非常線Ⅰ
事態発生から2時間近くが経過した頃、おおわしが異変を捉えていた。漁港の岸壁に3~4m近い大きさのヒトデのような生物が次々に出現。岸壁伝いに漁港へと上陸を果たした。すると不思議な事に漁港を占領していた人型が次々に海へと飛び込み始める。その光景を見ていたおおわしパイロットも通信指令室も何が起きたのか分からなかったが、それが地上への侵攻に対するヒトデの役割である事を見せ付けられた。
「おおわしから通信指令、ヒトデ型の生物が上陸。よく分からないが薄黒いガスのような物を撒き散らし始めた。」
だがそれだけでは終わらなかった。ヒトデの張り付いた部分が次第に溶解を始め、岸壁が無くなり出したのである。ゆっくりと漁港が海岸のようになっていく光景をおおわしのカメラが撮り続けた。取り残された漁船にも船体にヒトデが群がってガスを噴出しつつ溶かしていく。残った燃料に引火したのか、小規模な爆発が起きてヒトデが千切れ飛ぶも連中は全く意に介していない。そして人型が再び上陸を開始。最初に上陸した以上の数の人型が半ば海岸と化した漁港にひしめき合った。漁港一帯は薄黒いガスに包まれ、その中を人型が闊歩している。橋頭堡と言った方が相応しい光景だ。
千葉県警本部 田ノ浦警備部長
積み上げられた漁師たちの死体を人型が引きずってヒトデの所まで運んで行く。そしてヒトデの目の前に差し出すと、体から触覚のような物を出して死体を弄った後にゆっくりと覆い被さった。溶けたアスファルトに血が広がっていく。何をしているか見えないが恐らく溶解液を流し込んで臓器や肉を溶かしながら吸い出しているのだろう。食事が終わったヒトデは死体から離れ、餌の役割を終えた死体を人型が海に捨てていった。その光景を見た通信指令室は嫌な沈黙に包まれる。
「…………これはもはや侵略、いやそれ以上か」
人型は今見るだけでも100体は居そうだ。これ以上の数が上陸すれば大きな騒ぎになる。一瞬、あれが日本の全ての沿岸を襲う光景が浮かんだが振り払った。それを考えたらキリがない。
「本部長、報道へ今すぐに情報を公開するべきです。我々警察の力ではあの人型を遠まわしに押し留めるだけで精一杯でしょう。無用な血を流す前に自衛隊へバトンタッチする体制を整える事を提案します。」
「……あの光景が現実だと言うのか」
「手遅れを防ぐ事が出来るのは今この瞬間です。今ここで渋れば陸自の到着前にあれの都市部侵攻を許す事になります。上手くリレーを繋げば陸自の火力で押し込めつつ、その間に我々は避難誘導と封鎖に専念が出来ます。」
「…………我々の阻止線が機能するレベルになるまでどれぐらい掛かるかね」
「県機は当番隊以外まだ数が揃いません。SATは既に出動待機へ移行、取り急ぎでどうにかしないといけないのであれば、狙撃支援班だけを先に向かわせる事も可能です。」
情報では毒性のある針のような物を飛ばして攻撃して来るらしい。だが飛び道具の類ではなく、どうも体にそういう機能を持ち合わせているようだ。現在地球上に存在する生物で物を飛ばして攻撃するようなやつは居ない。そう考えると、やはりスナイパーライフル等であれば連中の届かない場所から安全に攻撃が出来る。問題はあの数だ。
「しかしあの数です。どんなに良い狙撃ポイントを確保したとしても、直接的な攻撃がなければ前進を止められないでしょう。それに大きな問題があります。我々は相手を捕まえる事を念頭に置いて行動しています。最初から相手を殺す目的で動く組織ではありません。」
「………それはあいつ等を正体不明の侵略国として考えろと言う事か」
「ここでどうこうしているより、国民保護法の適用を考えるべきでもあります。これは用意周到に練られた武力侵攻です。目的は不明ですが、明確な殺意がそこにあります。同族以外は容赦なく殺すでしょう。」
酒井本部長は暫く考え込み、ゆっくりと頭を上げた。その目は覚悟を決めた者の目だった。
「分かった、県知事に災害なり治安なりの出動を要請するよう勧告しよう。これから県庁に向かう。田ノ浦君、必要だと思った事は全て行動に移してくれ。ただし」
「裁可だけは、ですね」
「……全部が終わった時、あの部屋の席に座ってるのは君かも知れんな」
何かを悟ったような顔だった。2人の部下を連れて通信指令室を出て行く。さっきの言葉が何を意味するか分からないでもないが、全ては許可を下した者に還元されるだろう。
木更津署交通課 川井巡査部長
陽がゆっくりと傾きだした。このままここで夜通しの見張りは出来ればやりたくないのが正直な気持ちである。闇夜に紛れて浸透して来たら至近距離でどうにかしないといけなくなるのだ。1体に対し3人ぐらいでなら取り押さえられる気もするが、こっちは圧倒的に数も少ない。近付きながら針を飛ばして来たらもう逃げるしかないだろう。何より怖いのが、上陸したのが目の前の漁港だけではないのではと言う考えだ。周囲の警戒巡視を終えて戻ったパトカーから降りる同僚が川井に話し掛ける。
「避難状況はどうだ」
「近場は無事な漁師たちとその家族が避難を手伝ってくれた、大体半径300mにはもう俺たちしか居ない」
おおわしの報告だと、漁港一帯が連中の橋頭堡と化しつつあるそうだ。相手が人間であればまだ交渉や何かしらの手段がありそうだが、今相手にしているのは全く未知の敵である。対峙すれば確実に問答無用で殺されるだろう。ヤクザですら、殺すぞ殺すぞと言いつつ実行するのは中々覚悟が要ると聞いた事がある。しかし連中はお構いなしだ。子供ですら差別無く殺すだろう。
「これで後は広すぎる非常線を少ない俺たちでとうやって効率的に監視するかだな」
実はおおわしと連携して乗り捨てたパトカーを全部手元に戻していた。幸いにも連中はまだ漁港から動こうとしない。その隙を見ての行動だった。これで手元にあるパトカーは後から来たのも含めて10台となる。そこへ封鎖を手伝って貰っていた警備会社の人間が1人の中年女性を連れて現れた。
「お忙しいところ失礼します、こちらの女性がご家族と連絡が取れないと申しておりまして」
「私たち昼から港で働いてましてそのまま逃げて来たんですけど、息子が騒ぎの前に勤め先から家に帰って寝てるかも知れないんです。」
確かに施錠されている家は何軒かあったらしい。反応が無かったのと皆急いでいたので足早に次の家へ行ってしまったそうだ。
「息子さんは夜勤か何かですか?」
「会社の方だと10時に引き継いでそのまま退社したそうなんですが、そこからの足取りが分からないんです。もしかしたら家に居るんじゃないかと…」
拙い事態だ。地図を広げてどの家か確認する。指差した場所は漁港からそれなりに近い場所だった。早くしないと侵攻が始まってしまう可能性がある。その前に助け出さなくてはならない。しかしこちらも川井を筆頭に警察官は20人程度しか居なかった。監視の事を考えるとあまり人員は割けない。そこで女性を連れて来た警備員が口を挟んだ。
「パトカーと人員を下手に割けないのでしたら車と2名ほどお貸しする用意がありますが」
「いいんですか」
「どちらにせよ急がなければならないのは我々も承知しています。それに我々が動けるのも今の内だけでしょう。救助をスムーズに行うため手を貸すのが道理だと思います。」
「分かりました、ありがとうございます」
警備会社の巡回車が到着。乗っていた2名の警備員が指揮下に入った。川井とその同僚は後部座席に乗り込む。
「連絡は取り続けて下さい。家と携帯を交互にお願いします。もし連絡がついたら誰でもいいので直ぐに知らせて下さい。」
「ありがとうございます、それとこれが家の鍵です」
「お借りします」
家の鍵を受け取り、巡回車が非常線の向こうへ入っていく。港に近付くにつれて嫌な汗が出始めた。運転手に声を掛ける。
「家の少し前で降ろして下さい。もし連中が侵攻を始めたら迷わず逃げて貰って構いません。」
「りょ、了解です」
向こうも緊張しているようだ。漁港の上空が薄黒いのが気になる。おおわしの報告だと新種の生物が上陸して薄黒いガスを撒き散らしているらしい。隣の同僚がポロッと呟く。
「あれって十中八九俺らには毒ガスだよな」
「だろうな、自分たちに都合のいい環境にしてるんだろう」
「恐ろしい話だ」
暫し車に揺られる。少しずつスピードが落ち始めた。カーナビと周囲の確認に余念が無い。
「あそこです」
助手席の警備員が指差した先に二階建ての一軒家があった。周りは草木が生い茂っているが人間の大きさなら見渡せるレベルだ。これなら遠目でも分かるだろう。降りる前に拳銃の確認を開始。撃鉄を起こすのはまだ早いがホルスターのボタンは外して置いた。同僚と共に降車し家まで駆け足で向かう。
千葉県知事 沼津邦弘
そろそろ帰ろうと思っていた矢先に面倒な事態が飛び込んで来た。袖ヶ浦漁港を謎の生物の集団が急襲し漁師や港湾関係者を虐殺。更に別種の生物によって謎のガスが散布され橋頭堡になりつつあるらしい。
「酒井君、どうにも要領を得ないんだが」
「ではこちらの映像をご覧下さい」
1人の部下が小脇に抱えたタブレットを差し出した。再生された映像は県警の航空隊ヘリが撮影した物を大急ぎでコピーした物らしい。漁港に積み上げられた死体の山と周囲を闊歩する人型の生物が目に飛び込んで来た。更にカメラが物陰で逃げる機会を窺っている漁師を捉える。走り出すと同時に見つかったようで、4~5体の人型が何か針のような物を飛ばして漁師を動けなくした。そして漁師たちは毒か何かでもがき苦しみ始め、最後は全員そのまま動かなくなった。おそらく死亡したのだろう。
「…………これは」
「2時間ほど前の映像になります。現在漁港は別種の生物が上陸し岸壁を溶解したせいでまるで海辺のようになっています。これ以上の数、もしくは別の場所にでも上陸されれば非常に危険な事態になるでしょう。手遅れになる前に自衛隊の災害または治安出動を要請して頂きたいのです。」
「ちょっと待ちたまえ。君たちは仕事を放棄すると言うのかね。」
「知事、これは正体不明の国による武力侵攻とお考え下さい。ご覧のように連中は同族以外に一切の容赦をしません。例え目の前に居るのが老人や子供だろうが問答無用で手を下すでしょう。」
何もかもが信じがたい。しかしこの映像は本物だろう。今ここで判断を間違えば、この死体の山以上の被害が出るのは確実だ。
「何を持って武力侵攻だと判断したのか聴かせて貰えるかな」
「現在もその目的は不明ですが、明確な殺意を持っているのは確実です。野生動物が相手を殺すのは縄張りや食べるため等の理由があります。その殆どは近付かなければ問題ありません。ですが連中は自ら近付いて来て漁港を不法占拠し、そこに居た人々を何の前触れもなく殺しました。これが武力侵攻でなくてなんだと言うのでしょうか。」
その先の映像を見せるにはまだ早いと酒井本部長は思っていた。これで折れなければ見せる覚悟ではいたが、知らない方が幸せな事もあるものだ。
「ご決断を」
難しい話だ。それは彼等も承知しているだろう。確かに警察のレベルでは対処出来ない事態だ。だがこれは治安出動よりも防衛出動の方が後腐れないような気がする。
「……分かった。まず治安出動で突っついてみよう。」
「ありがとうございます」
「しかしだ、各隣県の県警や警視庁との調整に関するいざこざだけは持ち込まないで欲しい。」
「それはお任せ下さい」
3人が引き払ったのを確認し、首相官邸危機管理センターへの直通電話を手に取った。何と言ったものかと思案が巡る。
木更津署交通課 川井巡査部長
呼び鈴を鳴らすが確かに反応が無い。戸締りもされている。借りた鍵を使って玄関を解錠した。
「そう言えば息子さんの名前聞いてなかったな」
「まぁいいさ」
引き戸の扉を開けると、目の前に全身がブヨブヨした人型が立っていた。水中ゴーグルのような目の淀み切った瞳と視線が合う。咄嗟に左手を上げたのを見た瞬間に身を隠し、針が外に飛んで行ったのを確認した後に拳銃を引き抜いた。銃だけを室内に向ける。
「撃て!」
1人5発。2人で10発を撃ち込んだ。銃声を聴いた警備員がさすまたを持って駆け付けて来た。
「大丈夫ですか!」
「玄関前に立つな!中に居る!」
新しい弾丸を装填する。試しに石ころを中に放り投げたが反応が無い。
「もし可能ならそのさすまたで左腕を押さえて下さい。中に入ります。」
「はい」
後ろに警備員を立たせ自分越しにさすまたを突き出す。中に入ると、胸の部分から血を流して死んでいるのが確認出来た。足で蹴ってみるが反応は無い。
「心臓が止まるかと思った」
「居るとは思わないわな」
警備員を車に戻して内部の調査を再開。どうやら勝手口が開いていたようだ。そこから侵入したらしい。2階に上がると、いびきをかいて寝ている男性を発見。彼が息子のようだ。母親からの不在着信が何件も入っている携帯を取って連絡してみると当たりだった。揺さぶって起こす。状況を理解出来ていないようだが詳しく説明している暇もない。
「千葉県警の者です。すいませんが必要な物だけ持って指示に従って下さい。」
「え、あ、は、はぁ」
その時、外から悲鳴が聞こえた。階段の手前にある小窓から外を見ると乗って来た巡回車に人型2体が取り付こうとしていた。外に向かって大声で叫ぶ。
「逃げろ!早く!」
人型がこっちを向いた。その隙に巡回車が走り去って行く。大急ぎで1階に下りて玄関と勝手口を閉めた。かなり拙い事態である。
「木更津06、救助活動中に孤立した。警備員の避難は成功なるも救助者1名及び同僚と共に孤立、周囲の状況はどうか。」
「おおわしから木更津06、済まない。何体かが浸透し始めている。その周辺には目視で5体見受けられる。家の中に居るなら動かない方がいい。」
居場所がバレてないならそれもいいだろう。しかしさっきの2体は完全に敵が取り残されているのを認識した筈だ。数で押して来ないなら立て篭もって何とか出来るかも知れないが何も確信は無い。
事態が急激に悪い方向へ傾き出したのはここからだった…