった。取り消そう」

 バダンスキーは自分の両腕の臭いを嗅いだり、自分の息のにおいをはーっと確認し、うん、大丈夫、と頷いた。

 フジは約束通り、小人たちにはちみつをつけたパンを手渡した。でもとてもちびたパンであり、小人たちは一様にがっかりしたり文句をいったりしたが、それでも待ってましたとばかりに食らいつく。マチャルコフがふと食べるのをやめ、耳を澄ませるように体を伸ばした。

 怪訝に思ってフジが様子を窺っていると、マチャルコフは二人の小人に耳打ちしている。

「なんだと?」

「カラス?あのやくざなカラスが騒いでるって?」

「しっ」

 マチャルコフとバダンスキーが慌ててターパチキンの頭の野菜くずを薙ぎ払った。

「なぁに?」

 フジは聞いたが、バダンスキーは「なんでもない」と言い、自分たちの頭の上に乗っている玉ねぎの皮も外し、フジには聞こえない声で何やら話し始めた。そのまま相談が終わると、その後は各々で好きなように時間を過ごした。バダンスキーは縄の屑で草履を編んだし、ターパチキンは柔軟体操、マチャルコフはどこかにいなくなってしまった。

 フジははちみつの瓶を抱えて考え事をしていたが、視線を感じて目を上げると、バダンスキーがこちらを見つめている。

 フジと目が合うと、バダンスキーは「こほん」と咳ばらいをするしぐさをして、改めて野菜くずを頭に乗せ、居住まいを正した。

「おい。よしんばお前のたてた穴だらけの計画通りに事が運んだとしても、ヤガーの石は歯の箱に入ってなきゃほんのちょっとしかじっとできないんだろ。石と一緒に爆発したくなかったら、俺たちが石を持ってきた後、お前は一分以内に涙を出すんだぞ」

「え?涙?涙ってなんだ?唾か汗じゃなかったっけ?」

 バダンスキーは頭を振った。「涙だ」

「えー。そんなに急に涙なんて出ないよ。惜しいなぁ、唾ならすぐにでるんだけど。本当に涙じゃないとだめなのかな」

「涙だって簡単に出るだろう。悲しいことでも考えたらいい」

「あくびくらいでしか出ないから、どうだろ。でも、人より溜まってるかもしれないから、一度出て止まらなくなったりしたらいやだなぁ」

「何事もほどほどが大切だ」

 バダンスキーは言ったきり、奇妙な顔をして黙りこくった。髭をかすかにふるわせて、一点を見つめたきり動かない。フジが首を傾げてバダンスキーをのぞきこむと、まさに小さな小さな涙の粒がぽつりと小人の目尻から落ちたところだった。

「あっ。どうしたの?どこか痛くした?」

「どうしたの、じゃない。のんきな奴だな。お前にお手本を見せたんだ。こんな感じで、ちゃちゃっと涙を出すんだ。さて、俺らはもう行くか」

 バダンスキーはきざなしぐさで涙を拭うと、フジの顔を両手で指さし、「よろしくな」と言って、ターパチキンと共に壁の穴に消えていった。

 フジは途方に暮れてしばらく穴を見つめた。悲しいことを考えるより、体を痛めつけた方が即効性がありそうだ。腿をつねってみたが、あまりに痛いので、考え直した。やはり悲しいこと路線の方がいいかもしれない。そもそも、ほどほどに悲しいこととはどれだろうか。これまでの人生、結構悲しいことはあった。その中でも、ほどほどの悲しさだったこと?先ほどバダンスキーに臭いぞと言われたのは悲しかった。これについて深く考えてしまうと、立ち直れないかもしれないので、これはほどほどどころの悲しみではない。

 それでは、秋の谷にいたころ、気に入っていた揺り椅子にスープで染みを作ってしまったことは?でもそれを思い出すと、その汚れた椅子が谷とともに沈んでしまい、もう見ることさえできないということが、芋づる的に思い返されてくる。これもほどほどどころの悲しみではない。鑑みるに、大小すべての悲しみは、すべて同じように、悲しみの深い沼に沈んでいくのかもしれない。一見大したことのない悲しみでも、沈んで行きつく先は極度の悲しみと一緒かもしれない。

 一点を見つめて物思いにふけっていると、涙は出ないものの、貧乏ゆすりが出始めた。フジはのろのろとついていた頬杖を外すと、机に突っ伏して、両足をゆすった。天井裏や床下で、小さな生き物が歩く音がする。ネズミにしてはのんびりしていて、小人にしては重たげな音だ。小人でもネズミでもない何かが、この船にはまだいるのかもしれない。

 どれくらいそうしていただろうか。さっきまで凪いでいた海が少し動き始め、船を揺らしている。ふと気配を感じて横を見ると、去ったはずのバダンスキー、ターパチキン、それにマチャルコフがいつの間にかフジの肩の近くに並んで立っていた。そっとまばたきをすると、三人は怪訝な顔をしてこちらを見ている。

「バダンスキー、どうする?この子泣けないって。鬼には涙がないのかもしれない」

「その貧乏ゆすりを一度止めてみろ」

 バダンスキーに言われ、フジは素直に貧乏ゆすりを止めようと体に力を入れた。ところが、今度は全身が小刻みに震えだした。

「やい、お前病気か?すごい震えてるぞ」

 小人たちは心配そうに、うろちょろとフジの前を歩き回った。それからマチャルコフが、ターパチキンの頭の上の野菜屑を半分奪って、自分の頭に乗せた。フジに向かって話そうとしているらしい。マチャルコフがしゃべるのを聞くのは初めてだった。出てきたのは、こんな話だった。

「あるとき、ひどい枝毛の症状に悩んだ男が、床屋に行きました。それから仕事場に行って、それを同僚に話しました。同僚が、『おい、それで枝毛は良くなったのかい』と尋ねました。男は答えました。『わかんないよ、毛を床屋に置いてきちまったもの』だとさ」

 マチャルコフの声はとても小さかった。言った後で、恥ずかしそうに笑っているので、どうもジョークらしい。震えるフジを心配し、笑わせようとしてくれているのだろう。そのことに遅れて気づいたフジは、少しだけ唇の端をあげた。続いて、ターパチキンが身を乗り出した。

「フジは十五歳にしては、大人だよ。よくやれてる。だって俺が十五の頃には、まだ十三のがきんちょだったんだもの」

「ナンセンス!」

 ターパチキンとマチャルコフは、腹を抱えて笑いだした。これもジョークらしい。

 再び貧乏ゆすりをするように心がけると、フジの震えが止まった。バダンスキーが、ほっ、と小さくため息をついたようだった。

「フジヤマ、何を思い出したか知らんが、深刻になっちゃいかんぜ。簡単なことだ。たとえばだな、お前、子供はいなかったか?」

「バダンスキー、さっきは冗談でフジのこと大人だと言ったけど、実際、こんなお子様が人の親だったら、世も末でしょ」

 ターパチキンが口をはさんだ。

「ふむ、そうだったか。俺が十五のときにはもう息子がいたんじゃなかったかな。まあいい。たとえばだな、赤ん坊ってのはやたらと柔らかくて、いいもんだ。祝福された存在だ。刻一刻と老化していく俺とはまったく正反対のところにいて、輝かしい未来に包まれている。しかしな、夜なんかに、このかわいい奴を見ているときにふと、思うのさ。明日この子が目覚めるとする。そうすると、この子は何も知らないけれど、将来に横たわっている死に、一日分、近づいているのだ、と。無邪気に過ぎていく日の分だけ、破滅に向かって突き進んでいるんだ。そんな風に考えると哀れになってな、涙が出てくるぜ。だけど、なあに、そんなものは気の迷いだ。十分後くらいには、すぐに立ち直っちまえる。そういう、つまらないようなことを考えて、悲しい気分になって涙を絞り出すのがコツだ。おっと、いけない。ほら、ちょっと考えただけでこうなる」

 バダンスキーが目頭を指で押さえながら言った。しばらくそうして涙を押さえていたが、どうにも止められないらしく、片手で『待った』の合図をしたまま動かなくなってしまった。

「バダンスキー、泣くなよ。あんたんとこの悪たれ坊主たちは、どう考えたって、碌でもないいたずらをしてピンシャン元気にしてる頃だよ」

 ターパチキンがバダンスキーの肩を抱いたが、バダンスキーは肩を震わせるばかりで、話すことさえできない状態だ。仕方がないので、マチャルコフが代わりに話し出した。

「ま、あれだな。みんなちょっと落ち着こう。フジも、外に出て風にでも当たってきたらいいよ。昨晩の嵐の疲れで、見張りの奴以外はすごい勢いで昼寝してるから」

「外から鍵がかかってるの」

「外してあげるよ、めったにない機会だもの、気分転換しておいで。それから、三番目のボートを覗いてごらん」

「勝手に出て怒られないかしら」

「さぁ、ね」

 鳴いていない方の小人たちとフジは顔を見合わせ、肩を竦めあった。


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