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二十八

 屋根の上でごととん、ごととん、と列車が動く音が、いつもよりくぐもって聞こえる。天井からぶら下がっている灯りの中の虫が、列車の音に合わせてかすかに震えていた。列車が去って静かになると、女子寮の長屋の前に生い茂る羊歯の葉に、水が当たる音が聞こえてきた。雨か、とフジはぼんやりと思った。こんな雨の日は、布団にいるのがとても気持ちいい。安全に守られている気持ちになる。

「フジ、雨だよ」

 下のベッドから、テンの声が飛んできた。フジはまどろんでいた頭を一気に起こすと、一昨日の夜にナマメッキにもらった蓑を手早く着込んで、部屋を出て行った。

 小雨が降る中を、フジは小舟を急がせた。仕事場の塔まではほんの十分ほどだ。辺りには人影もなく、ただ薄暗く浮かび上がった島々に雨が注いでいる。たまにカササギフエガラスがきゅいん、きゅいん、と鳴いているのが辺りに響いた。

「また列車だ」

 列車が遠くからこちらに走ってくる音が轟いてくる。フジは急いで小舟を丈高い草陰に寄せて、隠れた。昼間うろついているのを魔法使いたちに見つかると、いたずらされることがあるらしいのだ。

 列車は鬼たちの住む石の長屋の上をまっすぐに進んでいき、続く橋を渡って行った。フジは走る列車の窓に人影を探したが、遠すぎて確認できなかった。魔法使いたちが鬼の住む地域を通ることは滅多にない。長い橋の先、小島をいくつも超えた向こうに、魔法使いたちはいる。そこには昼でも水に浸かっていない大きな島があって、彼らが昼も夜も賑やかに遊んで暮らしているらしい。

 そう言うけれど、本当にいるのだろうか。フジはこの数か月、人間を見かけたことはない。すべて鬼にかつがれていて、本当は誰のために働いているわけでもないのかもしれない。目が覚めたら、何もない廃墟で裸で立っていたりするかもしれない。まるで、キツネやタヌキに化かされたように。あるいは、目が覚めたら全部が夢で、フジは変わらず秋の谷で家族や谷の人々に囲まれて暮らしているかもしれない。フジは現実を確かめたくなって、水鏡に自分の顔を写した。

「きゃっ」

 そこに写った顔に驚いて、慌てて顔を引っ込めた。なんだか、額に角のようなこぶができていた気がする。フジはもう一度、恐る恐る小舟から顔を出して、水面を覗き込んだ。

 やはり、小さな角のようなものがある。触ってみても、たしかに、固い骨のような異物が、二つ、額にある。角だろうか。うむ、やはり角だ。どうにかして目の錯覚であってほしい。そう願ってずっと水鏡を覗き込んでいるうちに、次第に角が伸びてくる気がしてきた。フジはもう水を覗き込むのをやめ、風車塔に乗り込んだ。雨脚は大分激しくなっている。布が台無しになる前に取り込まなければ。そうして気もそぞろに洗濯紐をたぐりよせて生地を片付けると、女子寮に帰って行った。

「あーらら。角生やしちゃって、フジ」

 女子寮ではテンが珍しく早起きして身支度をしていた。他の二匹の鬼も起き出していて、鏡の前で衣装合わせをしていたのが、「なんだ、なんだ」とフジの角に注目した。

「水の精を覗き込んじゃったんだって」

「へぇー。割と似合うじゃない」

 出来たての角に触れてくるのが、くすぐったい。

「こんな薄暗い日に水なんか覗くからだよ。まあさ、お前は鬼として仕事してるんだもの、遅かれ早かれ角も生えてくるさ。気にしない、気にしない。それに、やっかむ人も出てくんじゃないかってくらい、いい角だよ」

 テンは手を振りながらこともなげに言って、自分の準備に戻った。今日は大雨で、仕事が休みだから遊びに行くのだ。フジも同行するかと問われたが、遠慮することにした。

「みんなで踊ったり、歌ったり、ゲームもするよ」

「景品で時計封じの赤札とか、藪七面鳥の足の佃煮とか、いいのが当たるよ」

「塔ではとんと見られない、男前も来るよ。鬼になった今なら、相手にしてもらえんじゃない」

「ひひひ、違いない」

 同室の鬼たちも口々に言ったが、フジの考えは変わらなかった。

「じゃあ、後で飯だけ持ってきてやるよ」

 テンは端切れでこしらえた、派手なつぎはぎのドレスを閃かせて、上機嫌に言った。他の二匹も、真っ黒な口紅をさしてめかしこんでいる。やがて太鼓の音を響かせた屋形船が迎えにやってきたので、フジは浮かない顔で三人を送り出した。

 魔女の島に来て三か月が経つ。風の噂によると、サローチカ号は再び寄港しているらしい。フジはどうにかしてポウに会って、ニッキのところに連れて帰ってもらいたいと思っていた。今日は、その機会かもしれない。水の上に出て、これ以上角が伸びてしまったらどうしようか、というためらいもあるが、行くしかない。

 フジは二段ベッドから飛び降りると、再び蓑をまとって小舟を繰り出した。

 外は大雨だった。島々では影のような色合いになった背の高い花が、強い風に踊らされている。

 どちらに行ったらポウの船が停泊していたところに戻れるのか、フジは覚えていなかった。どうしたわけだろう。数か月前に自分が来たはずの道が影も形も思い出せないのだ。フジは道などを割と記憶する性質だったので、意外だった。そういえば、最初に島に来た時も今のように夜の入りだった。暗かったために目印などを覚えづらかったのかもしれない。自分が鳥だったらいいのに、とフジは思った。高所から俯瞰すれば土地勘など一遍で身に着くのに。フジはふと、いつぞやウォリウォリで見かけたワタリガラスを思い出した。あの鳥は、どうしているかしら。気味の悪いカラスだったけれど、今はあの翼でもいいから借りたい。

 そういえば、曾祖母魔女の使いの鳥はワタリガラスだった。母親は魔女王として忙しかったし、祖母は厳格すぎて近寄りがたかったが、この曾祖母は優しかった。ワタリガラスの餌をいつもポケットに入れて、餌やりをするときにフジにもさせてくれた。「カラス、こっちこい。カラス、こちこい」と呼ぶと、どんなに遠くにいてもカラスはやってきたものだった。曾祖母の歯は何本か抜け落ちていて、発音が不明瞭だった。「カラス、こしこい」という呼び声が、節に乗って空に消えていくようだった。あのワタリガラスは、当時でも相当な年だったはずだ。もはや生きてはいないだろう。

「カラス、こしこい。あたしのことを、助けてよ」

 フジは懸命に漕いだが、気がつくとまた先ほど来たばかりの仕事場に戻ってしまっていた。雨はどんどん強くなる。出直した方がいいかもしれない。上から降りつける雨と、水面から跳ね返ってくる水で、小舟の中には結構な水が溜まっている。フジは小舟の(へさき)を回して寮に向かって漕ぎだした。

 やがて、大雨の音に混じって、カッチ、コッチと時計の針の動く音が聞こえてくるような気がしてきた。

「働きすぎなんだな。大体、一番早くに働き始めて、一番遅くに寝に帰るんだもの。それに、寝てても雨が降ったら取り込みに行かなきゃなんて、損な役だよ。前にこの仕事をやってた人に同情するよ」

 ぶつぶつと言いながら漕いでいるが、やはり時計の音が聞こえる気がしてならない。振り返ってみて、フジは驚いて飛び上がった。いつの間にか、時計が舟の上にいる!

 時計がここで何をしているのか、と考えている間もなく、時計の体、ヤモリのような部分のお腹に大きく穴が開いたかと思うと、フジを呑み込むべく覆いかぶさってきた。

 真っ暗な穴に包まれる直前にフジは見た。塔から伸びている綱に、取り込み忘れた布が一枚、雨に打たれて暗い影になっている。さっき、突然生えてきた角のことばかり考えて、上の空で取り込み作業をしたから見落としたのか!

 仕事をさぼると、時計に食われちまうよ、とテンがあんなに言っていたのに。後悔したときにはフジはすっかり時計に食われてしまっていた。


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