在りし日
「明日から夏休みやなぁ!」
僕らは母が洗濯物干すのを横目に夏休みの前日を迎えた、僕は6つだった。
入道雲がもくもく、上がっていた。
夏休みという感覚がわからない僕らはただただ跳ね、姉と遊んでは寝て、の繰り返しだったと思う。
ひとつ繰り上がっても、もうひとつ繰り上がってもやはり見覚えのある夏だ。
終わりきれない夏に終止符が打たれるのは僕が手をつけなかった大量の宿題だった。
そんなある夏の休日には計り知れない空虚な感覚があった。
あれはたしか中学生の頃だったか。
僕はなにか夏の映像を見て、惚れた。
夏が好きになったのだ。
僕は夏が来る前に友達に「あの山の上で綺麗な入道雲が見たい」と告げた。
「何アホなこと言うてんの」と彼女は言った。
途端に夏はきた。
ただ、綺麗な入道雲が見えた時はいつも見上げるままで終わった。
僕はひたすら待った、来る年来る年、いつまでも綺麗な入道雲を上で眺めれることだけを待った。
途端に高校生の終わりを迎え、その友達に「結局あの山の上で綺麗な入道雲見られへんかったな」と告げた。
「そうやなぁ」毎年こう告げていたせいか、彼女は覚えていてくれたみたいだ。
まるで一種の思い出のようにこの言葉はあの夏へ溶けた、いつまでも忘れられない僕の見たあの映像とともに、私のその言葉は陽炎になり、溶けたのだった。
今思えばそれは綺麗な思い出で、むしろ「あの山の上で綺麗な入道雲を見る」ことはしなくて良かったのかもしれない。
今思う、もはやそう言うものだったのだ。
何が起きるか起きないかは自分で決め、そしてなによりそれは自分そのものの思い出であった。