三十
不安は杞憂に過ぎなかった。長屋にはすでにテンが帰ってきていて、
「どこに行ってたんだよ、フジ」
と、素っ頓狂な声で迎えてくれたのだ。確かに、部屋の明かりがついていたから、誰かいるはずに決まっていた。
「食い物持ってきてやったのにさ、いないんだもの」
饅頭の詰まった箱を握りしめている。それをフジに無造作に差し出しながら歩み寄ってきた。
「ありがとう。でも、ずいぶん早くに戻ったのね?」
フジはまだ湯気の上がっている酒饅頭を一つ取って、口に運んだ。
「お前、角が生えてきたって不安そうにしてたからさ。飯だけ取って、すぐに帰ってきたんだよ」
「そうなの?ありがとう」
「他の二人も帰ろうとしてくれたけど、まあ大げさにするのもなんだし、あたしだけにしたよ。本当に、気に病むこたないって。その角ほれぼれするよ」
そうだろうか。フジは自分の角を、ベッドに掛かっている小さな鏡に映して見た。鋭い角は、先ほどより伸びている。テンや同室の鬼たちのまっすぐの角とは異なり、大きく湾曲していた。フジが今まで見た限りの分類では、肌が褐色や黒、赤、緑など、濃い肌色の鬼はまっすぐの角を持っていた。反対に肌が陶器のように白かったり、薄い桜色だったりする色白の鬼は、ぐねぐねと湾曲した角を持っていることが多かった。そういえば、フジもあれほどこんがり日焼けしていたのが、色白になってきている。そしてフジの見立てでは、色白の鬼は意地悪だったり、獰猛だったりすることが多い。時計の鬼の角も湾曲していた。あくまで、フジの見立てだが。
「それにしても、そんなに汚れて、どこに行ってたんだよ」
テンがもう一度尋ねた。藪やら茂みやらを抜けてきたフジは、そこらじゅうかぎ裂きだらけで葉っぱや小枝、虫までくっつけていた。フジはヤガーの屋敷にいたこと、鬼たちに襲われたことを話した。
「ひえー。よく帰ってきたね。じゃ、今夜はもうここでじっとしてな。朝日が昇れば、またありがたいヤガーの決まりごとの中さ」
「いや、あたしはこれからポウの船に行こうと思うんだ」
「はぁ、何言ってんの?なんでそんなことするんだよ。危ないから家にいなよ。ここなら時計が来ても、あたしが追っ払ってやるよ。時計も決まりを守ってる奴らには乱暴もできないだろうからさ。あと、そうだ。さっきラクシャが時計封じの赤札を景品でもらったのを、預かってたんだった。ちょうどいいや、つかっちまおう」
テンがごてごてと飾り立てたハンドバッグから赤札を取り出した。同室のラクシャという鬼がゲームで当てたのだが、酔っぱらってなくすことを心配したため、代わりに持って帰ってきたのだった。
「緊急事態だもの。ラクシャも気持ちよく使わせてくれるさ。さぁ、久しぶりの格闘だ、腕がなる」
「そんなことして、テンが怪我したら大変だよ。あたしね、今はヤガーの魔法の外にいるからか、元来た道を思い出せてるの。今なら、ポウの船までたどり着ける気がする」
「馬鹿だね、お前!」
テンが大きな声を上げた。
「まだ目が覚めてなかったのかい。やめときなって。もとはと言えばあいつが無理やりここに連れてきたんだろ。何が楽しくてお前をわざわざ連れ戻すんだよ。鬼を勝手に連れてったなんて知れたら、こっぴどくヤガーに仕返しされるに決まってるじゃないか、絶対連れてってなんかくれないよ」
「でもポウは秋の谷を無理やり浮かび上がらせようとしている。それはさせてはいけない」
テンが急に咽を伸ばして、ほう、と深い声を出した。テンの首は長く、美しかった。
「あそこは人間もいない、広くていい森だった。あたし同様あそこら出身の鬼で、この島に来てる奴も結構多いんだよね。イタチザメがそうしてくれたら、喜ぶだろうよ」
「でも、谷の人たちはみんな沈んじゃったんだもの。無理やり浮かびあがらせたら、みんなそのまま死んじゃうよ」
「じゃ、自然に浮かんでくるのを待つって?お前が生きてる間に?少なくともあたしらはそんなに待てないよ。お前の都合にあわせてなんかいられないよ。それに、待ってたって、人がいる状態で浮かび上がってくる保障はないだろ?怒った精霊にもう食われてるかもしれないじゃん」
テンはうっすらと頬を上気させている。この話はこのまま行っても平行線だ。フジは話の流れを変えようと、テンに聞いた。
「ね、どうして秋の谷出身の鬼がそんなにいるの?避難できたってこと?でも、あの日はあっという間に水が上がってきたじゃない」
「あたしら鬼は人間より敏感だからね。水の精霊が怒ってて、じきに森が沈むことがあんたたちより早くわかってたのさ。それに、秋の谷は魔女が頑張ってくれたんだろうね、沈むまでに他のとこよりもずっと時間を稼いでくれたみたいでさ、どうにか逃げられたんだ。国をいくつも超えるのは骨だったけど」
あけっぴろげな口調で言うのを聞きながら、フジは拳を握りしめた。それから喰いしばった歯の隙間から、漏らすように言った。
「わかってたなら教えてくれたってよかったじゃない」
フジが震えながら言うのを見て、テンはあっはっは、と大声で笑った。人気のない長屋に笑い声が響き渡った。
「何を大真面目に言ってんだよ。人間にそんなこと教える鬼がいるなんて、ヒッヒッヒ、いるわけないじゃんか」
「テン、冗談言ってるんじゃないよ。秋の谷だけじゃない、それがきっかけとなって緋の国まで沈んだんだよ」
「冗談だぁ?」
テンは笑い涙を拭きとると、真面目な顔になった。
「寝ぼけんのもいい加減にしな。鬼と人間は、もともと友達でも何でもないよ。交わるときは、お互いに痛い目にあわしてやろうと考えているときだけだろ」
「緋の国の町を通って逃げたんでしょ?ほんのついでじゃないか。そのときに教えてあげてたら、逃げられた人が大勢いた」
「あのなぁ。秋の谷の魔女っていうくらいなら、自分の国と緋の国が危ないことぐらい、わかってたはずさ。黙りこくって誰にも逃げるチャンスをやらなかったのは、お前らだろ。そもそも、お前らの谷でなんかしたから精霊が怒ったんじゃないの?とばっちりを受けたのは、こっちなんだよ!」
「そんなんじゃない!」
フジは逃げるように自分のベッドによじ登った。
「ごめん、言い過ぎた。今のは、ただのおっさんたちの噂。でも言っていいことじゃなかった」
テンはすぐに謝ったが、フジは答えなかった。答えることができなかったのだった。
「ね、饅頭もういらないっての?」
テンは口いっぱいに饅頭をほおばったまま言った。しばらく無言が続いたが、やがてフジが出発の準備を始めたのを見て、
「お前ね、だから危ないからやめとけって。意地っ張りもたいがいにしな。怪我じゃすまないよ」
と言った。
「そうなんだけどさ……」
ポウはヤガーとの契約を終わらせるために、秋の谷の水の石を狙っているのだろう。しかし、秋の谷には水の石など残っていないのだ。谷の最期のときに、すべて破裂していってしまったのだから。
フジは枕の下にしまっておいた出来損ないの水の石を入れた箱を取り出した。元は下着にしまっていたヘメラで、やっぱりある朝突然仕上がっていたものだ。この水の石は、上品な青白さといい、少し白濁した筋が入っているところといい、見た目だけはまるっきり上出来な水の石に見える。目利きを自負するフジにだって手に取るまでは出来損ないだとは分からない。しかし実際はフジの手から離れると不気味にぶぃんぶぃんと音をたてた。フジから離れたまま数時間もすれば爆発して、その威力はもしかして長屋を吹き飛ばすかもしれない。かといって、懐に大切に持っていたとしても、ひょんな衝撃で爆発するだろう。
遠くに捨ててしまおうかとも思ったが、大きな音をたてて、ヤガーや怖い鬼に目をつけられないとも限られないし、何かに使えるかもしれないと思うと、なんだか惜しい気もする。さてどうしようかと思案していたとき、テンが「歯の箱」を貸してくれたのだった。小さな鬼のドクロを使ってできた箱で、口のところから物を出し入れできるものだ。その中にすっぽりこの石を入れてしまうと、不思議と音も鳴りやんで、安全に保管ができるようになった。鍵もついていた。鬼の小指の骨の先にこのドクロの右奥歯を一本埋め込んだもので、鼻から挿入してこのドクロのしかるべき場所に歯を入れ込むと、施錠ができるものだった。
フジは以前にも似たような鍵を見たことがあった。確か航海長のロディオンに激突したときに、腰にぶら下がっていたのをむしり取った時だ。あの骨も、歯の箱の鍵だったのだろうか。
フジは鍵を使って歯の箱から石を取り出すと、「いい子にしてなよ」と呟いて、ポケットに静かに石を滑り込ませた。それからテンに向き直った。
「この箱、返すね。ありがと」
テンは箱を受け取らず、何も言わずに腕組みして扉の前に立ちはだかった。褐色の顔が、こげ茶に変化するほど真剣な表情でフジを見据えている。
「むざむざ通すわけにはいかないね」
しかしフジも行かないわけにはいかなかった。
フジはこれまで風の魔法を人に向けて使ったことはない。しかしこのとき、テンに向かって思い切り風を吹かせられるか試してみようと思った。テンを傷つけない程度の風、ただ扉の前からどかせられる強さと鋭さを持つ風が吹かせられるだろうか。できる気がする。この島に来てからこっち、フジは自分の魔力が日に日に高まってくるのを感じていた。フジは姿勢を低くし、親指を唇につけるようにして構えた。二本の角の間に白い電気が素早く走った。全身の血が泡立つような感じがし、かつてなく力が高まって行くのを感じる。
それでも実際に魔法を使うのをためらってじりじりしていると、扉が乱暴に開いて時計が部屋に踊りこんできた。フジは短く「チッ」と息を吐き、風の魔法を時計に向かって放ったが、案に相違して威力は弱く、ただ微風がそよいだだけだった!
時計は容赦なくフジに襲い掛かり、フジは動けなくなった。肩や足に、時計から伸びる長い爪が食い込む。すると背後からテンが時計に跳びかかり、赤い短冊を時計に張り付けた。途端に時計は動きを止め、くるんと巻き上がりながら消えた。時計封じの赤札は、効果抜群のようだ。
「ふん」
テンは鼻を鳴らした。見せびらかすように残りの赤札をひらひらと手の中で揺らすと、
「まだ来るみたいだよ」
と開け放しの玄関を顎でしゃくった。白い影が二つ、恐ろしい速さでこちらに向かってくる。
フジはテンの手から赤い札をひったくり、部屋から駈け出した。それから死にもの狂いで駆けた。
途中時計に追いつかれたが、のしかかられたタイミングでどうにか赤札を張ると、やはり消えて行った。
外の風は先ほどよりも強くなってきていた。フジは丈高い植物が動物のように夜風になびく中、昼は水底に沈んでいる長い道を走った。やがてはしけのある場所に来た。この島に来た当初、ヒューに連れてこられたところだ。つながれている古ぼけた小舟の内、水漏れしていなさそうなのを選び、乗り込んで櫂で漕ぎだした。大丈夫、ポウへと続く元来た道は、昨日のことのようによく覚えている。




