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三十五

 船は翌日停まった。甲板でどたどたと停泊の作業をしているのが聞こえていたが、やがてそれも終わった。時折誰かが大声で何か言っているのが聞こえるが、一向に船は動く気配を見せないまま、丸二日たった。水の買い出しにしては時間がかかるな、とフジは思った。今日の朝は、食事を運んでくる人もなかった。フジはとうに空になった水袋をもてあそびながら、船牢でごろごろしていた。喉の渇きも耐え難いが、エンジン音もしない、景色もないというのはとても暇で、こちらを堪えるのも難しかった。そろそろ強く戸を叩いてみようかしらん、いや騒ぐと怒られるだろうか、と考えながらじっと待っていたわけだが、いやもう待てない、誰かを呼んでみよう、と思い始めたころ、ようやくヒューが下りてきた。牢の隙間からひょいとビスケットと干し肉を放ってよこした。

「出かけるぞ」

 手際よく鍵を外して、扉を開ける。フジはわけがわからないものの、牢を出て、急いで水袋に水を満たした。すでに昼過ぎらしく、太陽の光がまぶしい。すぐそこに小さな島があった。浜辺に石造りの二階家が一軒あるが、荒れていて、人が住んでいるような感じではなかった。

 小走りでヒューのところに戻ると、小舟に乗り移ろうとしているところだった。小舟にはすでにロディオンとブツがどっしりと座り込んでいた。

「船長たちが、一昨日の朝上陸したきり、戻ってこない。昨日の朝に船長を探しに出てった奴らも戻ってこないんだ」

 ヒューが早口に説明した。聞けば、一昨日の朝、ポウをはじめとした五人が島に降りたという。島にわずかに実る果物と水を採ってきたら、夕方には出航する予定であった。ところが、夕方になっても戻ってこない。島の奥深くまで行ってしまい、どこかで野営でもしているのだろうということになった。翌朝になっても誰も帰ってこないので、サリーらが探しに出た。サリーらは、船長が見つからないにせよ、夕方には帰ってくるとのことだった。ところが彼らも帰ってこない。

「なんであたしが行くの?いざというときにあたしじゃ、あんまり役に立てないかもしれないよ」

「俺がいくからさ。俺がいなくなったら、誰がお前に飯を持っていくんだよ」

 フジは声を潜めて返した。

「あんた船にいてもご飯持ってこない日があるじゃないの。ごまかさないでちゃんと説明してよ」

 以前、ヒューはフジの食事を勝手に食べつくし、食事を運ばなかったことがあった。

「そ、それはなかったことにしてくれる約束だろ。航海長に聞かれたらどうするんだよ。お前は船長派だから白羽の矢が当たったんだよ。複雑な事情なんだからさ、細かいことはいいじゃないか」

「あんたいつもあたしのご飯をいいように食べて、肝心なことは言わないなんて」

 ヒューは慌てた様子でフジの口に手でふたをし、ぼそぼそと説明した。

 この島に停泊して以来、船員たちが悪夢を見ているという。人それぞれ違う夢だが、全員がもれなく悪い夢にうなされている。この島はどうも縁起が悪い。妖怪でもいるのかもしらん、と海賊たちは慄いていた。できることなら、そうそうに退散したいと考えているのだった。それに、月の関係で、この島付近は明日の昼前には渦ができ始めるという。渦に飲まれたら船は壊れてしまうので、いっそ戻らない連中はあきらめて、残った船員だけで今日中に出航しようという意見が出ていたらしい。

「いや、あたしは悪い夢を見なかったよ」

 フジは夢さえ見ずに朝も夜もうとうとしていた。

「鬼には悪霊も手を出さないのかもな。とにかく。お前は船長に惚れてるだろ。船長を助けたい側だから一緒に行くんだ」

「そりゃまあもちろん。ポウを助けることにやぶさかではないよ。でも、とすると、船に残ってる人は船長を置いていっちゃおうっていう反船長派なの?あんたたち、船長派と反船長派で対立してるの?」

 フジはふとロディオンに目をやった。視線に気づいたロディオンはいとわし気に顔を背けた。

「派閥などない。ただ臆病風に吹かれている奴らと、そうでない奴らというだけだ。日没までに船に戻る。口を動かすよりも、手と足を動かすことに集中しろ」

「はぁい」

 そんなふうにおしゃべりをしている間に小舟は砂浜について、四人はさっそく歩き始めた。船から見えた石造りの家の横を通り過ぎたが、壁が一面壊れていた。斜めに倒れかけた柱やさびたドラム缶などがごろごろと転がっていて、思った通り、人が住める家ではなかった。

 それでもここに人家があるのだから、島のどこかに人が住んでいるのだろうか。ヒューに聞くと、「今は無人島さ」と一言返ってきただけだった。

 浜を突っ切ると、森が始まった。大きな羊歯植物が生い茂り、虫が甲高く鳴いている。どうもヤガーの島に似た雰囲気だ。ひょっとすると、ここも彼の島同様、以前に水没した島が浮き上がってきたところなのかもしれない。ただ、しばらく行って羊歯の茂みを超えると、ヤガーの島よりは植物にいきいきとした力があるように感じられてきた。羊歯だけではなく様々な植物があり、葉の大きさ、形状、色、どれもに多様性があった。

「お、とげの実があるぞ」

 ブツが上の方を指さした。そこには苔むした背の高い木があって、枝の中途からにょっきりと、とげとげしい大きな実をぶら下げている。初めて目にする植物だった。

「やったね。ちょっくら、採ってきます」

 ヒューがするすると木に登り、小ぶりな鉈で実の根本を数回叩くと、重たげな音を上げて実が落ちてきた。ちょうど落ちた先に石があってこれにあたったのだが、実は割れもしなければ、ヒビさえ入らなかった。

 隣の枝にも二つついてる、とロディオンが指示を出すと、ヒューは身軽に枝を飛び移った。そうやってまた二つ落とし、今度は自分で上の方の枝についている実を求めて、葉の影に隠れてしまった。

「木の下から出た方がいいな。どこから落ちてくるかわからん」

 頭に当たったら大ごとだ。三人は少し離れたところに移動し、実に切れ目を入れて、ムリムリと手でこじ開け始めた。甘く腐ったような濃密な香りが漂い始める。

「これ、本当に食べられるんですか?腐ってるんじゃないかしら」

「ところがこれが食っちまうとうまいんだよ。この島にしかない果物さ。魔女だって食ったことのない、俺らだけしか知らないもんよ」

 ブツが中のやわらかそうな実を一つ取り出して、ロディオンに手渡した。

「ふむ。昨夜のよりも熟していないな。あまり匂いがしない」

 ところがフジには鼻が曲がりそうな臭いに感じられた。忌まわしいとさえ言えそうな、強烈な臭いだ。ロディオンが口にそれを入れようとしているのを信じられない思いで凝視していると、突然大きな叫び声が上がって、とげの実よりもはるかに大きいものが木から落ちてきた。ヒューだった。

 一同はとげの実を投げ出し、急いでヒューを取り囲むと、ヒューは顔をかきむしりながら地面を転げまわっている。

「でっかい、鳥が!俺の目を!」

「鳥に目をつつかれたの?見るから、じっとして!」

「それよりも、早くここから逃げなきゃ。恐ろしい鳥にやられるずら!」

 一同は色めき立った。暴れるヒューをとにかく荷物担ぎにしてその場を離れ、わたわたと走り出した。

「も、もうだめだ。走れねぇ」

 ブツが音を上げるまで走ると、一同は周囲の安全を確認して走るのをやめた。そこでヒューの目を確認すると、目の横に小さな擦り傷があるものの、目は無事だった。

「慌てさせやがって」

 ブツは襟首からへそまで汗でびっしょり濡らしている。

「ちっ。しかし、目以外に、落ちた時に痛めた部分はあるのか」

 ロディオンが体を確認している間、ヒューは「鳥が、鳥が。ぎゃぁっと大きな鳴き声で」と呟きながらがたがたと震えている。はて、とフジは思い返した。とげの実のなる木からは鳥の鳴き声などしなかったし、大きな鳥が動く気配もしなかった。そのことについて確認しようとロディオンとブツを振り返って、フジは服の中に氷を入れられたように背筋を伸ばした。ロディオンとブツも、目の下に黒い隈を宿し、だらだらと異常に汗をかいている。

「二人とも、どこか具合でも悪いの?」

 フジは慌てて聞いてみたが、二人はそれぞれ、特に体の不調はない、と言う。

「変な奴だ」

「航海長、こいつはいつも変ずら。それより、腹が減った。さっきのとげの実を食おう」

 ずら?ずらとはなんだ?坂の国の言葉の語尾だろうか、しかしこれまでの船上生活で初めて聞いた。フジは首を傾げた。

 ブツはどさくさまぎれになんとか一つだけ抱えて走ってきたとげの実にまたナイフを当てた。それを見るヒューとロディオンの目の下の隈が尚深まった気がして、フジは待ったをかけた。理由はわからないが、その実を食べてはいけない気がする。額の角がそう告げてくるように感じる。

「あ、あのさ。まだここの場所の安全も確認してないよ?さっきの鳥とかさ、また来ないとも限らないでしょ」

 ヒューが素早く木を見上げ、辺りに鳥がいないかを確認する。少し先の木で、風が吹くと木から厚みのある黄色い葉が無数に落ちてくるのがあったが、それが陽を受けてきらきらと美しい。

「鳥はいないずら。さ、ブツ。早く。腹ペコなんだ」

 ヒューが促した。さっきまであんなにおびえていたのに、もう空腹を感じるものだろうか。フジはヒューの様子を探るように見、ついでブツを見た。ブツは目を閉じたまま動かない。泥を交えた汗が鼻から唇の上を伝って、顎から滴っている。

「……。聞こえる。聞こえるずら!鬼の太鼓の音だら」

 唾を飛ばして恐ろしい形相で言うものだから、ヒューもロディオンもたじろいだ。ところが耳を澄ませてみるも何も聞こえはしない。聞こえないのに、ブツがあんまり真剣に目をくぼませて言うので、ヒューもロディオンもなんと言っていいのかわからない様子だった。

「何にも聞こえないよ?気のせいだよ、落ち着いて、落ち着いて」

 フジはなだめるように言うも、ブツは先ほどのヒューと同じようにぶるぶると震えだした。

 そう言われると、俺にも聞こえる気がするずら、などと、今度はヒューまでそういい始める。フジにはやっぱり何も聞こえてはこないが、そんなことを言われては気味が悪い。そうして三人は徐々に浮足立ってきた。ところがさすがは航海長か、ロディオンは慌てた様子も見せずに立ち上がると、居住まいを正した。

「確認するぞ」

 音がするという方へ行こうとするので、当然、ブツは拒んだ。

「ない。おめえだけで行けばいいずら」

「俺にも音は聞こえない。それに、たとえ太鼓の音がしたとして、鬼の太鼓だなんてどうして言い切れるんだ。そこに人がいるなら、船長たちを見かけたか確認できる」

「しゃらくせぇ。俺っちにはわかる!あれは鬼の鳴らす太鼓だら。あのドコドコの音は魔女の島で聞いたやつだら」

「ヒュー、お前はブツと二人でここに残るか」

 ロディオンが矛先をヒューに変えた。そこでヒューが改めてブツを見てみると、脂汗をだらだらと流して口で呼吸をしている。その口の奥に見える舌に、真っ白な苔がびっしりと生えていて、いつもこうだっただろうか、と思った。どう見てもまともには見えないのだ。混乱して、気の違った人間に見える。ヒューは自分が同じように脂汗を流していることには気づかなかった。

「冗談じゃないずら!俺も航海長と一緒に行くよ」

 そうなるとブツも一人っきりでここに残るのは不安だもので、皆と一緒に音の正体を確かめに行くことになった。

 踵を返したロディオンの背負っていた袋に、フジは頭をしたたか打ち付けた。当然というか、ロディオンは謝るでもなかった。フジはちぇっと舌を鳴らした。

 ブツとヒューの二人で、ここに残るか、だって?あたしが航海長と二人きりで確認に行くとでも思ったのかしら。あたしは結構航海長のこと苦手だよ?あの人存外、自信があるらしい。船でも他の人に慕われているようには見えないけれど。

 よろよろとロディオンの後を行くヒューが、急に振り返った。

「聞こえたぞ」

 フジは頭の中で考えていただけだと思っていたが、口に出てしまっていたみたいだ。

「航海長を怒らせないのはもちろん、うかつなことを言って傷つけるなよ。あいつ傷つくと狂暴になるから」

「は、あ、い」

 ヒューとフジはいつものように他愛のないおしゃべりをした。たまにロディオンが睨んでくるが、船の作業をしているわけでもないので、特別とがめられなかった。

 ヒューは木から落ちて以来、深い隈があるものの、体調が悪いわけでもなく、いたって普通に歩いている。陽気な形の眉毛が、彼の話に合わせてぴょこぴょこ動くのを見ていると、フジが感じていた漠然とした不安は消えていった。聞けば昨日の夜、女の恐ろしい鳴き声が聞こえると言って怯え騒いだ男がいたので、うまく眠れなかったらしい。

 なるほど、一晩眠れなかった疲れが、木からどすんと落ちた時に体の奥から出てきてしまったんだろうか。そんなこと、あるのだろうか。

 ロディオンはぬめるナメクジの腕をもどかしそうに振るい、フジやヒューが切り払い残した草を分けながら歩いている。方角としては島の奥に進むのではなく、来し方、サローチカ号が停泊している浜へ向かっていた。時節ブツに音のする方角を確認しているが、冷静なロディオンに比べ、ブツはきょろきょろと辺りを見回しては、何かに怯えて首を竦めていた。

「船に帰ろうぜ」

 ブツの懇願には答えず、ロディオンは草を払う。ざばっ、ざばっと草が一定のリズムで切られた。

「ナメクジのくせに、無視するんじゃねぇずら」

 そう言ってから、ブツはぶつぶつと独り言のようにロディオンを罵りだした。よくもまあ、ここまで人をなじる語彙があるのかと感心するほどの罵りようである。こうなってくるといつロディオンも怒りを爆発させるかわからない。もともと船乗りたちは気が荒かったが、今回のは表情が病的だからか、ひどく陰惨なものに展開する予感がする。フジはなんとかなだめたかった。

「まぁまぁ、みんな。カリカリするのはやめようよ。どうしちゃったのよ、いったい。さ、こんなときには唄でも歌おう。いつもみんなが歌ってるさぁ、錨を撒きあげるときの唄とかさ」

 ところが皆は聞く耳を持たず、にらみ合っている。いつの間にかにらみ合いにヒューまで参加している始末だ。とうとうロディオンがブツの帽子をはたき落した。一刻も早く、歌を!

 だがフジも焦りのせいか、船で散々聞いたはずの旋律や歌詞が思い出せない。皆が分別を失いかけている。他に何か、穏やかな唄はあっただろうか。

「じゃ、じゃさ。不肖フジが歌うよ。うむ、ええと。『いっこ、にっこ、さんこん、おいしいよ、れんこん。ごこん、ろっこんななこん……』」

「なんだよそれ。くだらなすぎる替え歌ずら。元は小さな蜘蛛の唄だろ、それ」

 にらみ合いから抜け出し、ヒューがにやにや、と笑った。

「えっ?静かな湖の歌でしょう」

「お前の歌詞のどこに湖が出てきたんだよ。なぁブツ、蜘蛛の唄だよな、このメロディーは?」

「違う。塀の上の虫の唄ずら」

「えーっ」

 やりあっていると、ロディオンが「何を言ってる!」と大声を出した。

「わずかなご飯の唄に決まってるずら!」

 それは確かフジも知っている、同じメロディーを使ったわびし気な替え歌だった。

「航海長って、かわいそうだね」

 フジが呟くと、ヒューが「しっ、ずら」と素早く遮った。

 とにかく、皆は口々に自分の歌詞で歌い、少しなごやかな雰囲気になってきた。フジは安堵して、ブツの腕を取った。

「さ、ブツ、安心しなよ。もうすぐサローチカ号につくから。方角としては、上陸した浜に向かってるからさ」

 一同はきょとんとした表情で、唄を中断した。

「フジ。お前、方向音痴ずら」

 と、ヒューが言った。

「お前は、本当にいい加減な奴ずら」

 と、ロディオン。

「よく見るずら、このでっけぇ草を。どんどん深みにはまってるじゃねぇかよ。あー俺はどうして、馬鹿正直にロディオンに音の聞こえる本当の方角を伝えちまうんだろう。ずら」

「いや、このでっけぇ草は来るときに見たでしょうよ!浜だよ。この先は」

 フジは反論したが、三人から胡乱げに見られて、黙り込んだ。自分は方向に確信がある。それなのに、なんだ、この人たちは。間違えてるくせに、こんなに自信たっぷりで人を馬鹿にしてくる。大体、先ほど緊迫した関係を取りなしたのは、自分だ。今になって三人一緒になって自分だけ仲間外れにしようとしていると思うと、なんとも悔しかった。腹が立ったので、フジは先頭で草を薙ぎ払う役だったが、わざと小柄な自分だけが通れる分しか薙がなかった。

「後ろの人たちよ、苦労しなさい」

 と小声で言うと、すかさずヒューがそこらに落ちていた大きな花の蕾を投げつけてきた。

 やがて少し前方が開けてきた。

「あ、あっこずら!」

 ブツが声を震わせた。その指さす方向を見て、フジは脱力した。

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