急襲Ⅰ
千葉県:市原市五井大橋付近 19時20分
コンビナートの爆炎はここからでも見る事が出来た。突然の爆発に行き交う車もスピードを落として見入っている。歩行者も同じように何事かと集まり始め、動画を撮る者や写真に撮ってSNSに投稿する者が目立った。お陰で渋滞が発生し始め交通誘導のため現れたボランティアたちが旗や誘導灯を仕切りに振り翳す。実はこの時、最寄り駅である五井駅の周辺でちょっとしたイベントが開かれていたのだ。住民たちやイベント運営の人間で周囲は賑わっている。そんな中で交通誘導をしていたボランティアの1人が、養老川から何かが這い上がって来たのを目撃。暗いのも相まってよく見えず懐中電灯を照らしたが距離があるのでまだ分からない。近付いて見ようとした瞬間、猛烈な眼と喉の痛みで呼吸困難になり、立っているのもままならなくなって蹲ってしまった。異変に気付いた数人が近付こうとすると同じ症状に襲われ行動不能に陥る。その光景を見ていた周囲は一気にザワつき始めた。そして川から無数の人型が姿を表した瞬間、欄干から身を乗り出していた何人かが体を針で射抜かれ川に転落。誰が火蓋を切った訳でもないが住民たちはパニックに陥った。更に音も無く上陸していた無数の人型が五井橋から駅の方へ向け侵攻を開始。逃げ惑う人々に向けて針が降り注いだ。橋の上に居た人々は反対方向へ逃げたので取りあえず難を逃れる。市原署への通報が相次いで回線はパンク寸前、パトカー数台が急行するも50体近い人型には多勢に無勢を極める。助ける間も無く動かなくなっていく住民たちを目の前に絶望的な避難誘導が幕を開けた。
市原署刑事一課 神川警部補
漁港の情報は来ていたがこの辺りに現れる事は全く予想していなかった。養老川が淡水と海水の混じる所であるにしても完全に淡水域である部分に上陸して来るとは嫌な連中である。パトカー4台と覆面車3台が急行して現着したそこは、既に地獄と言って差し支えない状態だった。老若男女問わず針で射抜かれた者は痙攣を起こしてアスファルトに泡を撒き散らしながら動かなくなっていく。生物群はそんな住民たちを踏みながら近付きつつあった。互いの距離は既に50mもない。真っ黒い人間大の生物が横に列を成してゆっくりとこっちに向かっている。ここを阻止線にするのはもう間に合わないだろう。
「拡声器で屋内に居る者は施錠して外に出るなと伝えろ、駅前に阻止線を張って侵攻を食い止めよう」
「警部補!あれを!」
指差した先には電柱の影で子供を抱きしめる母親の姿があった。降り注ぐ針が電柱に弾かれてまだ無事だが接近されればそうもいかないだろう。
「フロントと後部座席の窓に大盾を横にして突っ込め。2人俺と来い。」
車内に大盾を無理やり押し込んだ。助手席の刑事が盾を横にしてフロントガラスにあてがい、足りない部分は小盾で塞いだ。手持ちなので派手な運転は出来ない。後部座席ももう1人の刑事が盾を突っ込んで手持ちで塞ぐ。助手席で2枚の盾を支える刑事が思わず嘆いた。
「無茶苦茶すぎませんかこれ、シートベルトも出来やしないですよ」
「スピードは出さないから安心しろ。後ろいいか?」
「とっ、取りあえずは…」
「マイクであの親子に声掛けしろ、ドアの鍵は開けておけよ」
針の雨が降る通りに車を進める。車体で針が弾かれる音が途切れる事なくバキバキと鳴り響いて凄まじく不快だ。幸いまだフロントガラスは破られてない。
「警察です!そこから動かないで下さい!今向かいます!」
拡声器の声が通りに響いた。近付くにつれて両側のヘッドライトが消えてフロントガラスにもヒビが入る。助手席の刑事がそれに驚いて跳ね上がった。
「っ!」
「落ち着け、まだ割れてない」
歩道に乗り上げて後部座席のドアを開ければ親子の盾になるように停めた。窓を下げて何発か撃ってやろうと思ったがここに来てついにフロントガラスを破られたので救出を優先する。助手席の刑事が今度は情けない声で悲鳴を上げた。
「警部補!窓が!」
「男のくせにガタガタ言うな!早く親子を!」
「乗って下さい!早く!」
手を伸ばすが母親は完全に足がすくんで動けないようだ。子供も泣きじゃくっていて動こうとしない。もたもたしている内に運転席側のサイドミラーが吹き飛んだ。完全に狙われているのを悟る。
「引きずり込め!長くは持たないぞ!」
「はい!」
後席の刑事が2人を車内に引き上げる。ドアがまだ開いているがこれ以上は待てなかった。一刻も早く脱出しなければ全員お陀仏になる。
「側面を一瞬だけ晒すから注意しろ!2人を絶対離すな!」
ギアをバックに入れて回頭する。運転席側の側面に降り注いだ針の1本がサイドガラスに突き刺さり、目の前に禍々しい針の先端がチラつくが驚いている暇は無い。そのまま通りを大急ぎで戻った。
「市原01、生存者を救出し後方に下がる、五井大橋と白金通りの合流地点を基準に阻止線構築を試みたが間に合わないようだ、五井中央通りを中心として再度阻止線の構築を行う、以上」
五井中央通りは既にパトカーと覆面車が2台ずつで4車線を塞いでいた。そこに自分たちの覆面車を横付けして全員降りる。
「2人とも無事だな?親子に怪我はないか?」
「ありません、駅の方で休ませて貰いましょう」
「2度と御免ですよこんな事」
「貴重な体験だろ。いいからさっさと持ち場に就け。」
不満を一蹴して阻止線の構築に務める。現在地である五井中央通りのこの交差点を突破されるとすぐ後ろは五井駅だ。内房線の職員たちが逃げて来た住民たちを一時的に収容して介抱している。だが何時までもそこに置いておく訳にはいかない。動ける者だけでも大至急移動させるべきだ。しかし何所に移動させるかもまた問題である。小走りで駅に入り改札の窓口に顔を突っ込んだ。
「市原署の神川と申しますが責任者は」
「私です、駅長の太田と申します」
「この辺の指定避難所は何所になりますか」
地図を見せて貰った。最も近いのは市原保健所と五井中川田公園である。しかし養老川の何所から上陸して来るか分からない状態で水辺に近付くのは危険だ。五井公民館などは既に侵攻を受けている一帯に含まれるので論外と言っていい。
「五井海岸から挟撃でもされると後ろに逃げるしかないな…」
ないと思いたいが、そうなると二つの水辺に挟まれたこの一帯は、何所で連中と遭遇するか分からない非常に危険な場所となる。やはり南へ逃げるしか選択肢はないだろう。
「避難所ではありませんが二反田公園はどうでしょう、線路を越えなければ向こう側へは簡単に進めない筈です」
「そうしましょう。すみませんがかなり近くまで来ているので細かい調整をしている暇がありません。救急車等はこちらで手配しますので動けない者だけは車両へ、動ける者は手空きの方々で誘導をお願い出来ますか。」
「分かりました」
踵を返してその場を去る。ふと気付いたがこの時間帯にも関わらず防災放送が流れていた。
『こちらは市原市です 現在、五井大橋付近で正体不明の生物による破壊活動が行われています 住民の皆さんは屋内へ退避し、安全が確保されるまでは外に出ないようお願いします 繰り返しお伝えします』
普段は機械任せの放送のくせによくあんな原稿を用意したものだ。破壊活動と言うと余計に逃げようとする人間が居そうだが仕方ない。既に連中が踏み込んでいる一帯の避難は後回しだ。これ以上侵攻されるとただ逃げるしか出来ないので、取りあえずでも足止めをしなければならない。全員拳銃はあるが連中とやり合うには乏し過ぎる武器だった。駅前の交番にも顔を出して状況を伝える。彼らには避難誘導をメインにお願いする事にした。同時に我々がもし全員死んでも前には出ず駅一帯の無人化を速やかに行って欲しいともお願いし、足早に阻止線へと舞い戻る。
「どうだ」
「一直線に向かって来ます、どうしますか」
「尻尾巻いて逃げる訳にもいかんだろ、やれるだけやるぞ。各自自由に撃て。」
消極的な攻撃が始まった。方針の一つとして、近いやつから優先して撃つ事にした。遠いのは狙わず当てられそうなのから撃っていく。それでも射撃が集中するといい具合に倒す事が出来た。浮き足立たせないように全員に声を掛けながら統制していると、署からの通信が入った。袖ヶ浦へ向かう攻撃チームから銃対が1個分隊だが応援に来てくれるとの情報である。有難い事この上なかった。全員の顔も明るくなる。
千葉県警銃器対策部隊 第3分隊長 小林巡査部長
市原署から緊急の応援要請が舞い込んだ。本隊から離れての行動を買って出たが、正直言って悪手である事に後悔する。僅か10名に満たない分隊で倍以上の50体近い生物と戦うハメになったのだ。
「降車!急げ!」
特型警備車から降りて外に出る。既に陽は沈んでいて街灯の明かりが頼りだ。道路をパトカーとやけに目立つボロボロの覆面車で封鎖して発砲している制服警官と刑事たちの元へ駆けつける。
「銃対の小林巡査部長です、遅くなりました」
「市原署刑事一課の神川警部補だ。よく来てくれた。連中は五井大橋方向から迫って来ている。我々で数体は倒したが数が多くてとても無理だ、頼むぞ。」
「了解、配置に就け!」
初弾装填音が重苦しく鳴り響く。サブマシンガンとは言えど拳銃弾で何所まで戦えるかは自分たちにも分からなかった。距離にして約100m、通りを向こうからゆっくりこちらへ近付いて来る黒いのが見える。あれが画像で見た人型だ。
「左腕か足を狙え。毒針さえなければ怖い相手じゃない。」
セミオートで発砲を繰り返した。1体2体と倒れ、運よく頭を撃ち抜けたのはガックリと崩れ落ちていく。だがそこまで精度の良い射撃ではないので互いの距離は縮まりつつあった。何本かの針がパトカーの車体を叩き始め、その内の1本が隊員のヘルメットに当たって跳ね返る。驚いて尻餅をついていた。
「大丈夫か!」
「何ともないです!」
「車体を飛び越して来る針に注意しろ!無闇に体を曝け出すな!」
そう言った瞬間、隣で発砲していた制服警官の右手から拳銃が滑り落ち、呻き声を上げて倒れた。左腕に針が突き刺さっているのが見える。同僚らしい警官が大声で呼びかける所へ神川警部補が割って入った。
「諦めろ!もう助からん!遺体を餌にされたくなかったら交番に担いでいけ!」
痙攣を起こして泡を噴き始める。もう何をしても無駄だ。諭された警官が担いで交番へと運んで行く。噴き出す泡がアスファルトに点々としていくのを撃つのも忘れて見続けた。
「……地獄だ」
戦場よりも酷い環境に思わず口走った。ゾンビの方がまだマシに思える。ここまで明確に同族以外を殺す事に特化した生き物がこの世に居るだろうか。
「巡査部長、士気が下がるぞ。滅多な事は言うもんじゃない。」
「…すみません」
攻撃を続行する。降り注ぐ針の数がどんどん増え始めた。車を盾にするのはこれ以上危険である。
「警部補たちは後退して下さい!車両から攻撃します!」
「分かった!後退するぞ!」
特型警備車に再び乗車した。この車両にはガンポートが備えてある。そこからならよっぽどでもない限り安全に射撃出来るだろう。全員が新しい弾倉を装填し、車内に置いてあった予備の弾薬を空の弾倉に詰め直した。恐らく我々はここで嵐が通り過ぎるまで戦う事になるだろう。
「内鍵はしっかり閉めておけ、各個に射撃開始」
車体に開けられた穴から閃光が走る。防弾加工された車体は流石に頑丈だ。降り注ぐ針の雨を意に介していない。距離が近付いたのと車両の中にいる事でこちらに軍配が上がり始めた。拳銃弾とは言え近距離では十分な威力である。並み居る人型が次々に射殺されていった。