婚約者のお母様に「うちの嫁にはふさわしくない」と言われたので、嫁ではなく大家としてご挨拶に伺いました
「あなたみたいな地味な子、うちの嫁にはふさわしくないわ」
高梨家の広い客間に、義母になるはずだった人の声が響いた。
床の間には、立派な掛け軸と、季節の花。
縁側の向こうには、手入れの行き届いた庭が広がっている。
この町では珍しい、古くて大きな日本家屋だ。
修一さんはよく、「うちは古いだけの家だよ」と照れたように言っていた。
正座した膝の上で、私は手土産の紙袋の持ち手を握りしめる。
駅前のデパートで、一時間迷って選んだ羊羹だった。
「修一から聞いたわよ。経理の事務員なんですって?」
「はい。中堅の食品メーカーで、七年目になります」
「七年も事務員。出世の見込みもないってことね」
聡子さんは、湯呑みを置く音まで上品だった。
「うちはね、代々この土地で暮らしてきた家なの。修一は長男で、いずれこの家を継ぐのよ。お嫁さんには、それなりの家柄と華やかさがないと困るの」
私は隣に座る婚約者を見た。
高梨修一。
付き合って二年、婚約して半年の人だ。
修一さんは、黙って目をそらした。
それが答えだった。
「分かりました」
私は紙袋を畳の上にそっと置き、深く頭を下げる。
「では、このお話はなかったことにさせてください。今日はお時間をいただき、ありがとうございました」
「ちょ、結衣、待てって」
「修一さん。お母様のおっしゃる通りだと思います。私、華やかさはありませんから」
私は笑顔を作ったまま立ち上がった。
玄関で靴を履いていると、背中越しに聡子さんの声が聞こえてくる。
「ほらね。ああいう子は引き際だけはいいのよ」
引き戸を閉める。
外に出ると、九月の夕方の風が頬に当たる。
泣くかと思ったけれど、涙は出てこない。
駅までの道を、ゆっくり歩く。
二年分の思い出が、一つずつ浮かんでは消えていく。
修一さんと初めて行った映画館。
誕生日に予約してくれた、少し背伸びしたレストラン。
プロポーズの夜、緊張で指輪の箱を落としかけた修一さんの顔。
優しい人だと思っていた。
でも、優しいのと、何も言わないのは、違う。
今日、それがよく分かった。
ただ、無性に祖母の顔が見たかった。
◇
「で、振られてきたのかい」
「振ったの。私のほうから」
「同じことだよ」
祖母の千代は、縁側で柿をむきながら鼻を鳴らした。
八十二歳。
背筋はまっすぐで、口は私の百倍悪い。
「羊羹は置いてきたのかい。もったいない」
「そこなの?」
「当たり前だよ。あそこの羊羹は一本二千八百円するんだ」
思わず笑ってしまう。
祖母の家に来ると、いつもこうだ。
剥き終えた柿を皿に並べて、祖母はふと手を止めた。
「結衣。ちょうどいいから、話しておくことがある」
「なに?」
「来月から、おばあちゃんは駅の向こうのケア付きマンションに入る。前から決めてたんだよ」
「え……」
「それでね。おじいちゃんから継いだ土地と家作の管理を、あんたに任せたいんだ」
祖母は、古い茶封筒を私の前に置いた。
中には、何枚もの書類が入っていた。
土地の登記簿の写し。
賃貸の契約書。
そして、貸している物件の一覧表。
祖父は、この町で小さな地主をしていた。
それは知っていた。
祖父が亡くなってからは、祖母が一人で管理してきたことも。
一覧表の上から、住所を一つずつ目で追っていく。
六行目で、指が止まった。
「おばあちゃん。これ」
「うん?」
「高梨さんって、この高梨さん?」
祖母は、老眼鏡を額に押し上げて一覧表を覗き込んだ。
「ああ、高梨さんとこかい。あの家はね、土地も建物もうちのだよ。四十年前から貸してる」
四十年前から。
代々この土地で暮らしてきた家。
修一は長男で、いずれこの家を継ぐ。
聡子さんの声が、頭の中で繰り返される。
「……おばあちゃん、あそこのお家賃って」
「月八万」
「八万? あの広さで?」
「亡くなった高梨の旦那さんがね、おじいちゃんの幼馴染だったんだよ。貧乏してた若い頃に、おじいちゃんが安く貸してやったんだ。それからずっと、そのまんま」
祖母は柿を一切れ口に入れて、もぐもぐと噛んだ。
「旦那さんが元気なうちは、毎年お中元とお歳暮を持って、律儀に挨拶に来てくれたもんだけどね。奥さんの代になってからは、なしのつぶてだよ」
「そうなんだ……」
「そういえば、ここ四か月、家賃も入ってないね」
私は、一覧表から顔を上げた。
「おばあちゃん、それ、もっと早く言って」
「言ったって、あんたの婚約者の家だと思わなかったからねえ」
祖母は、にやりと笑った。
「で、どうするんだい。新しい大家さん」
◇
翌週の土曜日。
私は、祖母の代から管理を頼んでいる不動産会社を訪ねた。
担当してくれたのは、桐谷さんという三十過ぎの男性だった。
「早瀬千代様から、お話は伺っています。本日から、結衣様がオーナーということで」
「はい。何も分からないので、よろしくお願いします」
駅前の雑居ビルの三階にある、小さな事務所だ。
窓際には観葉植物が並び、壁には町内の古い地図が貼ってある。
祖母は、祖父の代からずっとこの会社に管理を任せてきたのだという。
桐谷さんは、分厚いファイルを机に広げた。
物件ごとの契約書、入金の記録、修繕の履歴。
一つずつ、丁寧に説明してくれる。
難しい言葉が出てくると、必ず言い換えてくれた。
「高梨様の物件ですが」
桐谷さんが、ファイルの一枚を指さす。
「来月末で、契約の更新期限です。それと、家賃のお支払いが四か月分滞っています。こちらからは三度、督促のお手紙をお送りしていますが、お返事はいただけていません」
「そうですか」
「相場ですと、あの立地と広さなら、月二十五万前後が妥当です。四十年間、一度も改定されていません」
二十五万。
今の家賃の、三倍以上だ。
桐谷さんは、少し言いにくそうに付け加えた。
「失礼ですが……高梨様とは、何かご縁が?」
「先週まで、あそこの長男の婚約者でした」
桐谷さんが、ぴたりと固まった。
「それは……」
「大丈夫です。仕返しをしたいわけじゃありません」
私は、ファイルの契約書に目を落とした。
「祖父は、幼馴染のために家賃を安くしました。それは祖父と、高梨のおじいさんとの約束だったと思うんです。でも、その約束を知っている人は、もうあの家にはいない」
「……はい」
「だから、普通にしたいんです。普通の大家として、普通の条件で、更新のお話をしに行きたい。一緒に来ていただけますか」
桐谷さんは、しばらく私の顔を見ていた。
それから、静かに頷いた。
「もちろんです。それが、私の仕事ですから」
◇
十月の最初の日曜日。
私は、ひと月前と同じ高梨家の門の前に立っている。
門の脇の金木犀が、甘い匂いを漂わせていた。
ひと月前は、この門をくぐるのに胸を高鳴らせていたのに。
今は不思議なくらい、落ち着いている。
隣には、スーツ姿の桐谷さん。
手には、更新の書類を入れた封筒。
インターホンを押すと、聡子さんの声がした。
「はい、どちら様?」
「ご無沙汰しております。早瀬結衣です」
一拍の沈黙。
それから、玄関の引き戸が勢いよく開いた。
「あら、何の用? 未練がましいわね。修一ならいないわよ」
聡子さんは、私を上から下まで眺めて、鼻で笑った。
ちょうど、隣の家の奥さんが庭の植木に水をやっていた。
聡子さんの声は、よく通る。
「今日は、修一さんに会いに来たのではありません」
「じゃあ何よ。羊羹なら返さないわよ」
桐谷さんが、一歩前に出た。
「突然お伺いして申し訳ありません。私、こちらの物件の管理をしております、桐谷と申します」
差し出された名刺を、聡子さんは怪訝そうに受け取った。
「管理? 何の話?」
「こちらのご自宅の、土地と建物の管理です」
桐谷さんは、私のほうに手を向けた。
「そしてこちらが、今月からこの土地と建物のオーナーになられた、早瀬結衣様です」
聡子さんの手から、名刺がひらりと落ちた。
「……は?」
「本日は、嫁ではなく、大家としてご挨拶に伺いました」
私は、ひと月前と同じように、深く頭を下げた。
◇
「う、嘘おっしゃい! ここはうちの家よ! 代々うちの……」
「四十年前に、私の祖父が高梨さんのおじい様にお貸ししたものです。登記簿の写しをお持ちしました」
封筒から書類を取り出して見せる。
聡子さんの顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。
隣の奥さんが、ホースを持ったまま固まっている。
水が、植木鉢からあふれていた。
「お母様。いえ、高梨様」
私は、できるだけ穏やかな声で続けた。
「今日は、二つのお話をしに来ました。一つ目は、四か月分のお家賃のことです。三度お手紙をお送りしましたが、お返事をいただけていません」
「そ、それは……忙しくて、見てなかっただけで……」
「分かりました。お支払いが難しいようでしたら、分割でも構いません。桐谷さんと、ご相談いただければと思います」
聡子さんは、口をぱくぱくさせた。
「二つ目は、来月の契約更新のことです。四十年間、お家賃は一度も改定されていません。今回から、周辺の相場に合わせた金額で更新をお願いしたいと考えています」
桐谷さんが、書類の数字を指で示す。
私は、聡子さんの顔をまっすぐに見る。
意地悪をしたいわけではない。
ただ、祖父と高梨のおじいさんの約束に、この人がずっと甘えてきたことを、知ってほしかった。
聡子さんは、その数字を見て、小さな悲鳴を上げた。
「二十五万……!? そんなの、払えるわけないじゃない!」
「相場どおりの金額です。もちろん、更新なさらないという選択もできます。その場合は、転居先探しを桐谷さんがお手伝いします」
そこへ、玄関の奥から足音がした。
「母さん、誰か来て……結衣?」
修一さんだった。
寝癖のついた頭で、スウェット姿のまま立っている。
「修一! この子、この家の大家だって言うのよ!」
「は? え? 大家?」
修一さんは、私と書類と母親を、何度も見比べた。
それから、なぜか顔をぱっと明るくした。
「な、なんだよ結衣、それならそうと早く言ってくれよ。母さんもさ、結衣はこういう子なんだよ。地味に見えて、実はしっかりしてて」
「修一さん」
「な? 婚約、やっぱりやり直そう。母さんも、結衣が大家さんなら文句ないだろ?」
「そ、そうよ!」
聡子さんが、急に猫なで声になる。
「結衣ちゃん、この前はごめんなさいね。わたし、あなたのことを誤解してたみたい。やっぱり、うちのお嫁さんにぴったりだわ」
私は、二人の顔を順番に見た。
ひと月前、この家の客間で。
目をそらした人と、鼻で笑った人。
「ありがとうございます。でも、お断りします」
「な、なんで……」
「嫁にふさわしくないと言われたのは、私が地味な事務員だったからですよね」
私は、にっこりと笑った。
「私は、今も地味な事務員です。大家になったからといって、何も変わっていません。変わったのは、高梨様のほうです」
聡子さんが、言葉に詰まる。
「ですから、今日は大家としてだけ、お話しさせてください。更新の書類は置いていきますね。お返事は、今月末までにお願いいたします」
私は書類を玄関の上がり框に置き、もう一度頭を下げた。
門を出るとき、隣の奥さんと目が合った。
奥さんは、慌ててホースの水を止めた。
それから、なぜか私に向かって、小さく親指を立てた。
◇
帰り道、駅までの並木道を、桐谷さんと並んで歩く。
銀杏の葉が、少しずつ色づき始めている。
ひと月前、一人で泣きそうになりながら歩いた道だ。
今日は、足取りが軽い。
「お疲れさまでした」
「すみません。私的なことに付き合わせてしまって」
「いいえ。オーナー様の物件の更新のご説明は、私の仕事です」
桐谷さんは、前を向いたまま言った。
「それに、あんなに公正な更新のご説明は、初めて見ました」
「公正、でしたか」
「滞納の分割を、ご自分から提案なさるオーナー様は、そう多くありません。まして、あの状況で」
私は、少し照れくさくなってうつむいた。
「祖母に言われたんです。うちは地主だけど、偉いわけじゃない。土地を預かってるだけなんだよって」
「いいおばあ様ですね」
「口は悪いですけど」
桐谷さんが、小さく笑った。
初めて見る笑顔だった。
「早瀬さん」
「はい」
「来月から、物件の定期報告で、毎月お会いすることになります」
「はい。よろしくお願いします」
「その報告のあと、もしよろしければ、お食事でもいかがですか」
私は足を止めた。
桐谷さんも、足を止める。
耳が、少し赤い。
「……それは、管理会社の担当としてのお誘いですか?」
「いいえ。桐谷個人としてです」
銀杏の葉が一枚、ひらりと私たちのあいだに落ちてきた。
「はい。喜んで」
◇
三か月後。
高梨家は、契約を更新しなかった。
聡子さんと修一さんは、駅の反対側の、2LDKの賃貸マンションに引っ越していった。
四か月分の滞納は、分割で少しずつ振り込まれている。
振込名義は、なぜか毎回、修一さんの名前だ。
聡子さんに内緒で、彼が払っているらしい。
少しは、変わったのかもしれない。
空いたあの家は、祖母の希望で、地域の子ども食堂に安く貸すことになった。
祖父と高梨のおじいさんが、若い頃に腹を空かせて歩いた町だから、というのが祖母の言い分だ。
「で、あんたは」
ケア付きマンションの談話室で、祖母がみかんをむきながら言った。
「桐谷さんとこの嫁になるのかい」
「気が早いよ、おばあちゃん」
「あたしは八十二だよ。気が早くなきゃ間に合わないんだ」
祖母は、むいたみかんを一房、私の口に放り込んだ。
「今度は、ちゃんとした家なんだろうね」
「うん。お母様には、もうご挨拶したよ」
「なんて言われた」
私は、みかんを飲み込んでから答えた。
「『うちの嫁には、もったいないくらいだ』って」
祖母は、満足そうに鼻を鳴らした。
「そりゃそうだ。うちの孫は、大家さんだからね」
「嫁としても、ちゃんと行くからね?」
↓挿絵付豪華版+書き下ろし「四十年前の約束と、あの日の本当の理由」(おばあちゃん視点)
https://note.com/wise_turtle184/n/n36b850b61260




