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夜釣り

 夜釣りに来ていた。

 夏の暑い夜、埠頭の岸壁に腰を下ろし、ゆっくりと朝を待ちながら魚を釣る。

 今日は半月で風も穏やかだ。

 釣りには適した環境だ。

 今日は釣れるという予感めいたものが自分の中にあった。

 岸壁には誰もいない。


 釣り糸を垂らして待つ。

 生温かい風が頬をすり抜けていく。

 磯の香りは、海で育った自分には懐かしい記憶を呼び起こす。

 普段は都会でサラリーマンをしていて、たまにこうして釣りを楽しむ。

 人生の休息地がこの趣味の釣りだった。


 ボーっとしていると手ごたえがあった。

 竿がしなり強く引いている。


「お、これは!」


 タモを持って釣れた魚をすくう。

 クロダイだ。

 開始10分で一匹ゲット。しかもクロダイ。悪くない。

 それからは面白いように魚が釣れた。

 1時間ほどで10匹、釣りあげた。


 餌を着けて竿振る。


「助けて」


 風に紛れて声が聞こえた気がした。

 辺りを見渡すが、自分以外誰もいない。

 テトラポッドに当たる波の音のせいかもと思うことにした。

 波はゆっくりと流れている。


「助けて」


 今度はもっとはっきり聞こえた。

 確かに声がした。

 しかし周囲には誰もいない。

 外海には一艘のボートが浮かんでいるが、そこから聞こえてくるには遠すぎる。

 いるとしたら自分から死角になっているところに人がいるということになる。

 見晴らしの良い岸壁の上で死角になるところはテトラポッドの隙間とか、海面に近いところぐらいか。


「誰かいるのか?」


 叫んでみた。

 しかし、声の主は返事をしてこない。


「助けて」


 また声が聞こえた。

 方向はわからないままだが、声は聞こえる。

 しかも、これは女性の声っぽい。

 懐中電灯で辺りを照らしながら歩いてみた。

 もし、誰か人が海で溺れているならこれは一大事だ。


「助けて」


 さっきより声が近くになったような気がした。

 岸壁の先端に近づいて歩いて行く。

 先端まで来て待ってみる。


「助けて」


 やはり声が近くなっている。

 岸壁の内海には誰もいない。

 いるとしたら、外海のテトラポッドの影にいるということだ。

 外海に向かって叫ぶ。


「どこにいる?」


 しばらくして声がした。


「こっちよ、助けて」


 声の方向はやはり外海だ。

 夜のテトラポッドには足を踏み入れたくない。

 しかし、人がいるならほおっておけない。


 足元を照らしながら進んでいくと、女がテトラポッドにしがみついていた。

 穏やかな波に揺られながら、上がってくる気配はない。


「大丈夫か!」

「もうダメ、力が入らないの。助けて」

「わかった、がんばれ!」


 女の近くまで来て、ブロックにつかまりながら手を伸ばす。

 女はまだ若く、綺麗な顔をしていた。

 血色も良く、なんでこんなところにいるのか不思議なくらいだ。


「手を伸ばせ!」


 なんとか女の手を掴み引っ張り上げようと力を入れる。

 しかし片手では女を引っ張ることができないほど重い。


「お願い、助けて」


 女は涙目になりながら、力強く自分の手を掴んでくる。

 足場の悪いところを何とか引っ張るが異常なほど重たく感じる。

 そして掴んでいた手が離れた。ブロックの方から。

 それでも女は手を離さずむしろ引っ張ってきている。

 そのまま片足が海に浸かり、そのまま引っ張られる。

 女は手を離す気配さえない。


「お願い、助けて」


 良く見ると女の下半身にも無数の手がついて、女を引っ張っているではないか。


「うわっ、なんだ、なんなんだよ! お前は」


 それでも女は今までと同じことを繰り返す。


「お願い、助けて」


 女に引きずられる形で俺は海に引きずり込まれて行った。

 海面から顔が沈んだとき女は手を離し、体が自由に動くようになった。

 慌てて海面に顔を出す。

 服を着ているので重いが、何とか浮かぶことができた。

 途端に足を掴まれ海中に引きずられる。

 息もつけないまま海面が遠くなる。

 また足についている手が離れた。

 海面を目指して泳ぐ。

 海面に出て大きく息を吸い込む。

 その瞬間にまた足を引っ張られる。

 そして海中に引きずり込まれる。

 ある一定距離、たぶん1メートル程度だと思うが、海中に引きこまれると足を掴んでいた手は離れていく。

 そこで慌てて海面まで泳ぐ。

 そんなことを繰り返しているうちに沖まで流されてしまっていた。

 何度も海面と海中を行き来しているうちに、だんだんと体力を消耗してしまっている。

 これではいつか力尽きて死んでしまう。


 海面を照らす光が見えた。

 そこへ向かって必死に泳ぐ。

 顔を出したところに浮輪が近くに落ちていた。

 それにしがみつこうとしたが、またもや海中に引きこまれた。

 次こそはと思い、力の限り泳ぐ。

 何とか海面に顔を出し、浮輪にしがみつくことに成功した。

 足は何者かに引っ張られているが、浮輪のおかげで沈むことはなかった。


「大丈夫か掴まれ」


 ボートから手が伸びている。

 俺はボートの人の手を取ることができた。

 ボートの人が力を入れて持ち上げようとしてくれたが、足の方も何者かに引っ張っているので、簡単には持ちあがらないようだ。

 ボートの人はあまりに俺が重いのか、手を離してしまった。

 俺の中で絶望が広がる。


「お願いだ、助けてくれ」

「大丈夫だ。少しの間浮輪にしがみついていろ。頑張れよ」

「そんなこと言わずに、早く上げてくれ、誰かに足を掴まれているんだ」

「わかっている、心配するな」


 ボートの男は立ちあがると、ポケットの中から白い紙を取り出し、手でちぎり始めた。


「何してんだ。遊んでないで助けてくれ」

「うるさい! 気が散る。少しの間そうしてろ」


 ボートの男に一喝され、俺は必死に浮輪につかまるしかなかった。

 足には手があり、離す気配はない。


 ボートの男は御幣束ごへいそくを取り出して、ちぎり終わった紙を人差し指と中指で挟んで持っていた。


急々如律令きゅうきゅうにょりつりょう!」


 右手のちぎられた紙が青白く光って見えた。

 その手を素早く払うと、紙が弾丸のように海の中へ飛び込んで行った。

 紙は青白く光りながら海面を漂っていた。

 いきなり足が軽くなった。

 見ると、足を掴んでいた手が離れ、さっき投げ込んだ紙を掴もうと海面に上がってきていた。


「今のうちに早く」


 男が手を伸ばす。

 俺はその手を取り、何とかボートの上に上がることができた。


「ありがとう、助かった」


 俺はお礼を言ったが、男はぴしゃりと返してきた。


「まだだ!」


 ピチャっと音がした方をみると、ボートの縁に手が掛った。

 もう一度ピチャっと音がすると両手を掛け、さっきの女が頭を出した。


「お願い、助けて」


 おれは思わず叫んでしまった。


「ひいぃぃぃ! この女だ! この女が俺を海に引きずり込んだんだ!」


 引き上げてくれた男は御幣束を勢いよく振り抜いた。

 御幣束は女のこめかみを打ち抜き、女は海の中へ沈んで行った。


「溺れる者は藁おも掴む! 急々如律令きゅうきゅうにょりつりょう! 悪・霊・退・散!!」


 御幣束を海に向け振り下ろすと先端から青い光弾が飛び出し、海中の女に命中した。


「今日の釣りは中止だ。早く出せ!」


 ボートにはもう一人乗っていて、そっちの人がボートを操作して、今いたところから離れていた。

 モーターボートは漁港に帰った。


「ありがとうございます。助かりました」

「危ないところだったな」

「あの、お礼をしたいのですが、こんな夜中じゃどこも開いてない」


 濡れた服を脱ぎ、絞りながら話す。


「おっさんは、なんであんなところで溺れていた?」

「夜釣りをしていて、女が助けてというから、助けたらそのまま海に引き込まれて」

「ほう、夜釣りですか」

「はい」

「釣れましたか」

「はい。かなり釣れました」

「俺らは全然ダメでしたよ。お礼と言っちゃなんだが、少しその魚、分けてもらえませんか? さすがにボウズで帰るのはちょっと」

「あぁ、そんなんでよければ、全部でもさしあげますよ。命の恩人だ」

「いいや、貰っても食べきれる分だけで結構!」


 男は手の平を俺に向けて笑っていた。


「そういえば、お名前を聞いていませんでしたね。命の恩人なのに。しかもあの技、すごかったですね」

「俺は陰陽師のJだ」


 陰陽師ってすごい。俺は感謝してもしきれないと思った。

「溺れる者は藁おも掴む」とは、人は困窮して万策尽きたとき、まったく頼りにならないものにまで必死にすがろうとするというたとえ。

出典 故事ことわざ辞典

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