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婚約者のお母様に「うちの嫁にはふさわしくない」と言われたので、嫁ではなく大家としてご挨拶に伺いました

作者: ま
掲載日:2026/09/26





「あなたみたいな地味な子、うちの嫁にはふさわしくないわ」


 高梨家の広い客間に、義母になるはずだった人の声が響いた。


 床の間には、立派な掛け軸と、季節の花。

 縁側の向こうには、手入れの行き届いた庭が広がっている。


 この町では珍しい、古くて大きな日本家屋だ。

 修一さんはよく、「うちは古いだけの家だよ」と照れたように言っていた。


 正座した膝の上で、私は手土産の紙袋の持ち手を握りしめる。

 駅前のデパートで、一時間迷って選んだ羊羹だった。


「修一から聞いたわよ。経理の事務員なんですって?」


「はい。中堅の食品メーカーで、七年目になります」


「七年も事務員。出世の見込みもないってことね」


 聡子さんは、湯呑みを置く音まで上品だった。


「うちはね、代々この土地で暮らしてきた家なの。修一は長男で、いずれこの家を継ぐのよ。お嫁さんには、それなりの家柄と華やかさがないと困るの」


 私は隣に座る婚約者を見た。


 高梨修一。

 付き合って二年、婚約して半年の人だ。


 修一さんは、黙って目をそらした。


 それが答えだった。


「分かりました」


 私は紙袋を畳の上にそっと置き、深く頭を下げる。


「では、このお話はなかったことにさせてください。今日はお時間をいただき、ありがとうございました」


「ちょ、結衣、待てって」


「修一さん。お母様のおっしゃる通りだと思います。私、華やかさはありませんから」


 私は笑顔を作ったまま立ち上がった。


 玄関で靴を履いていると、背中越しに聡子さんの声が聞こえてくる。


「ほらね。ああいう子は引き際だけはいいのよ」


 引き戸を閉める。


 外に出ると、九月の夕方の風が頬に当たる。

 泣くかと思ったけれど、涙は出てこない。


 駅までの道を、ゆっくり歩く。

 二年分の思い出が、一つずつ浮かんでは消えていく。

 修一さんと初めて行った映画館。

 誕生日に予約してくれた、少し背伸びしたレストラン。

 プロポーズの夜、緊張で指輪の箱を落としかけた修一さんの顔。


 優しい人だと思っていた。

 でも、優しいのと、何も言わないのは、違う。

 今日、それがよく分かった。


 ただ、無性に祖母の顔が見たかった。




◇




「で、振られてきたのかい」


「振ったの。私のほうから」


「同じことだよ」


 祖母の千代は、縁側で柿をむきながら鼻を鳴らした。


 八十二歳。

 背筋はまっすぐで、口は私の百倍悪い。


「羊羹は置いてきたのかい。もったいない」


「そこなの?」


「当たり前だよ。あそこの羊羹は一本二千八百円するんだ」


 思わず笑ってしまう。

 祖母の家に来ると、いつもこうだ。


 剥き終えた柿を皿に並べて、祖母はふと手を止めた。


「結衣。ちょうどいいから、話しておくことがある」


「なに?」


「来月から、おばあちゃんは駅の向こうのケア付きマンションに入る。前から決めてたんだよ」


「え……」


「それでね。おじいちゃんから継いだ土地と家作の管理を、あんたに任せたいんだ」


 祖母は、古い茶封筒を私の前に置いた。


 中には、何枚もの書類が入っていた。

 土地の登記簿の写し。

 賃貸の契約書。

 そして、貸している物件の一覧表。


 祖父は、この町で小さな地主をしていた。

 それは知っていた。

 祖父が亡くなってからは、祖母が一人で管理してきたことも。


 一覧表の上から、住所を一つずつ目で追っていく。


 六行目で、指が止まった。


「おばあちゃん。これ」


「うん?」


「高梨さんって、この高梨さん?」


 祖母は、老眼鏡を額に押し上げて一覧表を覗き込んだ。


「ああ、高梨さんとこかい。あの家はね、土地も建物もうちのだよ。四十年前から貸してる」


 四十年前から。


 代々この土地で暮らしてきた家。

 修一は長男で、いずれこの家を継ぐ。


 聡子さんの声が、頭の中で繰り返される。


「……おばあちゃん、あそこのお家賃って」


「月八万」


「八万? あの広さで?」


「亡くなった高梨の旦那さんがね、おじいちゃんの幼馴染だったんだよ。貧乏してた若い頃に、おじいちゃんが安く貸してやったんだ。それからずっと、そのまんま」


 祖母は柿を一切れ口に入れて、もぐもぐと噛んだ。


「旦那さんが元気なうちは、毎年お中元とお歳暮を持って、律儀に挨拶に来てくれたもんだけどね。奥さんの代になってからは、なしのつぶてだよ」


「そうなんだ……」


「そういえば、ここ四か月、家賃も入ってないね」


 私は、一覧表から顔を上げた。


「おばあちゃん、それ、もっと早く言って」


「言ったって、あんたの婚約者の家だと思わなかったからねえ」


 祖母は、にやりと笑った。


「で、どうするんだい。新しい大家さん」




◇




 翌週の土曜日。


 私は、祖母の代から管理を頼んでいる不動産会社を訪ねた。

 担当してくれたのは、桐谷さんという三十過ぎの男性だった。


「早瀬千代様から、お話は伺っています。本日から、結衣様がオーナーということで」


「はい。何も分からないので、よろしくお願いします」


 駅前の雑居ビルの三階にある、小さな事務所だ。

 窓際には観葉植物が並び、壁には町内の古い地図が貼ってある。

 祖母は、祖父の代からずっとこの会社に管理を任せてきたのだという。


 桐谷さんは、分厚いファイルを机に広げた。


 物件ごとの契約書、入金の記録、修繕の履歴。

 一つずつ、丁寧に説明してくれる。

 難しい言葉が出てくると、必ず言い換えてくれた。


「高梨様の物件ですが」


 桐谷さんが、ファイルの一枚を指さす。


「来月末で、契約の更新期限です。それと、家賃のお支払いが四か月分滞っています。こちらからは三度、督促のお手紙をお送りしていますが、お返事はいただけていません」


「そうですか」


「相場ですと、あの立地と広さなら、月二十五万前後が妥当です。四十年間、一度も改定されていません」


 二十五万。

 今の家賃の、三倍以上だ。


 桐谷さんは、少し言いにくそうに付け加えた。


「失礼ですが……高梨様とは、何かご縁が?」


「先週まで、あそこの長男の婚約者でした」


 桐谷さんが、ぴたりと固まった。


「それは……」


「大丈夫です。仕返しをしたいわけじゃありません」


 私は、ファイルの契約書に目を落とした。


「祖父は、幼馴染のために家賃を安くしました。それは祖父と、高梨のおじいさんとの約束だったと思うんです。でも、その約束を知っている人は、もうあの家にはいない」


「……はい」


「だから、普通にしたいんです。普通の大家として、普通の条件で、更新のお話をしに行きたい。一緒に来ていただけますか」


 桐谷さんは、しばらく私の顔を見ていた。

 それから、静かに頷いた。


「もちろんです。それが、私の仕事ですから」




◇




 十月の最初の日曜日。


 私は、ひと月前と同じ高梨家の門の前に立っている。


 門の脇の金木犀が、甘い匂いを漂わせていた。

 ひと月前は、この門をくぐるのに胸を高鳴らせていたのに。

 今は不思議なくらい、落ち着いている。

 隣には、スーツ姿の桐谷さん。

 手には、更新の書類を入れた封筒。


 インターホンを押すと、聡子さんの声がした。


「はい、どちら様?」


「ご無沙汰しております。早瀬結衣です」


 一拍の沈黙。

 それから、玄関の引き戸が勢いよく開いた。


「あら、何の用? 未練がましいわね。修一ならいないわよ」


 聡子さんは、私を上から下まで眺めて、鼻で笑った。


 ちょうど、隣の家の奥さんが庭の植木に水をやっていた。

 聡子さんの声は、よく通る。


「今日は、修一さんに会いに来たのではありません」


「じゃあ何よ。羊羹なら返さないわよ」


 桐谷さんが、一歩前に出た。


「突然お伺いして申し訳ありません。私、こちらの物件の管理をしております、桐谷と申します」


 差し出された名刺を、聡子さんは怪訝そうに受け取った。


「管理? 何の話?」


「こちらのご自宅の、土地と建物の管理です」


 桐谷さんは、私のほうに手を向けた。


「そしてこちらが、今月からこの土地と建物のオーナーになられた、早瀬結衣様です」


 聡子さんの手から、名刺がひらりと落ちた。


「……は?」


「本日は、嫁ではなく、大家としてご挨拶に伺いました」


 私は、ひと月前と同じように、深く頭を下げた。




◇




「う、嘘おっしゃい! ここはうちの家よ! 代々うちの……」


「四十年前に、私の祖父が高梨さんのおじい様にお貸ししたものです。登記簿の写しをお持ちしました」


 封筒から書類を取り出して見せる。

 聡子さんの顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。


 隣の奥さんが、ホースを持ったまま固まっている。

 水が、植木鉢からあふれていた。


「お母様。いえ、高梨様」


 私は、できるだけ穏やかな声で続けた。


「今日は、二つのお話をしに来ました。一つ目は、四か月分のお家賃のことです。三度お手紙をお送りしましたが、お返事をいただけていません」


「そ、それは……忙しくて、見てなかっただけで……」


「分かりました。お支払いが難しいようでしたら、分割でも構いません。桐谷さんと、ご相談いただければと思います」


 聡子さんは、口をぱくぱくさせた。


「二つ目は、来月の契約更新のことです。四十年間、お家賃は一度も改定されていません。今回から、周辺の相場に合わせた金額で更新をお願いしたいと考えています」


 桐谷さんが、書類の数字を指で示す。


 私は、聡子さんの顔をまっすぐに見る。

 意地悪をしたいわけではない。

 ただ、祖父と高梨のおじいさんの約束に、この人がずっと甘えてきたことを、知ってほしかった。


 聡子さんは、その数字を見て、小さな悲鳴を上げた。


「二十五万……!? そんなの、払えるわけないじゃない!」


「相場どおりの金額です。もちろん、更新なさらないという選択もできます。その場合は、転居先探しを桐谷さんがお手伝いします」


 そこへ、玄関の奥から足音がした。


「母さん、誰か来て……結衣?」


 修一さんだった。

 寝癖のついた頭で、スウェット姿のまま立っている。


「修一! この子、この家の大家だって言うのよ!」


「は? え? 大家?」


 修一さんは、私と書類と母親を、何度も見比べた。


 それから、なぜか顔をぱっと明るくした。


「な、なんだよ結衣、それならそうと早く言ってくれよ。母さんもさ、結衣はこういう子なんだよ。地味に見えて、実はしっかりしてて」


「修一さん」


「な? 婚約、やっぱりやり直そう。母さんも、結衣が大家さんなら文句ないだろ?」


「そ、そうよ!」


 聡子さんが、急に猫なで声になる。


「結衣ちゃん、この前はごめんなさいね。わたし、あなたのことを誤解してたみたい。やっぱり、うちのお嫁さんにぴったりだわ」


 私は、二人の顔を順番に見た。


 ひと月前、この家の客間で。

 目をそらした人と、鼻で笑った人。


「ありがとうございます。でも、お断りします」


「な、なんで……」


「嫁にふさわしくないと言われたのは、私が地味な事務員だったからですよね」


 私は、にっこりと笑った。


「私は、今も地味な事務員です。大家になったからといって、何も変わっていません。変わったのは、高梨様のほうです」


 聡子さんが、言葉に詰まる。


「ですから、今日は大家としてだけ、お話しさせてください。更新の書類は置いていきますね。お返事は、今月末までにお願いいたします」


 私は書類を玄関の上がり框に置き、もう一度頭を下げた。


 門を出るとき、隣の奥さんと目が合った。

 奥さんは、慌ててホースの水を止めた。

 それから、なぜか私に向かって、小さく親指を立てた。




◇




 帰り道、駅までの並木道を、桐谷さんと並んで歩く。


 銀杏の葉が、少しずつ色づき始めている。

 ひと月前、一人で泣きそうになりながら歩いた道だ。

 今日は、足取りが軽い。


「お疲れさまでした」


「すみません。私的なことに付き合わせてしまって」


「いいえ。オーナー様の物件の更新のご説明は、私の仕事です」


 桐谷さんは、前を向いたまま言った。


「それに、あんなに公正な更新のご説明は、初めて見ました」


「公正、でしたか」


「滞納の分割を、ご自分から提案なさるオーナー様は、そう多くありません。まして、あの状況で」


 私は、少し照れくさくなってうつむいた。


「祖母に言われたんです。うちは地主だけど、偉いわけじゃない。土地を預かってるだけなんだよって」


「いいおばあ様ですね」


「口は悪いですけど」


 桐谷さんが、小さく笑った。

 初めて見る笑顔だった。


「早瀬さん」


「はい」


「来月から、物件の定期報告で、毎月お会いすることになります」


「はい。よろしくお願いします」


「その報告のあと、もしよろしければ、お食事でもいかがですか」


 私は足を止めた。


 桐谷さんも、足を止める。

 耳が、少し赤い。


「……それは、管理会社の担当としてのお誘いですか?」


「いいえ。桐谷個人としてです」


 銀杏の葉が一枚、ひらりと私たちのあいだに落ちてきた。


「はい。喜んで」




◇




 三か月後。


 高梨家は、契約を更新しなかった。

 聡子さんと修一さんは、駅の反対側の、2LDKの賃貸マンションに引っ越していった。


 四か月分の滞納は、分割で少しずつ振り込まれている。

 振込名義は、なぜか毎回、修一さんの名前だ。

 聡子さんに内緒で、彼が払っているらしい。

 少しは、変わったのかもしれない。


 空いたあの家は、祖母の希望で、地域の子ども食堂に安く貸すことになった。

 祖父と高梨のおじいさんが、若い頃に腹を空かせて歩いた町だから、というのが祖母の言い分だ。


「で、あんたは」


 ケア付きマンションの談話室で、祖母がみかんをむきながら言った。


「桐谷さんとこの嫁になるのかい」


「気が早いよ、おばあちゃん」


「あたしは八十二だよ。気が早くなきゃ間に合わないんだ」


 祖母は、むいたみかんを一房、私の口に放り込んだ。


「今度は、ちゃんとした家なんだろうね」


「うん。お母様には、もうご挨拶したよ」


「なんて言われた」


 私は、みかんを飲み込んでから答えた。


「『うちの嫁には、もったいないくらいだ』って」


 祖母は、満足そうに鼻を鳴らした。


「そりゃそうだ。うちの孫は、大家さんだからね」


「嫁としても、ちゃんと行くからね?」






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