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フジより三歳年上のニッキは、この魔法使いの男の、ここらでは珍しい華やかな様子にすっかりのぼせてしまい、家への道すがら、飽きることなく男の話をしていた。
「まぁ、都びたというのはああいう人のことでしょうね。え?ニトログラードに住んでいる?やっぱり、いいですわねぇ。わたくし、この国に来て二年になるのに、まだ行ったことがございません。あんなに手の込んだ銀の刺繍は、香る国の城下でもたまに見かけるくらいでしたわ」
「えー。女の人みたいだったじゃない」
「ほほほ。フジ様はまだ本当にねんねでいらっしゃいますわね。マントでほとんど隠れてましたが、首から肩のところなんかが、隆としていましたわ。きっと都にはあんな方がたくさんいるのですわねぇ。フジ様も、ああいう見栄えのする方で、お城の魔女様のお血筋の方なんかをお婿になさって、のーんびりお暮らしになれたらいいですわねぇ」
「あたしは、魔法がいまいちだから、谷ではお婿はもらわないことになってたよ。今は秋の谷もなくなったんだから、ますますお婿はとらないよ。ニッキには苦労させることになるけど」
「そんなこと!ええと、確かこの霧の国には、山女魚うさぎになる、ということわざもございます。もうすぐで奇跡が起こって、フジ様が魔法の上手になって、お顔も目鼻の区別がつくようになって、お婿が押し寄せてくるかもしれませんわ」
「山の芋鰻になる、ね」
「は、そうでございましたか。ことわざは難しゅうございますね。でも、芋がねぇ、鰻になったらずいぶんと助かりますことですのに」
言ってからニッキは何か失言をしたような気がして、困ったようにフジを見た。フジは半笑いを浮かべて、それきり二人は黙り込んだ。それから、ずいぶん歩いたころになってニッキはフジの髪の陰で揺れる耳飾りにようやく気付いた。
「フジ様、その耳飾りはどうなさったのですか?」
そこでようやくフジは五十ゾルを要求した挙句の耳飾りの顛末を話すことになった。話途中から、ニッキの態度がみるみると変わった。話がひと段落するころには顔を赤くして口を震わせたから、相当な雷を落とされるとフジは身構えたが、しかし、ニッキは雷の代わりに、ぽろりと涙をこぼした。
「なんてまぁ、なんて真似をなさるんでしょう」
ニッキの涙は何度か見たことがあったが、フジはこれに弱かった。少し赤らんだ美しい目尻から涙がたらたらと流れるのにぎょっとして、固まったように動けなくなった。
「相手を見て、値段を高くするなんて、さもしい、卑しいことでございます。しかも占いの結果を伝えるためにまた来させるなんて、詐欺もいいところですわ。いかに貧しくて、太陽に黒焦げに焼かれたご様子で、占いなぞにはまりこんでいらしても、フジ様は秋の谷の魔女王様の九番目のお子様、尊い姫君であらせられます。わたくしは母から、そして祖母から、たとえ今は他国にいても、有事になれば谷の魔女王様をお支えすべしと、心だけは谷や魔女王様から離れることのないようにと、かねがね言い渡されてまいったのです。それですのに、なすすべなく谷が沈み、胸を痛めた祖母はすべてに申し訳がたたないと、涙を流しながら他界いたしました。その後、わたくしは、残された姫様に今こそ身も心も捧げると、僭越ながら誓い申し上げたのでございます。フジ様には、いつか谷が浮かび上がったその日に、世間から隔絶された祖国を牽引していく大変なお役目がございます。今は毎日が、そのためにあるのですわ。その尊い道の途上で、そのようにあざとい所業をなさるとは」
一度こぼれると後は洪水のように涙が続き、ニッキは泣き崩れた。日々あくせく気を張り詰めて働いているから、一度堰が切れるととめどない。フジは差し出すべく手拭を探したが、あいにく渡せるようなものは持ち合わせていなかった。その間にもニッキの声はますます高くなっていく。フジは途方に暮れ、耳鳴りがしてくるのを感じた。
あの時、どうしてそんなことをしたのか、今もって不可解だった。男の良い香りの香水と美しい刺繍のマントにぼんやりしているうちに、口が勝手に五十ゾルを要求していたのだった。あるいはもしかすると、特に力を消耗した占いだったからかもしれない。結局、男が何を探しているのかもわからなかった。
「またくるようにとお伝えしたなら、その耳飾りは大切にとっておおきになって、次に会ったら差額の五ゾルと一緒にお返しなさいますように」
気の済むまでむせび泣いた後、ニッキは自分のハンカチで顔を拭いながら言った。
フジはしぶしぶ耳飾りをはずし、包むものを探した。昼食に持ってきたおにぎりが、油紙に包まれている。お腹が空いていると眠れないので、夕飯の足しにして食べようと、昼に食べるのを我慢したのだった。おにぎりを油紙から取り出し、耳飾りを包んだとき、後ろの茂みが揺れる大きな音がした。危うくおにぎりを取り落しそうになった。
「あら、何かしら?」
背後の物音にニッキが振り返った。すっかり涙を出しつくし、さっぱりした様子だった。
「いいよ、行こうよ」
フジは嫌な予感がしてニッキの腕をとった。
「何かいますわ。おいで、おいで」
「おかしな臭いのワタリガラスじゃない?」
「この国にワタリガラスがいるものですか。金物屋のクロちゃんですわ」
「へっ。なあんだ。おいで」
フジが手をつきだすと、猫は素直によってきて、もう片方の手に握られたおにぎりを見上げた。
「いいよ、お食べ」
猫が食べ終わるのを待ってから、フジは猫を金物屋に届けるために一人町へ戻った。秋の日暮れは早く、すでに町には霧が降り始めている。霞む視界の中、もう店じまいをした洋品店のショーウィンドウにはかわいい赤いワンピースが飾られていた。フジは自分の姿を暗いガラスに写した。日焼けした顔では目も口もガラスには映らない。着ている服も、色あせた黒い服だ。自分の影というよりも、ガラスがぼんやりと汚れているだけに見えた。フジはガラスから目を放して、歩き始めた。
最終バスに間に合うよう歩を早めると、ポケットにしまった耳飾りが音をたてた。そこでようやく、今日出会った華やかな男の声が、ニタカよりも年若の、懐かしい兄の声に似ていたことに気付き、胸を掴まれたような気持ちで目を細めたのだった。