血
時計の針が動いた。
あの悪夢のような現場から、本部談話室に戻って、もう1時間が経つ。
そう確認したラルムの頭上で、何度目かの小野寺の悲鳴が、長く尾を引いて消えていく。
現場で錯乱状態に陥った小野寺は、真田に打たれた鎮静剤で、未だ目覚めていない。それでも、時折叫んで、怯えたように痙攣を繰り返しているのだ。その症状を良く知る真田が、傍に付いてずっと小野寺を看ている。
小野寺の休む仮眠室から漏れる声以外、何も聞こえない。皆押し黙って、下を向く。何か仕事が有る者だけが、時たま席を立って出ていく。いつもの談話室らしさは微塵も無い。全く同じ部屋なのに吸い込む空気の密度まで違って感じる。
まるで、誰かの通夜のように重い。
ラルムも、ただ手に持った缶珈琲を眺めるだけで、動けない。プルタブさえ、買った時から一ミリだって動いていない。
「大丈夫か?」
ぽん、と肩に手を置かれて、ラルムは思わず飛び上がった。それほど深く思考に沈んでいたのだろう。振り返ると、月島が立っていた。
「僕は、なんとか……。あの、月島さん」
「……秀の事か?」
「はい」
こくり、と頷くラルム。その姿に、柘榴石の色をした月島の瞳が一瞬揺らぐ。その揺れを瞼で閉じ込めて、月島は重くため息を付いた。
「……秀は、此処では珍しい加害者遺族だ」
紡がれた言葉に、ラルムは握ったままにしていた缶を取り落とした。
小野寺の10歳の誕生日。双子の兄、小野寺怜は秀を叩き起こす。手を引かれて子供部屋から、両親の寝室へ。怜は、何の躊躇いもなく両親に包丁を突き立てた。そして、自分たちが育った集落に火を放ち、住人を次々手にかけたというのだ。
「そんな…どうして?」
「動機は分かっていない」
二番目の被害者、母親は怜に刺され重傷を負った。だが、死んではいなかったのだ。痛む体を押して、血塗れの息子を抱いて、母は火に身を投げた。犯行を止める為に。
「秀は、その全てを見ていた」
砂鳴村事件。一般的にそう呼ばれる事件なのだそうだ。
「事件そのものも悲惨だったが、報道の過熱も問題だった」
悪魔の子。未成年の為、そう報道された小野寺怜。たった一人残された小野寺秀はマスコミの餌食になった。ある週刊誌が、小野寺家の写真をロクな修整もせずに掲載したのだ。取材過程で、双子だという事も、掴まれた。
小野寺秀には、悪魔の子と同じ血が通っている。
それが知られると、小野寺は一つの孤児院に長く留まる事も難しかったらしい。
「……そんな、なんで!?」
「この国は、良くも悪くも閉鎖的だ。異分子は排除される」
言い切った月島は項垂れる。彼の頬にかかった髪色は……人とは違う。だから、小野寺の気持ちが分かって仕舞うのだろう。
「親もない幼い子が謂れの無い非難から身を守る方法は限られる。徹底的に自分を嫌うか、大人に媚び諂うか……贖罪だけだ」
「しょくざい……?」
「秀は、兄が奪った以上の命を救う事で、赦しを求めている」
その言葉は、とんでもない重みで伸し掛かってきた。
小野寺秀は、何もしていないのだ。何の罪も侵していないのに、何を贖うというのだ。
しかも、こんな職場で。人を殺しながら。
「まさか……小野寺先生の左腕は……」
「あれは墓標だ。殺した人間と救えなかった人間の数だけ傷が増えていく」
それは、まるで賽の河原だ。小野寺がどれだけ人を救っても、罪が次々とそれを塗りつぶしていく。
小野寺は、眠っている今も、その悪夢に飲まれているのだ。
また、小野寺が休む仮眠室から悲鳴が聞こえてくる。
ラルムは、ただその扉を眺める事しか、できなかった。




