三十六
ブツが指さした先は、やはり、来るときに見た浜の廃墟だ。道なき道を進んできたので見える角度は違うが、まごうかたなきあの家だ。空洞になっている中は見えないが、先ほどと同じ佇まいで、太鼓の音はもちろん、人の気配もない。いや、誰かの足が見えるような気がする。壁に背中を預けて、誰かが地べたに足を投げ出している。草に隠れてはいるが、少しだけその足が見えるのだ。
「ね、あれってさ」
フジはヒューを振り返った。ヒューと、それからロディオンは、再び異常な汗をかいている。二人とも顔色をなくして、ぎょろぎょろした瞳でその家を見ている。
「確かにいるずら……。もっさまな鬼が。一、二匹。二匹で全部か?」
「あいつら、あれは塩の壁を塗りたくっているずら?」
いや、フジの目には鬼は見えない。そこにあるのは、往年は暖かな灯りが家族を包んだであろう、壊れたおもちゃと土管が転がる、うら寂しい廃墟だ。
「え、何言ってんの、皆。それより、あそこにいるのは船長じゃない?あのとがったつま先の靴が見えるよ。寝てるのかな?起こしてこよう」
フジが駆けだそうとすると、三人がかりでものすごい力で止められた。
「あばば!」
「あぶねぇ!食われるぞ」
「塩の壁に塗りたくられるぞ」
「離して。いったい、あんたたちは、何を見てんのさ!あったまおかしい」
三人が見ているもの。廃墟の壁を、二匹の鬼が補修している。壁は土ではなく、塩でできているらしい。そこに船長と、もう一人誰かが埋め込まれているらしい。
そう言われてフジがもう一度家を見ると、船長以外にもう一人、誰かの腕がにょっきりと見える。でも塩の壁の工事をする鬼なんて見えない。丈高い草の中に、静かに廃墟があるのみだ。自分の目がおかしいのだろうか?
「ちょっと離してよ。なんぞね、そこは胸よ、スケベ航海長!」
「胸も背中もわかるもんか!俺をとがめるならその足にへばりついている小僧をさっきにとがめるずら!」
「足はいいずら。俺は足が好きだ」
三人ともとげの実の香りがプンプンして、フジは目が回りそうだった。もうめちゃくちゃだ、とフジは天を仰いだ。軟体生物の皮膚を持つロディオンは、普段は誰かに触れるのも、誰かに触れられるのも極力避けている。自分以外に人がいる場合、みずからが誰かを取り押さえる役などは絶対にしない。それがこのときは、意地でも離さないとばかりにフジの胸にしがみついている。
「わかった、わかったから。やめてっちゃ」
フジは一旦落ち着こうと、抵抗をやめた。フジが動かなくなると、自然と三人も離れていった。一体、三人が正気をなくしているのか、自分が正気をなくしているのかフジはわからなくなってきた。しかし三人は明らかに病気のような様相で、髪を振り乱し、汗みどろでひどく顔色が悪い。もっとも、彼らには自分もそう見えているのかもしれない。
「いい?あそこに鬼がいるんでしょ?でも船長たちもいる」
フジが言うと、三人は目をくぼませて、こくこくと頷いた。何も考えていないような、知性の光らない瞳だ。学校で出来の悪い生徒、つまり昔のフジ自身だが、それを前にした先生とはこんな気分だったのだろうか。面倒をかけたものだ。
「あたしはほら、鬼みたいな見た目してるでしょ。だからちょっとあの鬼たちに挨拶がてら、船長ともう一人を助け出してくるよ」
「フジは鬼みたいな見た目じゃなくて、本物の鬼になっちまっただら」
ヒューがぽつりと言った。フジは無視した。
「ない、フジが囮になっている間に、他のしゅは船長を壁から引き抜こう。俺は残念ながら塩の壁には触れないじゃが」
「ずるい、と思うが、ま、航海長のそれは仕方ないだら。でも、サローチカ号につくまでにあいつら絶対気づくぜ。そんでおいかけてくるずら」
「うむ。その可能性は否めないだら」
ブツとロディオンが口々に言うも、サローチカ号はすでに目の前にあるのだ。ちょうど、この家のすぐ裏手の浜に停泊している。舳先がすでに見えているではないか。フジはそれを伝えようとしばらく言葉を尽くしたが、全然通じない。とにかく、ポウが戻ればなんとかなるだろう。まずはポウを起こしてくることだ。
「そんなわけで、ちょっと行ってくるね」
と、ロディオンがその手首を握った。
「待つら!そんな気軽に行くやつがあるか。もう二度と会えないかもしれないのに」
「だらだら。まずこのとげの実を食ってから行くといいずら。最後の飯になるかもしれねえら」
「ずら」
あんたいつからそんなに人情深くなったんだ、とフジは手を振りほどこうとするも、ぬらぬらした手はフジの手首をがっしりとつかんでいる。そうしてブツが例のとげの実の殻をむいて、取り出した黄色い実をフジの口に押し付けてくる。いらない、と言おうと口を開けるとそのまま突っ込もうとしてくるので、フジは必死に身をよじった。そのうち、茂みをがさがさと揺する音がして、何者かがこちらに近づいてくる気配がしてきた。
「あばば、においが強いから、鬼が感づいたずら」
「近づいてくるずら。早う口の中に突っ込め」
「それよりずらかるら!」
三人は蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。フジは黄色いぐにゃぐにゃした実を口に詰め込まれ、つんとくる果物の臭いに目を白黒させていた。
茂みから出てきたのは、サリーだった。先ほどまで汗と泥にまみれたむさい男たちを前にしていたので、サリーのさらさらした髪やこざっぱりとした服は、まさに一服の清涼剤のようだった。しゃらくさいと思っていた自分が申し訳ない。地面に転がっているフジを見つけると、安堵したように笑顔を向けてきたが、フジの口に黄色の実が詰まっているのをみると、眉を寄せた。
フジは一度口にいれた食べ物を人前で吐き出すわけにもいかない、と思った。そこで急いで咀嚼した。食べてみると、なるほど、ブツの言う通り、悪くはない。悪くないどころか、とろりとした甘みと芳香が、なんとも美味であった。
「吐け!」
ごくりと嚥下した途端、サリーが飛びついてきて、遠慮なく口に指を突っ込んできた。
「な、なにをする!無礼者!離れもさい」
殴られるのは許す。これまでも不本意ながらさんざん手荒く扱われてきた。でも口の中を触るなぞ、無礼千万!とフジはなんだか急にはらわたが煮えくり返る気がして、サリーを突き飛ばした。サリーはとても軽く、どんぐりのように転がって木の幹に背中をぶつけた。
咽るサリーを見ていると、フジはますます腹の中が怒りで熱くなるのを感じた。サリーの指の塩気が不快に口の中に広がる。いや、おかしい。自分は、なぜこんなに腹を立てているのだろう。
違う。はらわたが煮えているのではない。実際に胃の腑が焼けるように熱いのだ。とげの実が通った口、喉、胃がとても熱い。
フジは深く息を吐き、土に手をついた。苦しかった。サリーがようやく呼吸を整えて、フジの肩をつかんだ。
「あの実を食べると、恐ろしい幻覚を見たり、狂暴になったりするんだ。船長たちもこの実を食べて、争いになってばらばらになってしまった。早く、吐け」
サリーはフジの喉に指を再びつっこみ、フジが飲み込んだ実を吐かせた。フジは今度は抵抗せず、素直に吐くことに専念した。
「これで大方大丈夫だと思うが」
夢中になって吐いていると、サリーがそう言い、背中をさする手がなくなった。すうと涼しくなった背中を寂しく思って振り返ると、サリーは身をひるがえしてフジから離れたところだった。直後に、先ほどサリーがやってきた茂みから、同じくサローチカ号の乗組員であるダニーという若者がやってきて、サリーに飛び掛かっていった。奇声をあげて、目の下にやはり隈取のようなくぼみを宿している。
「フジ、水場だ!正気を失っている奴らは、水場が苦手になる。サローチカ号に逃げこめ」
サリーはフジに向かってそう叫ぶと、自分はマントを裏返しにして派手な裏地を表にすると、ダニーを誘うように茂みの奥に走っていった。
水場が苦手?サローチカ号に逃げろって?でも、彼らが水場を苦手としてなかった場合、船に入ったら逃げ場を失ってしまうのではないだろうか。サリーの情報は確かなのだろうか。しかし、とにかくも今はポウの安否を確認せねばならない。
フジは歩き出した。目指すのは先ほどからぴくりとも動いていないつま先だが、ポウは寝ているだけに決まっている。一歩、一歩と足をひきずるように歩き、フジは悲鳴を上げた。ポウと思われる人物は、塩の壁ではなかったが、盛られた土の中に上半身が埋められている。フジは駆け寄って土を掘り始めた。鼻のところだけかろうじて土から出ている。鼻の周りの土を払いのけると、やはりポウだ。
「どうか、どうか。お願い」
フジは一心不乱に土を掻いて、上半身を掘り出した。そうして出てきたポウのを抱きしめた。頬に触れるが、自分の手にもポウの頬にも土がつきすぎていて、体温が確かめられない。心臓に耳を寄せるも、こちらも音がしない。土や服に遮られているのか。フジはむやみとポウの胸を拳でたたき始めた。
「起きろ!起きろ!」
頬をこすったり腕や胸を叩いたり、抱いて背中をさすったりした。やがて、フジは自分がひょいと持ち上げられたのを感じた。ふと気づくと、ポウが立ち上がってフジを抱え上げていたのだった。
生きていた!
感極まって、瞼がぴくぴくと動いた。それから安心して、ポウの頭をそのまま抱え込んだ。ポウは何も言わず、うつろに虚空を見つめている。先ほどサリーも言っていたが、船長もとげの実を食べたらしい。頬がけっそりとこけ、眼もとに赤黒い隈が浮き出ている。
ポウはフジを抱えたまま微動だにしない。この人も正気を失っているのだろうか。でも、とにかく生きてはいる。事態はそんなにのんきなものではなさそうだけれど、フジはポウの体温をとてもうれしく思った。鼓動を確認するように、フジはその胸に頬を摺り寄せてみた。固いが、少し弾力も感じられる筋肉と、土とココナッツの混じった匂いに、うっとりと目を細めた。
ところが、至福の時は短かった。
茂みから、唸るような声をあげながらブツが、少し遅れてダニーとヒューとロディオンが、いずれも太い木の棒を手にして、こちらに向かって猛然と向かってくるではないか。途中ダニーがヒューをめがけ、その棒をめったやたらと振り回し、ヒューが倒れた。どうも完全に正気を失ってしまっている。目につく生き物を滅多打ちにしている感じだ。
フジが声を上げると、ポウも動いた。そしてフジを抱えたまま、もう一人、廃墟に埋まる男めがけて走り出した。
もう一人は、どう見ても腕だけしか土の上に出ていない。もう手遅れなのではないか、とフジは思った。掘り出そうが、見捨てようが、あの人にはもはや関係なのではないか。それならば、自分たちはこの場を急いで去った方がいい。でも、フジはそれを言うことができなかった。
ポウは土を掘るために、フジをそこらへんに放り投げた。
「ぎゃっ」
投げられたフジは尻をしたたかに打ち、悶絶した。
ポウは半狂乱に土を掻きだしている。土は固められているらしく、指が土を削るたびに鈍い音がする。必死に土を掘るポウの横顔を、なんて美しいんだろう、とフジは思った。腕の筋肉も、その動かし方も、まぶしいほどに男らしい。
ブツたちの足音が近づいてきた。皆口元に泡を吹いているのか、なんだかいつも以上に汚れているし、走り方も変だ。
ところで、フジはいつも、自分が夕暮れ、もしくは朝ぼらけの中にいるような気がしていた。その曖昧に暗い世界は、いつまでも暮れもしなければ明けもしなかった。釈然としないので、昼でも夜でも早く来てもらいたいものだと思っているのに、一向に明るさは変わらず、薄絹を通しているように物の輪郭がぼやけ、細部が見えてこない。
こんな心象になったのは、谷が沈んで観光客に発見された頃からだった。声をかけられて目を開けると、慌てた様子の観光客がいて、フジが朝か夕方かを尋ねても、「今に助けがくる」とか「けがはないから大丈夫だ」とかそんなことを聞かされるばかりで、一向に時間がわからない。鳥が木の中で移動する度、ぼたっと花が落ちてくる音がやけに耳についた。観光客は結局、フジを誰かに預けるとそのまま、フジに時を告げることなく別れた。次に預けられた人は、フジの名前やら年やら出身やら、逆にこちらに質問するばかりだった。フジはとてもじれったかったが、なんとか質問に答えると、疲れてまた目を閉じ、眠りに落ちてしまった。
それ以来、自分はその時間という概念のない、ほのぼのとした、でも紗にかかったような景色の中に取り残されているように思うのだ。
話を戻すと、ここでこの生き埋めになっている男を見捨てれば、景色はすっかり夜になって、自分はもっと暗い道に入り込んでいける。そんな考えが、必死になって土を掻くポウを見ているうちに自然と湧き出てきた。逆に見捨てなければ、このままこのぼんやりした明るさの世界が続くように思う。
しかしそのとき、土の中の男の指がかすかに動いたように思った。そこでフジもようやく我に返り、一緒に土を掻きだした。もう半ば男は掘り出されて、ポウに抱き起されるところだった。あとは足のところの土を掘って援助するだけだ。がりがりと指に伝わる振動が、先ほど打った尾てい骨に響いた。
ブツがつんのめって転んでいる。そしてダニーはすでにフジの背後にいた。手に構えているのはいつのまにか棒ではなく、畑で使う鋤になっていた。それをフジに向かって振り上げたとき、再びポウがフジを横抱きにさらい、走り出した。もう片方の肩にはようやっと掘り上げたであろう男を担いでいる。
「走れるか」
しばらく走ると、ポウが聞いた。
「走れる」
フジが答えると、太い腕から降ろされた。ところがいざ走り出すと、ポウは眼前のサローチカ号の方ではなく、森の奥に向かって行く。
「反対だよ。船へ!」
何度も方向転換をさせようと試みたが、敢え無く船長は男を抱えて薄闇の広がりつつある森の深くへと進んでいくので、フジもやけくそになってついていったのだった。




