十九
一週間後のこと、フジは相変わらずサローチカ号に乗っていた。小人をおびき寄せようとしてポウのトイレの片隅にビスケットを置いてみたりしたが、特に成果はない。
海賊たちの呼び名を一通り覚えたあたりから、皆と少しずつ打ち解けてきた。その中の一人から船で使われる坂の国の言葉を少しずつ教えてもらったりする。
ひどい嵐もなく、船足は時折速まったり、遅くなったりしながら、着実に進んでいった。概ね淡々とした毎日だったが、一度だけ、どこからか物売りの大船がやってきて、大層活気づいた。ものを売る小舟が近づいてくるのではなく、あちらの大船に乗り込んで必要な品を物色する形式だった。接舷後、フジも大船に移ることを許され、大いに見物した。甲板に筵が敷かれて、見やすいように物が広げられている。それぞれの筵が独立した店であるという。各店主も皆海賊らしく、掛け声も売り方も荒っぽかった。途中、とある店で鉢植えを壊したと因縁をつけられるまで、フジは意気揚々と大船の中を歩いて回った。虹の市でも見かけなかったような珍しいものがたくさんあった。いつまでも時節襲われる船酔いに参っていたフジは、これがすっかり気分転換になり、以後は船酔いに悩まされることがなくなった。
仕事にも慣れてきて、適当にさぼることができるようになっていた。暇があるとギャレーでその日の料理当番が水のように薄いスープを作っているのにへばりついて、ジャガイモの皮を舐めたりして船旅を少しずつ楽しむようになっていた。
「このジャガイモの皮より、さっき剥いていたやつの方がおいしい」
「おっ、フジ。いい味覚じゃねぇか。さっきのは少しお高いジャガイモさ」
「へへん」
いい気になっていると、やにわに上の甲板でどやどやと音がするのでフジは昇降口から顔を出した。
男たちがこぞってマストに上り、一斉に帆を張り始めているのだった。サローチカ号は、帆クラゲという害虫がくっつくからと、たいていの場合は帆を降ろさず、魔法の動力で前進していた。当初フジは、船が魔法で動くならば、いったいどうして帆など積むのか不思議に思っていた。ところが聞くところによると、水の精がいる地域、すなわち過去に町や村だったものが精霊によって沈められた地域の上を航海するときには、帆を張って、魔法を一切使わないようにするらしい。水の精が魔法を嫌うからだった。そして魔女の島という島は、水の精が住む地域にぐるりを取り囲まれているらしい。
前方には茶色と紫のまじった巨大な雲が迫っている。フジはギャレーに戻り、料理当番に言った。
「みんな、帆を張ってます」
「ああ、これから水没した町の海上を行くから、魔法は一切使えないようになる。お前の風を吹かせる魔法も禁止だぞ」
料理当番は魔法の力で光る散光苔をランプから取り出し、代わりにろうそくを据え付けて明かりを灯した。
「魔法を使ったらどうなるんですか?」
「怒った水の精に襲われて、船ごとお陀仏さ。魔法を使わなくても、騒いだりして、水の精の機嫌を損ねないようにな」
巨大な雲の下に入る頃には、帆は張り終わっていた。魔法の動力音がなくなり、風の音が響く。雲は頭にふりかかるほど近くまで落ち、海は真っ黒で粘性を帯びてうねっていた。
仕事の手を休めることができる者は皆、何かしら赤いものを左手に掴んで静かにしていた。フジは怖いもの見たさに上甲板にでてヒューを見つけると、横に並んだ。
「大丈夫なの?」
「知らねえよ。もっと小さい声で話せよ」
フジはヒューの耳に口を寄せて、空気だけの声で囁いた。
「赤いもの持ってれば大丈夫なの?」
「知らねえけど、いっつもみんなそうしてる」
ヒューは自分の持っていた赤い蝋燭の先をフジも持てるように差し出した。フジはそれを左手で握った。
「あたしは魔法を使ってないし、みんなも使ってないもん。だから精霊は怒らないでしょ?」
「しつこいな!だから知らねえってんだろ。今度言ったら、ぶちのめすぞ」
「ごめん」
「悪い、俺も言い過ぎた。あのなぁ。昔は俺たちの船も二隻あったらしいが、今一隻しかないのは、ここでやられたらしい。とにかく、何が原因で水の精が怒るかは知らないけど、いつも通り静かに渡るしかないさ」
「いつも通りなら、大丈夫ってことでしょ?」
フジが再度囁くと、ヒューがフジの足を勢いよく踏みつけた。
「いったい!」
フジもやり返したりして、無言で痛めつけあっていると、他の海賊に下甲板に投げ込まれ、二人とも思い切り殴られた。
「馬鹿どもが!」
海賊が去った後フジは最後にもう一発足踏みをお見舞いしようと足を振り上げたが空振りし、反撃に膝の裏を蹴られて床に手を突いた。痛みに涙ぐみながら立ち上がると、周りの海賊はみな神妙な顔つきで、会話はおろか仕事中だった手も一旦止めている。ろうそくの火も最小限にしているらしく、お互いの顔がようやっと見えるくらいの明るさだった。
だがそういう時間はそう長くもなかった。それから小一時間ほどで、サローチカ号は魔女の島に着いた。着いたのは昼過ぎで、振り返れば先ほど抜け出たはずの不穏な雲は消え失せている。どこまでも青く、穏やかな海に戻っていた。
魔女の島というのは、小さな島の集合帯を表すようだった。民家を一つ、二つ乗せた小さな島が、ぽつぽつと海に浮かんでいる。家に続く道が途中で海に飲み込まれていて、大洪水で高台の家だけ取り残されたような感じだった。町の大部分は水に沈んでいるようだった。
ポウは一足先に小舟に乗りこみ、どこかへ漕ぎ出していった。他の乗組員たちも忙しそうに、せっせと積荷を降ろしている。非力なフジは戦力外で、甲板をモップで拭いていた。久しぶりの陸なので、フジもぜひとも上陸したいと思っていた。乗り降りしている海賊たちを羨まし気に眺める。船の荷物があらかた積み出されたと思われるあたり、ヒューが小舟へ飛び降りるのを見ると、声を張り上げて呼び止めた。
「あっ。いっけねぇ!」
ヒューは慌てて小舟の上で立ち上がった。
「すっかり忘れてた。こっから下りてきな」
そういって縄梯子を指さす。
「えー、ちょっとやだなぁ。この梯子、大丈夫なの?」
「大丈夫だから」
フジはおっかなびっくり梯子を降りて行き、やがて小舟に飛び乗った。勢いよく飛び降りたので小舟から落ちそうになるのを、男たちが慌てて支えた。
「ちぇっ。びくびくしてたと思ったら、鉄砲玉みたいに飛び降りてくるなぁ」
「どこに行くの?」
「船場。お前だけ船場の方まで送ってけって言われてたんだった」
ヒューが他の海賊たちに声をかけると、海賊たちはそれぞれ別の小舟に移った。フジとヒューだけを乗せた舟は進み始めた。
「おいヒュー、道草せずに帰って来いよ。日没までに帰らんと、置いてっちまうぜ。へっへ」
どうやらフジだけをこの島に残して、海賊たちはすぐにまた出航してしまうらしい。フジはこれから、魔女の島で「修行」とやらをすることになるのだ。
海賊たちが、「元気でな!」「魔女にいじめられないようにな!」とフジに手を振るので、フジも大きく両手を振った。
「さよーならぁ」
着岸後すぐ上陸したきりのポウに挨拶できなかったことが、心残りであった
小舟はいくつかの小島を抜けて、すいすいと進む。水の下を覗き込むと、青く反射していて見えにくいが、水の下に町がある。枯れた並木道、かわいらしい瓦屋根の家や石畳、郵便ポスト、空っぽの植木鉢が整然と並んでいるのまで見える。
「きれいだろ?」
「ここに着くまでに通ってきたところと、ずいぶん違うね。水が濁ってない。同じように水没した町の上なのに」
「あそこは本当に沈没してるからな。ここはもう、半分浮き上がってきてるんだよ。そうすると、水が透明になってくるんだ。でも、精霊がいるかもしれないから、そうじろじろ見るもんじゃないぜ」
注意されても、フジは初めて見る沈んだ町の景色に、夢中になって見入った。まるで人が歩いていてもおかしくないくらいだ。なぜ、あの道端に落ちている紙屑は、浮かんでこないのだろう?なぜ、水の中なのに陸の草が青々と生えているのだろう?
ふと、家の窓に飾られた植木鉢が、不自然に動いたような気がした。もしかして人がいるのかもしれない、とフジは小舟から大きく上半身を乗り出した。船がかしいだので、ヒューがフジの腕を引いた。
「そんなに興味津々に覗き込んでると、向こう側からもお前を見返してるかもしれないぜ。この町は半分浮かびかかっちゃいるが、まだ水の精霊の力が解けたわけじゃないんだ。特に、日が暮れたら水の中を覗き込むなよ」
フジは行儀よく膝を閉じて座りなおした。
「半分浮かびかかっているって、人は出てきたの?」
「いいや」
「もしかして、あんたたち海賊が無理やり浮かび上がらせたせいで、こんな風に中途半端な状態になっちゃって、人がいないんじゃないの?」
「まあ、そうかもな。でも、ここはいい方だぜ。火事みたいに、浮かび上がった途端に火柱が上がって、すべてが灰になる町もあるっていうからな」
「人でなし!」
フジはいきなり立ち上がり、小舟が大きく揺れた。ヒューはとっさに櫂を投げ出し、小舟の縁をつかんで転がり落ちないように体を支えた。
「立つやつがあるか!ほれ、お前が櫂を拾え」
フジは嫌そうに櫂を拾って、それ以降は口をきかず、腕組みをしながら時折水の下を覗き込んでいた。
「海賊って言っても、ここを浮かび上がらせたのは俺たちじゃねえよ。他にも、この島に出入りしている海賊は結構いるんだ」
「海賊なんて、みんなネズミにかじられて泣いてればいいんだ!」
「言ってろ」
やがて橋のついた小島に漕ぎ付くと、ヒューはフジだけをはしけに降ろした。はしけには、大分前に打ち捨てられたのだろう小舟がいくつもつながれている。しかしそれが島の全貌で、それ以外には何もない。こんなところに降りてどうするのだろうか。
「俺はこれ以上奥には進まない決まりだ。あのぼろ舟のどれかを選んで、適当に漕いでけよ」
「適当ってどこに?」
「舟が連れてってくれるだろ。なんでもいいから、漕いどけ。じゃあな、ばかフジ!」
ヒューは言い捨てると、さっさと帰ろうと、元きた方角へ小舟を進めて行った。
「行った後はどうすんだよ!ばか!」
フジも怒鳴り返した。ヒューは小馬鹿にするように手を腰にやった後、振り向かずに漕ぎ去ってしまった。
「えー、どうしろっていうの?」
仕方なくそのぼろ舟に乗り込む。かなたには、ヒューが示した、建物の上部と思しきものがかすかに光を発している。フジは危なっかしい櫂さばきでそこへ向かって漕ぎだした。
夕方になると周辺の島々で鳥がやたらと騒ぎ出した。昼間もいろいろな鳥が鳴いていたが、今は騒がしいほどに集って鳴いている。いい声で鳴くのはカササギフエガラスやズグロミツスイ、かしましいのはインドハッカ、ぎゃぁぎゃぁとやかましいのは白いオウムだ。魔女の島と呼ばれるくらいだから渡り鳥もいるかもしれないとフジは耳を澄ましたが、留め鳥ばかりのようだ。
「だめだ。いくら漕いでも、どこにもつかないや。そりゃそうだよ、つくはずないじゃん」
フジはわけのわからない状況にうんざりして、櫂を放り出して舟に寝そべった。日はどんどん傾いている。霧のない夕刻というのは懐かしく、騒ぐ鳥の鳴き声も、橙色にたなびく雲も美しかった。
なんてきれいなんだろう。でも、このまま夜になったらちょっと怖いよね。ほら、もう暗くなってきちゃったもの。
唐突に、船首の荷物からカッチ、コッチと音がすることに気が付いた。布の覆いをめくると、立派な柱時計だ。フジは布をすべて剥ぎ取ると、柱時計を覗き込んだ。古い時計で、文字盤の周りの木枠は、手垢で黒光りしている。五時四十分を指していた。
「きゃっ」
フジは飛びのいた。規則正しく揺れる振り子の格納されている箱から何かが出てこようとしている。白い、もちのような物体だ。
もちは完全に時計から出てくると、少し身震いをして体の形を整えた。それは、おばけのように半分に透けている時計だった。出てきた柱時計と同じように丸い文字盤だが、数字は十四個書かれている。文字盤の下には、長方形の箱ではなく、ヤモリのしっぽのようなひょろんとしたものをくっつけていた。フジの目の前まで飛んできたかと思うと、急に低く伏して、手足を生やし、フジの周りをかさかさと歩き始めた。時計が頭で、胴体がヤモリ、という具合だった。
身動きできないでいると、時計の部分を何度もフジの眼前に迫らせる。コッチ、コッチと秒針が動く。漕ぐことを催促されているように感じる。
「のっけから気味の悪い島だなぁ」
フジはそうこぼしながらも、櫂を握り直し、再び舟を進めた。日はまもなく沈もうとしていた。




