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掲載日:2026/03/31


 達也は自殺を試みたが、うまくいかなかった。


 薬を飲み下したあとの記憶は曖昧で、断片的な映像がときおり意識の底を横切るだけだった。白い天井。蛍光灯のぼやけた光。誰かの声。腕に刺さる鋭い痛み。胃の奥からこみ上げてくる、焼けつくような苦味。活性炭の黒い泥のようなものを無理に飲まされた感触が、舌の奥にこびりついていた気がする。そのどれが現実でどれが悪夢だったのか、もう区別がつかない。


 救急搬送されたとき、達也の意識はほとんどなかったという。胃洗浄が施され、大量の輸液が点滴から流し込まれた。血液検査、尿検査、心電図モニター。生命維持のためのあらゆる管が、彼の身体という器に差し込まれた。尿道にはカテーテルが挿入され、鼻には酸素のチューブが通された。彼の身体はもはや彼のものではなく、医療という巨大な機構の一部品として、淡々と処置されていった。


 集中治療室で何日を過ごしたのかもわからない。意識は深く沈んだり、ふいに浅く浮かんだりして、そのあいだ達也は何度も夢のなかで溺れた。深く沈んでいくのに苦しくはなく、もうこのまま底に触れてしまえれば楽になる気がするのに、いつもその少し手前で目の裏に白い光が差し込み、息苦しさとともに、まだ自分に肺があることを思い知らされるのだった。

 

 それからしばらくして、達也は一般病棟に移された。丘の上にある、古い病院だった。


──


 目を醒ましたとき、まずそこにあったのは光だった。白すぎて、かえって冷たい光であり、雪の朝の光とも、病室の壁紙の白とも、天井の蛍光灯ともつかないそれが、まだ薄く開いたまぶたの裏側まで容赦なくしみこんできて、達也はしばらく、自分がどこにいるのかも分からぬまま、その白さだけを受け止めていた。やがて身体の輪郭が少しずつ戻ってくると、自分があちこちを細い管や線でつながれていることが分かった。左腕には点滴の針が留置され、右手の人差し指にはパルスオキシメーターが挟まれていた。洗濯ばさみのような硬い圧迫感で、指先がじんじんと痺れた。それ以上に、あのつるりとした素材が皮膚に触れているのが彼にとっては嫌だった。達也は無意識に指を動かしてそれを外そうとしたが、力が入らなかった。鼻には乾いた違和感があり、胸元には薄いパッドのようなものが貼られていて、腹の下には何か異物が自分の内側へ入り込んでいる気配があった。起き上がろうとすると、あらゆる関節が軋むように痛んだ。達也はすぐに諦めて、枕に頭を沈めた。

 

 雪に朝の光が反射して、純白の微粒子が港町を白銀色に染め上げていた。


 窓があった。ベッドに横たわったままでも海が見えた。病院は丘の上に建っていて、町の屋根がいくつも折り重なる向こうに、冬の海が鈍く青く広がっていた。白く曇った空とほとんど同じ色をしていて、境目だけがかろうじて水平線として残っている、その冷えた広がりを見たとき、達也の目には何の前触れもなく涙が滲んだ。生き残ったことが悲しかったのか、死ねなかったことが悔しかったのか、それともただ、身体の中にまだ涙を作るだけの水分が残っていたのか、彼自身にも分からなかった。ただ、海はそこで黙って広がっていて、自分を慰めもしなければ、責めもしなかった。



 看護師が入ってきて、目が醒めたのですねと言った。若い声だった。やわらかな声なのに、仕事として整えられた輪郭がそこにはあり、達也はその声を聞いて、自分がすでに「患者」という一つの役割の中へ置かれているのだと知った。身体というものはふだん、自分の意志と一体であるように思い込んでいるが、ひとたび病人になると、それは途端に他人の手に委ねられる物質へ変わり、管を入れられれば入れられるまま、拭かれれば拭かれるまま、数字を測られれば測られるままになってしまうのだということを、達也はそのとき初めて知った。名前を呼ばれ、体温を測られ、血圧を測られ、数字が読み上げられ、そのたびに自分がまだこちら側の人数に数えられていることを突きつけられた。死にたかったはずなのに、数値として生きていることが示されると、それに反発する気力すら湧かなかった。むしろ、どこか遠い場所で、ああそうなのか、と他人事のように思っている自分がいた。


 翌日には採血があった。


 看護師が透明なゴム手袋をはめて部屋に入ってきたとき、達也はまだ半分眠っていた。左腕を出してください、と言われ、達也はのろのろと毛布から腕を出した。達也は注射が大の苦手であったが、今の彼には嫌だと抵抗する気力もなかった。ゴムの駆血帯が巻かれ、肘の内側を指で叩かれ、消毒綿で拭かれ、針が入った。血が抜かれていくあいだ、達也は窓の外を見つめていた。看護師が何本目かの採血管を付け替えるたび、かちりと小さな音がした。達也の肌には薄く汗が浮いていた。冬の朝の病室はさほど暖かくもないのに、首筋のあたりがじっとりと湿っている。採血が終わり、針が抜かれ、脱脂綿を押さえるよう言われた。達也は言われるままに肘を曲げて押さえた。彼はそのまましばらくずっと押さえたままだった。


 汗。達也は汗かきであった。むしろ身体が弱っているぶん、ひどくみじめな出方をしていた。ぐっしょりと汗が流れたあとは、皮膚の表面に薄い膜のように現れ、首筋やこめかみや掌に静かに滲みつづけ、その不快がいつまでも終わらなかった。定期的にシーツが交換されるとき、自分の寝ていた部分だけがわずかに湿って色を変えているのが見えると、達也はきまり悪さで目を伏せた。


 はじめの頃はしばらくの間、達也はほとんど喋らなかった。喋る必要がなかったし、喋ることで何かが変わるとも思えなかったからである。採血のときは腕を差し出し、体位を変えるときは看護師に身体を預け、流動食が運ばれてくればゆっくりと匙を口へ運び、半分ほどで置いた。食べ物の味はほとんどしなかった。舌の奥に活性炭のざらつきがまだ残っているような気がして、粥も汁も、すべてが濡れた紙みたいな感触にしか思えなかった。


 担当の精神科医が初めて病室に現れたのは、目を醒ましてから数日後の午後だった。達也はそのとき窓の外の海を見ていて、ノックの音にもすぐには気づかなかった。男は白衣を着ていたが、白衣に入っている身体のほうが先に目に入った。若く恰幅の良い男だった。何かしら運動をやっているのか、胸板や肩に厚みのある体つきをしていた。胸ポケットにはボールペンが数本差してあり、その一本だけキャップが欠けていた。自分は伊藤です、と男は言った。それからベッド脇に椅子を引いて座り、痩せた青年の顔をちらりと見てから、痛みはありますか、吐き気は、眠れていますか、と必要最低限のことを尋ねた。達也は声の代わりに、頭だけをごく僅かに動かして返事をした。医師はそれ以上深追いせず、カルテに何かを書き、また来ますと言って、部屋を出て行った。


 思ったよりも淡白なんだなと達也は思ったが、その距離感が、むしろ達也にはありがたかった。優しくされるのも、理由を問われるのも、どちらも煩わしいと彼は思っていた。死にたいほど苦しかったはずなのに、いざ何が苦しいのかと問われると、達也の中には誰が聞いても納得するような答えが一つもない気がした。少なくとも、語れ出せば誰もが黙って頷いてくれる類の傷は、自分にはなかったと彼は思っていた。生きていることがいつも少しだけ皮膚に合わないような感覚があり、教室でも、家庭でも、友人の輪の中でも、自分の薄い膜だけが一人遅れて震えているみたいな居心地の悪さが消えなかった。それをどう説明すればいいのか、達也にはわからなかったし、なにもわからないままここまで来てしまった。


 先生はそれから何度か来た。来るたびに問いが少しずつ変わった。最初はただ身体のことだけだったのが、やがて、家族のことを少し聞いてもいいですか、とか、学校はどうでしたか、とか、そういう方向へ静かに開いていった。急かしているのではないことは分かっていた。けれど達也は、その問いの前で、自分のなかに差し出せるものを探しては見つからないということを繰り返していた。胃のあたりが少し重くなった。答えがないのではない。答えの形をしたものがないのだ。

 先生が帰るときは、いつもカルテを閉じてから椅子を引く音がして、それから靴底の擦れる音が廊下へ消えていった。達也はその一連の音をなぜか細かく聞いていた。別に意味があるわけではなかった。ただ、音が消えたあとの病室が、来る前よりも少しだけ広く感じられた。


 身体の回復が進むにつれて、管が一本ずつ外されていった。最初に心電図のリードが外された。看護師が胸に貼りついた電極をはがすとき、粘着面が肌を引っ張って、微かな痛みが走った。電極のあとが赤く丸く残っていた。次に鼻の酸素チューブが取られた。鼻腔の乾いた違和感がなくなると、代わりに病室の匂いが鼻に流れ込んできた。消毒液と、清潔なリネンと、それから何日も風呂に入れていない体の、籠もった匂い。自分の匂いなのだと気づいて、達也は顔をわずかにしかめた。自分の呼吸がやけに静かに感じられた。点滴も間欠的なものになり、日中は腕が自由になる時間が増えた。


 ある朝、看護師が処置用のカートを押して病室に入ってきた。尿道のカテーテルを抜くらしかった。達也は言われるままに毛布を腰のあたりまで下ろした。処置用のシーツが手際よく敷かれ、その白さがかえって彼を落ち着かなくさせた。看護師はゴム手袋をはめ、注射器を取り、留置のためのバルーンの水を静かに引き抜いていった。息を吐いて、力を抜いてくださいね、と看護師は言った。 達也は返事をせず、ただ天井を見つめた。そこには小さな染みがいくつか浮いていた。言われた通り、ゆっくり息を吐いた。すると管は、体の内側のどこか深いところにひっかかっていた細い異物が、ようやく外へ引き出されてゆくように、じりじりと、湿った違和感を残しながら抜けていった。鋭い痛みではなかったが、痛みよりも始末の悪い、内臓の奥を細く引き摺られるような感覚があり、達也はそれに耐えるあいだ、歯をわずかに食いしばっていた。声を立てるほどではない、けれど決して平気とは言えない、その半端な苦痛が、彼の神経を苛立たせた。

 

 看護師はこれでご自分でお手洗いに行けますからねと言った。自分で、という言葉がその朝の病室では妙に響いた。それはただトイレのことではなく、この先また一人で生活していくことまで含んでいるように思えて、達也は自分というものを以前より頼りなく感じていたのだった。


 しかし数日後、尿の出が悪くなってしまった。下腹の底に、濁った水でも溜まっているような鈍い重さが居座って、しかもそれは痛いというより、もっと始末の悪い、不快そのもののようなものであった。達也はしばらく黙っていたが、廊下を歩いているときにたまたま先生と行き会い、そのことを伝えた。入院してからはじめて、まともに自分から声を出した瞬間であった。ちょうど内科の担当医が不在の時間帯で、先生がそのまま処置にあたることになった。先生は超音波で膀胱を確認し、一過性の尿閉でしょうと言って、もう一度カテーテルを入れますと説明した。まだ何もされていないのに、どうしてか達也には悪い予感がしていた。数日前は何も感じなかったのに、唐突に、自分でもよく分からない感覚に襲われた。けれど、先生の言うことを拒むわけにもいかなかった。

 

 先生の指が陰茎へ触れ、向きを整え、尿道口をひらいた。それだけのことであった。ほんとうに、それだけのことでしかないはずであった。相手に何の含みもないことくらい、達也にも分かっていた。けれど、分かっていたところで、身体のほうはまるで聞き分けがなかった。冷たい消毒、手の感触、逃げられない姿勢、見られている気配、そういうものがみな一緒くたになって、達也の中で、いやなざわめきになった。自分でも見たくないものが、自分の身体のほうから先に出てきてしまい、やがて達也の陰茎は、意志とは無関係に、はっきりとかたくなってしまった。


 その瞬間、達也は、ああ、終わった、と思った。何が終わったのか自分でも分からなかったが、とにかくもう駄目だと思った。部屋じゅうの空気が、急にその一点へ寄って来たように感じられた。先生の手が一瞬とまったようにも思えた。先生は、生理的な反応ですから、と静かに言っていたが、その言葉は、達也を少しも助けなかった。このまま起き上がって、窓から飛び降りてやろうと思った。窓は内側から手動で開けることができない仕組みになっているから、どう叩き割ってやろうかとか、あとは地面で下半身だけを露出されてぐちょぐちょになっている自分の死体などをしきりに妄想しながら、時がはやく進んでいくのを待っていた。


 処置が終わって二人が出て行くと、達也はすぐ毛布を頭まで引き上げた。暗がりの中は息苦しく、そしていやに暑かった。

 夕食のトレイが運ばれてきた。味噌汁のぬるい匂いが毛布越しに届いたが、達也は手を出さなかった。看護師が声をかけたが、達也は答えなかった。やがてトレイは下げられ、消灯の時間が来た。


──


 夜になると達也は毛布の下からそっと顔を出し、窓のほうを見た。海はもう見えなかった。昼のあいだはただ景色として窓の向こうに置かれていたものが、夜には空との境を失い、世界じゅうの暗さを吸い寄せてできたような異様なひろがりを持ちはじめる。水平線は消え、奥行きだけが残り、その奥行きには果てがなかった。達也はその闇を見つめていた。見ているうちに、窓の向こうにあるはずの暗さが、じわじわとこちらへ押し寄せてくるように思われた。目を逸らそうとしても、もう遅かった。闇と自分の境目が、分からなくなっていた。今日の昼のことも、まだ身体の底に残っていた。それまで口を噤んでいることで辛うじて保っていた意地が、昼の一件で急に崩れて、すべてが馬鹿らしく思われた。孤高を演じていた自分を惨めに思った。そしてどうしてそうしたのか自分でもよく分からぬまま、達也はナースコールに手を伸ばした。自分自身と二人きりでいることに耐えられなくなったのだろうか。


 看護師が来て、枕もとに立った。達也は、眠れないんです、と告げると、看護師はすぐには何も言わず、達也の顔を少し覗きこむようにして見た。顔が若干赤っぽかったので、熱でもあるの、どこか苦しいの、などと聞いた。そして、少し待っていてくださいね、と静かに言って、病室を出て行った。まさか先生を呼ぶのでは、と思い、達也は後悔した。


 看護師が病室を出ていってからのわずかな時間が、達也にはひどく長かった。呼ばなければよかった、と思った。黙って朝までやりすごせばよかったのである。昼のことがあったばかりなのだ。あのあとで、よくもまた人を呼べたものだと、自分で自分に呆れた。


 戸が開いて、先生が入ってきたのを見たとき、達也はやはり、と思った。ほとんど予期していたくせに、胸のあたりが一度ぎゅっと縮むような心持ちがした。看護師が何か薬だけ置いていってくれれば、それで済むことだったのに、よりによってこの人が来るなんて。先生は枕もとへ来て、ベッド脇の丸椅子に腰を下ろした。


 「眠れないんですね」

 達也は小さくうなずいた。

 「いつからですか?もうずっと眠れてない感じ?」

 「……そうですね」

 「痛みとかはありますか?」

 「……ないですね」

 「息苦しさは」

 首を振る。

 「熱っぽい感じはありますか?」

 「少しだけ...」


 体温計を渡され、脇に挟んだ。待っているあいだ、達也は顔を上げなかった。見られているのかどうかも、たしかめたくなかった。目が合えば、それだけで何か余分なものまで知られてしまいそうだった。


 電子音が鳴った。先生は数字を見て、それをしまった。


 「一応熱はないみたいですね」


 そこでいったん言葉が切れた。達也はその短い間がいやだった。次に何を訊かれるのか、待っている時間のほうが落ち着かなかった。


 「目を閉じても眠れない感じですか」


 少し考えて、


 「……目を閉じると、余計にだめな気もします...」

 「いろいろ浮かんでくるとか?」

 「...」


 達也は返事をしなかった。先生は少しだけ視線を落として、「今、自分を傷つけたい感じはありますか」と聞いた。


 「今すぐ何かしてしまいそうな感じは」

 「......それはないです......大丈夫です...」

 「分かりました」

 

 窓の外の闇はまだそこにあった。ちらっと見ると、さっきよりも深い黒色であったが、ひとりでいたときほどにはこちらへ迫ってこない気がした。達也は毛布の縁を指先で揉んでいた。指が少し汗ばんでいた。


 「睡眠薬そのものは一応あるんですけどね」

 「でも、肝臓のほうもまだ治りきっていないし、今は出せないんです。」


 「...分かりました」


 先生はすぐには立ち上がらなかった。そのことが、かえって達也を落ち着かなくさせた。じっとしているだけなのに、掌だけが妙に湿っていく。


 達也はなにゆえだろうか、先生にまだいてもらいたいと思って、もう少し...などと声を出そうとしたが、うまく出せなかった。それは拒絶されていないかを、試したかったのかもしれない。または、最も情けない姿を晒してしまったからこそ、唯一先生だけが縋れる存在になったのかもしれない。もしくは、自分を悩ませる当事者を、かえって身辺に置いておくことで、茫漠とした不安が、あいまいなまま肥大化するのを避けたかったのかもしれない。この人が立ち上がればまた一人になるという事実のほうが、達也にとっては恥ずかしさよりもずっと重かった。


 先生がファイルを閉じる動作をしたので、達也には最後の猶予のように思えて、今度は大きめの声で、

 

 「少しだけ、もう少し、そばにいてもらってもいいですか」


 と言った。喉のあたりが熱くなった感覚を達也は抱いた。



──



 朝、目を醒ますと、白衣を着た大男の背中が見えたので、達也は驚いた。先生はカルテに何かを書いており、達也が起きた気配に気づくと振り返って、ああ起きましたかと何でもないように言った。達也は枕の裏が汗で少し湿っているのを感じながら、もしかしてずっといたんですか、などと小さく呟いた。先生は、あぁ、と笑って、さすがに一度帰ってましたよ、ただ、確認に来たら、まだ寝ていたのでね、そのまま、と言った。なーんだと達也は言おうとしたがやめた。窓の外は明るく、海が淡い光の中で静かに広がっていた。



 それ以降、達也はほんの少しだけ喋るようになった。ほんの少しというのは、問いに対してうなずきだけで済ませず、短い語で返すようになったという程度のことでしかないけれど、その小さな応答は、世界とのあいだにまだごく細い糸が残っていることの証でもあった。食事は少し食べました、今日は廊下を歩きました、海が凪いでいました、そういう、理由にも告白にもならない言葉が、ぽつぽつと出始めた。先生はそのどれにも余計な意味をつけず、ただ頷きながら聞いた。


 達也は相変わらず窓の外の海をよく見ていた。朝の海、昼の海、雪を含んだ色の海、鈍く光る海。夜だけはあまり見なかった。夜の海は、自分の中にある輪郭のない場所をそのまま外へ映したように見えてしまうからだった。昼の海はまだ、自分の外にある景色でいてくれた。


 身体の治療がほぼ終わると、先生との面談は少しずつ長くなっていった。どうして薬を飲んだのか、何か理由があるのか、話せる範囲で構わないから聞かせてほしい、と、先生は急かすでも責めるでもなく言った。その質問については、達也は依然として黙ったままであった。ほんとうのことを言えばいいのに、と達也は思ったが、その「ほんとうのこと」が彼には見つからなかった。死にたい理由の断片を一つの筋へ通し、人に話しても恥ずかしくない形へ整えることができなかった。もっとはっきりした出来事があればよかった。誰が聞いても、それはつらいですねと言ってくれるような出来事が。そうであれば、自分の苦しさも正当な顔を得られたはずだった。


 先生は何日も待った。達也が黙っていれば、先生もその沈黙の中に座っていた。じきに達也は、先生が待つということ自体に、ある種の圧を感じるようになった。話せと言われているわけではない。けれど、待たれている以上、何かを差し出さなければならないような気がした。


 先生は毎日ほとんど同じ時刻に来た。達也は最初、そのことに気づいていないふりをしていたが、実際には、廊下の向こうで止まる足音の間の取り方や、ドアが開く前のほんの短い沈黙で、もう来る、と分かるようになっていた。


 風の強い日だった。窓枠がときおりがたがたと鳴っていた。港の旗が大きくはためいているのが見えた。先生が入ってきて、今日は風が強いですね、と呟いた。達也は窓のほうを見て、さっきから漁船もずいぶん揺れていますね、と答えた。先生も窓に目をやり、ほんとだ、あれだと出られないでしょうね、と言って、いつもの確認に移った。


 数日後の面談で、達也は先生が来る前から窓の外を見ていた。屋根の雪が薄くなっていて、軒先から雫が落ちているのが見えた。先生が入ってきて、いつもの確認を始めたあとで、達也は少し間をあけて、今朝、雪がだいぶ溶けてましたね、と言った。先生は窓のほうへ目をやり、ほんとだ、と言ってから、自分は北の出身だから雪には慣れているつもりだったけど、ここの冬は別ですね、海風が混じるぶん冷え方が違う、と続けた。達也はその言葉を聞きながら、先生にも出身地があるのだということを、当たり前なのに初めて考えた。無機質な白衣を着てカルテを持っているこの人にも、どこかに子どもの頃があって、冬の朝に息を白くしていた時代があったのだろう。この人はどんな子どもだったのだろうか。友だちはいたのだろうか。教室でどんな顔をしていたのだろうか。いつから医者を志したのだろう。少なくともこの人には、何かになりたいと思えるだけのものが、ずっと前から自分の中にあったのだ。自分とは違って。達也には、なりたいものも、なれたかもしれないものも、思い当たるものが何一つなかった。初めから何一つもないのか、それとも忘れようとしているのか。


 さっきトビが窓のすぐ近くを飛んでいましたなどと、達也から話題を切り出すこともあった。先生は窓の向こうへ目を向けて、おお、今はでももういないようですね、と言って、少しだけ惜しそうな顔をした。あの鳥は海辺だとよく見かけますよ、風に乗って輪を描くのがうまいんです、と続けた。達也は、そうなんですね、よく見かけるんですか、と尋ねると、先生は、いやぁ、自分はあまり見てないなぁ、前にここの看護師さんに教えてもらっただけです、と笑った。それからまたいつもの確認が始まった。達也はそのあいだも、窓の外にまた鳥の影が横切らないかを、ときどき気にしていたのだった。


──


 一月の半ばを過ぎた頃から、窓の外の雪が少しずつ嵩を減らしていった。屋根に積もっていたものが午後になると軒先から雫を落とし、その滴りがぽたぽたと軒下に小さな穴を穿っているのが見えた。港に並ぶ漁船の影は冬の靄にかすんでいたが、窓に近づくと見える防波堤の先端にある錆びた灯台だけは、曇った日でもどうにか視認できた。空はまだ白く、けれど午後の光にはわずかに黄色みのある暖かさが混じるようになっていた。


 そのころから、達也は少しずつ病室の外を歩くようになった。最初は点滴台を引きながら廊下を往復する程度だったものが、やがて点滴が外れると、素足にスリッパをひっかけて、もう少し先まで足を延ばすようになった。病室を出ると薄暗い廊下があり、蛍光灯の下を少し進むと、共用の談話スペースがあった。窓際にベンチが並び、古びた本棚には背表紙の色褪せた文庫本や雑誌が雑然と差してあった。隅には自動販売機が一台あり、夜になると静かな唸りを上げていた。達也は最初、そこに誰もいない時間を見計らって行った。人がいると落ち着かなかった。


 ベンチに座って窓から外を眺めると、病室とは少し違う角度で港町が見えた。手前の民家の瓦屋根が近く見え、庭木の枝がちらちらと揺れていた。冬枯れの木にメジロが二羽、忙しなく動いているのが見えたことがあった。小さくて丸い体が枝から枝へ飛び移るたびに、枝先がかすかに弾んだ。達也は意味もなくそれを目で追っていた。



 一月の終わりになると、達也は看護師の名前を覚え始めていた。採血に来る人、検温に来る人、夜勤で廊下を歩く人。覚えようとしたわけではない。毎日同じ顔が同じ時間に現れるうちに、自然と区別がつくようになっただけだった。ときどきテレビのついた談話スペースに行って、紙コップの自販機のお茶を飲んだ。味はあまりしなかったが、温かいものを手に持っているのは悪くなかった。


 談話スペースでベンチに腰掛けていると、どこかからピアノの音が聞こえてきた。遠くて、ところどころ途切れながら、けれど旋律の流れそのものはきれいだった。達也はしばらくそれをぼんやり聞いていた。聞き覚えがある気がした。曲名までは出てこなかったが、どこかで耳にしたことのある旋律だった。いつ聞いたのかも、誰かと一緒だったのかも分からない。ただ、ああ、知っているな、とだけ思った。悪くない曲だった。窓から差す午後の光が廊下の床に淡い四角を落としていて、その光のなかでピアノの音を聞いていると、何かを思い出しそうな気がしたが、結局何も思い出さなかった。曲が終わると、自動販売機の低い唸りだけが残った。



 面談の終わりがけに、達也はふと、ところで、と切り出した。先生は椅子に座ったまま、はい、と応じた。


 「談話スペースにいると、たまにピアノの音が聞こえるんですけど、あれは何ですか」


 先生は少し考えるような顔をして、それから、ああ、と言った。「リハビリで来ている患者さんがいて、その方が弾いているんです。もともとピアノの先生をされていた方で、指のリハビリを兼ねて、ときどき弾かせてもらっているんですよ」


 達也は、へえ、とだけ言った。リハビリでピアノを弾くということが、達也にはうまく想像できなかったが、あの音がそういう事情から来ていたのかと思うと、少しだけ腑に落ちた。


 「いい曲でした」と達也は言った。「なんか鳥が枝を跳ねているような?そんな感じでした」

 先生はいいですね、と言って、静かにうなずいた。それから少し間を置いて、「達也さん自身は、何か趣味とか、ありましたか」と訊いた。達也は少し考えた。考えたが、何も浮かばなかった。「……わかりません」と達也は答えた。先生はそうですか、と言って、それ以上は訊かなかった。窓の外では、午後の光がゆっくりと傾き始めていた。


──


 その週末の面談で、達也は先生に汗のことを話した。


 先生はいつものようにいくつか決まったことをたしかめたあとで、何か困っていることはありますか、と訊いた。達也は少し考えてから、汗が、とだけ言った。死にたい理由は言えなかった。けれど汗のことは、理由ではなく事実だったから、口にできた。先生は顔を上げて、汗ですか、と繰り返した。


 達也は、自分でもなぜ急にこんなことを言い出したのか分からぬまま、昔からです、と呟き、掌を毛布の上へそっと出した。指先にはうっすらと湿りがあった。


 先生はその手をしばらく見てから、達也の顔へ視線を戻して、小さい頃から?と訊いた。


 達也は小さくうなずいた。


 「ずっとですか?」と先生は聞いた。

 「季節とか、緊張とか、関係なく出ちゃうのですか?」


 「関係なく出ちゃうこともあります」と達也は答えた。

 「何もしてないときでも...」


 先生はしばらく黙ってから、「それはつらいですね」と言った。


 「何かを書くときとか、食べるときとかも、困ることは多いですか?」と先生は続けた。


 達也はうなずいた。「あと、握手を求められたりするときとかも」。


 「ああ、たしかにそれはきついね...」と先生は言って、少し考えるような間を置いてから、達也が、「あとはそうですね...つるつるしたプラスチックとか、ああいうのは触りにくいときもありますね...」と付け加えた。


 先生は無理に先を促さず、「タオルか何かをあとで渡しておくよ」と言った。それから、少し言葉を探すようにして、「診察でうちのスタッフがあなたの手に触れるとき、汗のことで遠慮して手を引っ込めたりしなくていいですからね。ここでは、あなたが誰に触れても、何に触っても、決して迷惑にはなりませんから」と言った。


 達也は黙って、小さく会釈した。その言葉は、達也の胸の奥にある固い結び目を、ほんの少しだけ緩めたように思えた。窓の外では、港のクレーンがゆっくりと旋回し、海からの冷たい風が薄いカーテンを静かに揺らしていた。防波堤にとまったウミネコが、何を探すでもなく海面を見下ろしている。達也はしばらく、その静かな景色をただじっと見ていた。


 次の面談で、先生は薄手のタオルを持ってきた。やわらかい生地で、掌にちょうど収まる大きさだった。達也はそれを受け取って、ありがとうございます、と言った。タオルには洗剤のかすかな匂いが残っていた。

 タオルの上からふと視線を落としたとき、先生のポケットにあるボールペンが目に入った。キャップの端がいびつに欠けている。

「ずっと気になっていたんですけど」と、達也は口にしていた。「そのペンのキャップ、欠けているんですね」

 先生は自分の胸元を見下ろして、ああ、これね、と短く笑った。「もともと上に変なキャラクターの飾りが付いてて。前に小児科にいたとき、どうしても欲しいって言う子がいたから、外してあげたんだよ」

「どうしてペンごとあげなかったんですか」

「その子が欲しがったのはキャップだけだったんだよ。ペンごとあげようとしたらいらないとか言われたんだ」と先生は言って、ペン先を指で弾いた。

「乾かないんですか」

「まあ使い切るまで使ってやるよ」

 達也は手の中のやわらかいタオルと、使い込まれたプラスチックの丸みを交互に見て、静かにうなずいた。


 ある日、談話スペースへ向かう途中の廊下で、先生がべつの患者の病室の前に立っているのが見えて、達也はドキッとした。扉は半分開いていて、先生は中にいる誰かに向かって、穏やかな声で何かを話していた。自分に向けられるのと同じ声だった。達也は少し足を止めたあと、そのまま通り過ぎた。


 談話スペースの窓から見える港の先に、防波堤の上を歩く人の影が小さく見えることがあった。釣り人だろうか、犬を連れた人だろうか。達也にはそこまでは判別がつかなかったが、遠くの人影がゆっくりと動いていくのを見ていると、自分もいつか、あの防波堤の上を歩くのだろうかと、ふと考えた。考えただけで、それ以上にはならなかったが、以前のように、何も考えないほうがましだと切り捨てることも、しなくなっていた。


 自動販売機で温かいお茶を買って、紙コップを両手で包むように持った。湯気が細く立ち上って、すぐに消えた。手に汗をかいていたが、紙コップの表面はふやけるだけで、不快ではなかった。紙だから触れる、ということを、達也は久しぶりに確かめていた。


 ある日の面談で、先生がふと、「ご家族から、お見舞いに来たいというお電話がありました」と言った。達也は窓の外を見たまま答えなかった。先生はそれ以上何も言わず、カルテに短く何かを書いた。


 午後の日差しが少しだけ長くなった頃の面談で、先生がふいに、外に出てみたいとか、ありますか、と訊いた。達也はお茶を飲んでいた手を止めた。外、というのが、病棟の外なのか、病院の外なのか、分からなかった。先生はどちらでもいいですけど、と言った。達也は少し考えてから、防波堤を歩いている人を見かけます、と答えた。先生は、ああ、あそこ、と言った。風が強い日はけっこう波をかぶるけどね、と付け足した。達也は、そうなんですか、と言った。行ったことがあるんですか。先生は、釣りに行ったことがあります、全然釣れなかったけど、と言って、少し恥ずかしそうに笑った。達也は、先生が病院の外で釣りをしている姿を想像しようとして、うまくできなかった。でもそのうまくできなさが、少しおかしかった。


──


 二月に入ると、昼のあいだ、窓の外の光がわずかに変わった。まだ寒い日がつづいていたが、風のない午後に日差しが病室の床を這うと、そこだけがほんの少し暖かくなった。窓辺に置かれたプラスチックの水差しに光が当たると、水面がゆらゆらと天井に影を映した。達也はそれをぼんやり見ていた。


 達也は相変わらず窓辺で海を見て過ごすことが多かった。

 その日の面談で、先生はいつものようにいくつか決まったことを確かめたあと、「先日の汗のことですが」と切り出した。

「皮膚科の先生とも少し話をしてみましてね。ああいうふうに手や足に汗が出る症状というのは、実はあなただけじゃないんですよ。決して珍しいことではないんです」

 達也は膝の上で両手を見つめ、曖昧にうなずいた。

「いくつか治療法もあってね。だから、また落ち着いたときにでも、少しずつ試していきましょうか」

 はい、と達也は答えた。手汗を拭くためのタオルをくれたのと同じ、明らかな優しさと正しい医療だった。達也もそれを分かっていた。

 けれど話を聞きながら、達也は自分の掌を静かにすり合わせてみた。少し湿っていた。これが薬で治り、誰もがそうであるような乾いた普通の掌になったとき、自分にはいったい何が残るのだろうと思った。


 先生はカルテに数行書き込み、それから窓のほうへ目をやって、「いつも海を見ていますよね。ここは眺めがいい立地ですよね」と言った。

 達也は少し遅れて、そうですね……ほかに見るものも特にないので、と答えた。先生はそうですか、とだけ言って、カルテへ目を戻した。


 そのまま話は終わるはずだった。カチリ、とペン先をしまう音が響いた。空調の低い唸りが聞こえた。

 達也は、「ほかに見るものがないから、というのは正確ではなかったかもしれません」と言った。


 先生は手を止め、達也のほうを見た。


「海を見ていると」

 達也は言いかけて、言葉を探すように窓の外へ目をやった。海はその日、低い雲の下で冬の鈍い光を返していた。

「昔のことを思い出す感じがするんです」


「昔、海の近くに住んでいたことがあって。……そのとき、よく一緒にいた人間がいて」


 先生はペンを持ったまま、「そのひとのことを、いまも考えますか」と訊いた。


「考えます」と達也は言った。「海を見ていると、まだどこかにいるような気がして」

 一度声に出してしまうと、本当に誰かのことを強く待ち続けているような気がしてきた。達也は自分の膝の上で、ひどく湿っている掌をゆっくりと握り込んだ。


 先生は静かに訊いた。「また、会えそうですか」

 病室の低い空調の音が、やけに耳についた。

「もう会えません」と達也は答え、窓の外へ目を向けた。「海を見るしかないんです」


 先生はしばらく黙っていたあとで、「そうですか」とだけ言って、静かに手元のカルテへ視線を戻した。


 それからの達也は、みずから口にした「もう会えない」という言葉の重さに、静かに水底へ引かれるような感覚を味わっていた。鉛色の海をどれだけ眺め続けても、記憶の中から具体的な顔や声の証拠は何一つ見つからない。それなのに、ひどく親しかった誰かを確実に失ってしまったのだという実感だけが、そこだけ皮膚を剥がされたような生々しい痛みとして、達也の身体に取り残されていた。


 ある面談で、先生が、最近何か夢を見ますかと訊いた。達也は首を振りかけて、やめた。夢というものを見ていたかどうか確信がなかった。ただ、朝目を覚ますと掌がひどく湿っていて、何かにずっと手を伸ばしていたような疲れが残っていた。

「何かを、思い出そうとしている感じはあります」

 先生はしばらく黙ったあとで、「無理に思い出そうとしなくてもいいですよ。でも、もし何かの形で外に出せたら、それだけで楽になることもあります」と言った。達也にはその意味がよく分からなかった。ただ、先生の声の穏やかさだけが、少しだけ胸の奥に残った。


 二月の半ばのある夜、濃い海霧が出た。窓を開けると、しめった冷たい空気が病室にゆっくりと流れ込んだ。遠くの防波堤の方角から、一定の間隔をあけて霧笛が低く鳴っていた。獣のさ迷う声に似たその鳴動は、どこかで方角を見失った船を港へ導くためのものだった。

 達也は暗い部屋のベッドに身を起こし、その音を数えていた。霧のために外側の灯りはすべてぼやけ、世界全体が巨大な水底に沈んでしまったかのようだった。霧笛の響きが病室の空気を細かく震わせるたび、達也の掌の汗が冷たく冷やされていった。自分もまた、どこにもいない幻影に向かって、こうしてずっと合図を送り続けているのではないかと思えた。


 それから数日経った午後、達也は病室を出て談話スペースのベンチに座っていた。少し離れた丸テーブルに、初老の男性患者と、面会に来た妻と娘が座っていた。

 男性の呼吸はひどくひっかかり、時折胸の奥から響くような咳き込みをした。妻はその背中を必死にさすり、娘は祈るように男性の手を両手で包み込んでいた。娘が泣き出しそうな顔で何かを呟き、男性が力なく笑って頷く。

 達也は自分の紙コップを見つめたまま、その光景から目を離せずにいた。そこには「死が近づいている肉体」と、それに懸命にしがみつこうとする家族の生々しい体温が存在していた。自分には、ああやって引き留めてくれる手も、悲しんでくれる顔もない。自分がこのまま海に落ちて消えたとしても、誰一人として泣きはしない。誰の記憶とも繋がっていないのだ。

 誰かを案じ、誰かから案じられる人たちの濃密な空気に耐えきれなくなり、達也はそこから逃げるように立ち上がった。


 本棚の前に立った。何か活字を目の前に置かなければ息が詰まりそうだった。文庫本や雑誌に混じって、寄付されたらしい古い漫画が何冊か差してあった。そのなかに『風と木の詩』の第一巻があった。達也はそれを無造作に抜き取って、元のベンチに逃げ込んだ。


 頁をめくると、冒頭に短い詩が書かれていた。


 『ジルベール・コクトー

 わが人生に咲き誇りし

 最大の花よ


 遠き青春と夢の中

 紅あかと燃えさかる

 紅蓮の炎よ……


 きみはわがこずえを鳴らす風であった


 風と木ぎの詩がきこえるか

 青春のざわめきが


 おお

 思い出すものもあるだろう


 自らの青春のありし日を』


 達也の視線は、「きみはわがこずえを鳴らす風であった」という一行にひどく引きつけられたまま動かなくなった。十九世紀のフランスの寄宿舎を舞台にした、少年たちの物語だった。傷ついた者が不器用に誰かを求め、求めすぎてかえって人を遠ざけてしまう。そんな痛ましい関係が紙の上に描かれていて、達也はしばらくのあいだ、窓の外の霧笛の音も忘れていた。一巻を読み終えて顔を上げると、空が少しだけ暮れかけていた。続きを探したが、二巻以降はなかった。達也はその漫画を、元あった場所へ静かに戻した。


 そのあとの数日間、達也は夜のあいだひどく寝汗をかいた。暗闇の中で目を閉じると、自分が誰かを強く喪ったという記憶の欠片だけが波のように押し寄せてくるのに、その「誰か」の顔がどうしても浮かばなかった。名前も、声もなかった。本当に忘れてしまったのか、最初から空っぽだったのかすら分からず、ただ悲しみだけが際限なく膨張していく状態は、猛烈な吐き気を伴って達也を苦しめた。早く名前を与えなければ。輪郭を与えなければ。形のある過去を作り出さなければ、永遠にこの顔のない影に首を絞められ続けるような気がした。


 さらに数日が過ぎた頃の面談で、達也はひどく疲れた顔をしていた。

「あまり眠れていないようですね」と先生は言った。

 達也はうなずき、しばらく自分の膝を見つめてから、「……手紙を、書いてみたいんです」とひどく掠れた声で呟いた。

 先生は少し驚いたように、「手紙?」と訊いた。

「頭の中が……まとまらなくて」達也は目を伏せたまま言った。「誰かに宛てて書けば……少しは」

 そこで言葉が途切れた。達也は自分でも何を言おうとしているのか分からないようだった。

 先生はじっと達也を見ていた。やがて小さくうなずいた。

「宛先などなくても構いません。あなたが書きたいように、あの人へ宛てて書いてみてください。明日、紙とペンを持ってきます」


 その明くる日、先生は薄い青色の便箋と、一本の黒いボールペンを持ってきた。封筒はなかった。最初からどこかへ送る宛などない手紙だった。

「無理に順序立てなくていいです。思いついたところからで」

 先生はそう言って、便箋とペンをテーブルに残して病室を出て行った。


 病室に一人きりになると、空調の音だけが低く響いていた。

 一枚目の便箋の端に手を置いた。掌の汗で紙がふやけてしまわないよう、達也は少し手を浮かせ気味にしてペンを持った。

 窓の外の冬の海を見た。そして、青い紙へ目を落とした。


 インクの先が紙に触れた。自分がこれから何を書こうとしているのか、達也自身にもよくわからなかった。頭の中で、何かの音と、何かの匂いが、ぼんやりと回っていた。達也は息を吐いて、最初の一文字を書き入れた。


 そこから先は、不思議なほど途切れなかった。どこかで見た横顔、どこかで聞いた弦の音色、教室の隅で笑っていた誰か——そうした断片が、書いているうちに一人の輪郭を帯び始めた。思い出しているのか、作り出しているのか、達也にはその境目がわからなかった。わからないまま、ペンは止まらなかった。掌の汗がペンを伝い、インクはときどき滲んで、紙は薄く波打った。






────────────────




 君は麗らかな春の野山を流れる透明なせせらぎであった。

 また君は我が心を揺蕩わせる遥かなる大海のさざ波であった。

 青春という名の渚において、君はきらめく光の泡であった。

 君と出会えた奇跡をなんと形容したらいいのか。

 まるで泡沫のような青春であった。

 淡く、暖かい、夢のような青春。

 ああ、君はまだ憶えているだろうか、

 在りし日のぼくらが交わし合った、あの優美な旋律たちを。



 知っての通り、私は物心がついたころから、人より手汗や足汗の類が出てしまうような子だった。緊張しているときはもちろん、なにもしていないときもしばしば出てしまう。同時に私は感覚過敏も患っていて、手汗が出ているときはこの世界のほぼすべてが私の敵であった。シャーペンや筆箱をさわると、胸の奥で心臓が暴れるように脈打ち始める。とくにプラスチックのような撥水性のある素材は、どうしてもどうしてもさわることができなくて、給食の食器や、光沢加工が施された教科書の表紙、ビニール袋なんかにふれるのは文字通り拷問であった。今でも手汗が出ているときはさわれないよ。まるで感度50倍の鼓膜が指先に無数に生えていて、永遠にフォークが皿をひっかくときの音を聴かされているみたいな気分だ。

 布や木の棒だったら辛うじてさわれる。それと冷たい鉄とかも。でも「辛うじて」さわれるだけでやっぱり嫌だった。撥水性のある素材が嫌だって言ったけど、撥水加工された服とかであればぎりぎりさわることができる。一体どんなものがさわれてどんなものがダメなのか、理論的な分類をすることはできないんだけど、でもたとえ一度もさわったことがないものでも、それが私を苦しめるか否かは見ただけでわかる。

 不思議なのがこの嫌な感覚は手汗が出ているときに限るんだ。つまり、手汗が出ていないときは上記に挙げたいずれのものも難なくさわれる。だから今この時間を平穏に過ごせるかどうかは、すべて手汗にかかっていたんだ。

 手汗が出たときに唯一躊躇いなくさわれたものがある。それは水だ。水だけはさわれた。手汗が出たときは、自分でも気づかぬうちに洗面所に逃げこんで、蛇口から流れる水にずっと手先を差し出しているときもあった。ある時は20分の休み時間の間、ずっと洗面所に篭っていた時もあった。今考えると水の無駄だけどね。手汗の主成分はもちろん水だから、水に触れているときだけ手汗が出ていることを忘れられるのかもしれない。

 私にとって汗というものはほんとうに憎たらしい存在であるが、その憎たらしさは、人とのかかわりという面においても現れた。

 小学校に入ってしばらくすると、放課後は学校近くの児童館で過ごすようになった。児童館では玄関で靴を脱がなければならない。ある時、うまく思い出せないけど、児童クラブ室の畳で寝転びながら本を読んでいた時だったか、それとも、プレイルームと呼ばれる小さな体育館みたいなところで十数人でボール遊びをしていた時だったか――そうだ、プレイルームだ、別の学年の人もいて、大抵はあまり話したことのない人ばかりだったけど、その人たちの中に混ざってドッジボールだかサッカーだかの遊びをしていた。

 その途中、ふと誰かが「なんかくさくね?」みたいなことを言い出したんだ。鼻で息を吸ってみると、たしかに湿り気を帯びた、鼻にまとわりつくような臭いを感じて、その臭いの源を探っていると、やがてその元凶が私の足であることを悟った。靴下は汗で濡れていた。ボール遊びは中断され、周りにいた人たちは皆たしかに、たしかになどと言っていた。私は怖くなった。罪人のような気分だった。このままバレることなく時間が過ぎてくれと願ったが、その願いは届かず、「うわ、こいつの靴下からじゃね?」って言われて、そのあとはまったく思い出せない。思い出す気もないよ。


 ああ、、、、汗というものがこれまでどれほど私を苦しめてきたか。でも君に私の自己憐憫じみた話を聞いてほしいのは、なにも私を慰めてほしいからでもなければ、同情してほしいからでもないのだよ。君が私にとってどれだけ特別な存在であったか、まるで暗い部屋にそっと差し込んだ、一筋の光のような存在であったかを伝えたいがためである。

 ぼくはそれから上級生の人たちにしばしばからかわれるようになった。これだけが原因であるかはわからない、自分の性格も起因していたと思うけれど、すれ違いざまに鼻を指でつまんだ仕草をされたり、自分が触れたものをまるで何かに汚染されたもののように扱って、「きゃー」なんて言いながら他の仲間に投げつけたり、ぼくが近づくとあからさまに避けられたりした。自分は途中から替えの靴下をほとんど毎日持ってきて、体育の授業の後などによく履き替えていたが、それは実際のところ何も意味をなさないのは目に見えていた。そうしている自分はきちんとしているのだと思いたかっただけなのかもしれないな。それで責められるなら、もう、それは自分のせいではない、相手が悪いんだ、性悪なのはいつだって周りの世界の方だって。

 酷い言葉とかを浴びせられたりされてるもんだから、児童館の隅の方で本でも読んでればよかったのに、それでもぼくは、何度もプレイルームに足を運んでは、ボール遊びに混ぜてもらおうとしていた。最初の方は割と図太かったな。ボール遊びが本当に好きだったみたいだ。運動神経は決していい方ではなかったんだけどね。むしろ悪い方だった。プレイルームは共用のスペースだから、お前はダメなんて言うと、先生の人に叱られる。だから混ぜてもらえたのだけれど、まあきっと毎日ではなかったと思うけど、ドッジボールだったら一向にボールが来なかったり、サッカーだったらちょっとミスしただけで雑魚だとかやめてとか言われたり、そういった些細なことを長い間いつまでもいろいろとやられたりすると、さすがにだんだん辛くなってきて、プレイルームにも行かないようになったし、彼らの顔を見ると、なにもされなくても怯えるようになった。

 小学生の頃は、たった1年の差でもとてつもなく大きく感じられた。彼らは自分よりも背が高くて、声も大きくて、まるで別の生き物のように思えた。いま、街中でランドセルを背負った小学生を見ると、たまに驚くときがある。こんなに小さかったっけ。自分としてはどうしても、あの頃の体の大きかった上級生たちの姿というのがいまだに頭から離れられない。小学生たちが、くだらないことで笑いあったり、ボールを抱えてどこどこ公園に行こうぜとか言っていたり、マイクラがどうのこうの、スイッチがどうのこうのと話していたりするのを見ていると、心なしか胸がきゅーっとなる。憧れだね。小学生たちが交わす他愛のない会話は、傍から見ればどこまでも自由で、澄んでいて、小学生だった頃のぼくが手にすることのできなかったものだ。

 だからこそ、君との数年間は、大切なかけがえのない思い出だよ。あの頃、ぼくが欲しかったものを、君はそっと渡してくれたんだ。いつだったか一緒に自転車を漕いで山まで行って蛍の大群を見に行ったことがあったな。君との記憶は、まるで闇夜に浮かぶ蛍そのものだ。一つ一つは小さくて儚いけれど、あたりが暗くなるほどに光はより鮮明に浮かび上がる。いくつもの蛍が寄り合えば、闇はただその美を引き立てる背景にしか過ぎなくなる。



 小3か小4の頃、ぼーっとテレビを眺めていると、当時の自分と同じくらいの少年が、ゲストとして番組に登場していた。水泳か何かのスポーツで注目されている選手を紹介するコーナーだったのだろう。周りの大人の質問に答えていて、やがてトレーニングや筋肉の話になった時に、彼は首元に手をかけ、一枚だけ着ていた上着をすっと脱いでくれた。白く滑らかな肌があらわになった。腋から胸へ、そして腹部へと続く曲線は、まだ少年でありながらも確かに筋肉の輪郭を帯びていて、引き締まった上腕には、しなやかでいて均整のとれた骨格が静かに息づいていた。僕は、大人たちに囲まれている中で、半裸姿になりながらも逞しく立っている彼の姿に憧憬を抱いたと共に、どうしようもない「欲」のようなものを覚えた。

 彼のようになりたい。テレビで見た彼の姿は、脳裏に鮮明に焼き付いていた。自分がもしも彼だったら、彼のようになれたなら、背丈のずっと大きい人たちに囲まれながら、最も無防備な姿を曝け出しつつも、堂々としていられる彼のようになれたなら。そんなことを夢想するたびに、下腹部で熱のようなものがじわりと広がっていくのを感じた。

 自分は汗かきだから、汗を嫌がられるのが怖くて、人前に出る自信なんてなかった。その時期は、学校でも同級生とほとんど喋らず、誰かとふざけあったり、遊んだりすることもなかった。廊下では上級生たちに会わないように神経を尖らせながら、ただ静かに、目立たぬように日々をやりすごしていた。

 人やものに触れることは恐ろしいことだ。触ったときに気持ち悪がられるかもしれない。鉛筆を貸すときも、プリントを後ろにまわすときも、それが自分の汗で濡れていないかと不安だったし、もし濡れていたら、どうか気づかれませんようにと、いつもびくびくしていた。誰かが近くにいるだけで落ち着かなかった。汗のにおいがしてたらどうしようって。替えの靴下も持ってきてるし、制汗剤もこっそり持ってきていたけれど、自分のにおいは自分ではわからないから。

 「ふれあい」という言葉には「触」という字がある。手と手、心と心、何かと何かを互いに近づけ、重ねることで、二人は交わることができる。自分にはその「ふれあい」のビジョンがどうしても思い浮かばないのだ。いつも自分の殻の中に閉じこもっていた。もしも本当に、自分の周りを全て覆ってくれる殻のようなものが物理的に存在しているならどれだけ楽だろう、なんて思っていた。


 家では親ともあまり話さなかった。これは完全な八つ当たりだが、あるときどこかで「遺伝」という概念を学んだときに、もしかすると自分のこの忌まわしい体質も遺伝のせいではないか、誰かのせいではないかと推測して、世界そのものを恨むようになった。もちろん、毎日のように恨んでいたわけではないさ。ただ、ふとした拍子に、そうした思いが心の奥から浮かび上がってきては、理不尽な苛立ちに変わることがあった。

 音を介してふれあうことができた数少ない存在と言えば、ピアノぐらいだろうか。少なくともピアノの音は私を裏切らないし、拒絶されることもない。家には玩具もゲームもほとんどなかったので、汗をかいていないときは、退屈しのぎでよくピアノを弾いていた。でも汗が出始めたら、その静かなひとときも終わりを迎える。鍵盤は樹脂でコーティングされているから、さわれなくなるのだ。

 だから、ピアノの習い事は大嫌いだった。先生がすぐ隣にいてじっと見ているので、緊張してしまって必ず汗をかいてしまう。触感の気持ち悪さに加え、先生やピアノに対して申し訳なさもあった。汗をかきながら弾いていると、鍵盤が徐々に濡れていく。いつもタオルを持ってきて、1,2曲弾いたらすぐに拭いていた。先生は大丈夫だよとか気にしなくていいよとか言ってくれていたのを覚えているが、でもやっぱり申し訳なかった。

 幸い、同級生で自分の汗のことをからかってくる人はいなかった。というか、誰にもバレずにやり過ごすことができていた。ある日の放課後、たまたま学校に用があって残っていた僕は、帰りが少し遅くなってしまった。下駄箱で靴を履いていると、同じクラスの男子と会って、「今、校庭でサッカーしてるんだけどさ、人数足りないから来ない?」と言って珍しく僕を誘ってくれた。ボール遊びは相変わらず好きだったので、嬉しくなって「うん」と答えた。その頃はよくひとりでリフティングの練習をしたりドリブルの真似事をしたりして遊んでいた。体育の時間にポーンポーンとリフティングしていたのを見られて、サッカーを習ってるの?とか聞かれたことがあった。彼に連れられて、校庭に出ると、同じ学年の人数名に加えて、上の学年の人や下級生の人たちもいた。その中には自分が怖がっている人もいた。まさかいたとは思わなかったから、「うん」と承諾してしまったことを後悔した。上の学年の人たちは不気味な笑みを浮かべながら自分を見つめていた気がした。瞬く間に汗が湧き出た。

 もうチーム分けは終わっていて、自分は人数が少ない方のチームに入った。息が詰まりそうになりながら、ボールを追いかけた。始まってしばらくして、僕がボールを持ったとき、上の学年の人が勢いよく突っ込んできて、あっという間に僕は地面に転ばされた。腕に砂が食い込んで痛かった。嫌だなと思いながら、立ち上がって、また走り出した。でもそのあともまた1、2回くらい、わざとらしくぶつかられて倒れてしまった。悔しい気持ちでいっぱいになって、目の奥がじわじわと熱くなった。

 近くにいた下の学年の人がやってきて、「大丈夫?酷いよね、あんなに強く当たらなくてもいいのに」と言って、手を差し伸べてくれた。自分の手には砂がついていたし、汗で濡れていたから、どぎまぎした。ズボンで軽く拭いて、僕は緊張しながらそっとその手を取った。誰かの手に触れるのは何年ぶりだったのだろうか。彼の手は小さかったけど、力強かった。ぐっと引かれて、そのまま立ち上がった。手に残る感触を、僕はぼんやりと味わっていた。ほんのわずかなぬくもりが、胸の奥の冷たい部分にじんわりと広がっていくような気がした。

 そんなことを考えていると、ふっと気が緩んでしまったのか、急に涙がこぼれそうになって、僕は必死にこらえながら、誘ってくれた人に用事があるからと告げて、急いで荷物を取ると、校庭を出て思いっきり走り出した。当て所もなく、ただがむしゃらに走った。悔しい気持ち、暖かい気持ち、それに加えいろんな感情が綯い交ぜになって、自分でもよくわからなくなっていた。どこまでも走り続けて、気が付けば、今はもうだれも住んでいない団地に辿り着いていた。そこで疲れ果てて、足を止めた。膝に手を付きながら何度も大きく呼吸した。汗がじわじわと頬をつたっていった。清々しい気分だった。思いっきり走るのってこんなに気持ちのいいことだっただなんて知らなかった。走っている間は、汗が出ていることを忘れられた。

 生まれて初めて、自由を感じた気がした。



 中学に進学した直後も、何かが変わったわけではなかった。主に近くの二つの小学校から大半の生徒が集まってくるから、顔ぶれに大きな変化はなかったし、みんな黒い制服を着ていることと部活があること以外、とくに何も変化はなかったな。僕は相変わらずひとりだった。部活は特にやりたいものもなかったため、流れでオーケストラ部に入ってパーカスをやることになった。どうして自分はパーカスを選んだのかよくわからない。でもまあ、音楽自体は嫌いじゃなかったし、運動部は怖かったし、また打楽器は弦楽器や管楽器と違って基本直接指を使うわけでもなく、主に木製のバチを使うから、手汗の影響も少ないし、自分にとってはたしかに一番無難な選択ではあった。

 もしもあのとき、オーケストラ部に入っていなければ、君と出会って、会話を交わすことなんてなかったかもしれない。そう思うと本当に入ってよかったよ。

 君もよく準備室に遊びに来てくれていたから、知っていると思うけれど、パーカスは部活の中でも特にゆるいセクションだった。狭い音楽準備室の隅っこで、机にゴム板を載せて、それをバチで叩いたりしながら、先輩たちと他愛のない話をしたりする、そんな空間だった。僕が入ったときは、部活には男子は自分だけだった。僕の代はパーカスは僕ひとりのみで、上の代の先輩は、一つ上に二人、二つ上にも二人いた。その頃は、人と喋るときにはよく言葉に詰まって、いつも早くその場を離れたいと思っていた。何時間も誰かと一緒にいなければならないこと自体が割かし苦痛で、最初の方はやっぱりやめようかななんて思うときもあったが、でも先輩たちはみんな優しく接してくれて、あの狭い空間で、机4つを囲んで練習していたあの時間が、ほんの少しだけ、自分のなかの、人に対する忌避感や緊張を少しずつやわらげてくれていたのかもしれない。

 バチは木製で吸水性があるから、手汗がでるとその部分だけ色が濃くなって、ある時先輩の一人にそれを聞かれたことがある。もう逃れられないことだと思って、自分は手汗が人より多いらしいということを説明した。その先輩は「そうなんだ~」と特に気にした様子もなく返してきた。

 それからしばらくして、全体で演奏する日があって、楽器を第二音楽室に運ぶことになったとき、僕は別の楽器を運ぼうとしていて、みんなのバチはまとめて一カ所に置いてあって、そこにあった僕のバチを先輩が持っていこうとしたとき、ふと手を止めて「ごめん、本当に申し訳ないんだけど、ちょっとどうしてもさわれないから自分で持って行ってもらえる?本当にごめん、悪気はなくて、ただどうしても...」と彼女は言った。何度も申し訳なさそうに謝っていて、僕は笑いながら「全然大丈夫です、大丈夫ですよ」と返答して自分のバチを手に取った。別に先輩との仲がそれ以降悪くなったとかはない。嫌うようになったとかそういうのもない。ただ、そりゃあそうだよなって思った、仕方のないことだなって思ったよ。

 それからは、バチはポケットに入れて自分で持ち歩くようになった。マレットなどの共用の道具や楽器を使った後にハンカチで軽く拭くのは以前からしていたけれど、それ以降はもっと念入りになった。

 中一の頃はいろんなことがあったなあ。一年の時は自分は放送委員をやっていて、2週間に一度くらい給食の時間に放送室で原稿を読み上げていたけれど、ある日先輩が、放送で僕の声が流れたときに、同じ給食班だった男子の人たちが笑ってていろいろとからかったりしていたことを、二人きりだったときに教えられて、それが一番傷付いたな。まさか、自分のいないところでもそんなふうに言われていただなんて思ってもいなかったし、そういう風に扱われていることを先輩に知られたことも嫌だった。



 二年生になって、下級生たちが入ってきた。廊下で歩いていると、ふいにあのとき校庭で手を差し伸べてくれた人とすれ違った。一瞬でわかった。ずっと覚えていた。でも話すきっかけなんてないのだろうと思っていた。だからオケ部の新入部員たちの初顔合わせみたいな時に、君を見つけたときは本当に驚いた。そう、「君」があのときぼくに手を差し伸べてくれた人なんだ。覚えているかな?僕はすごくすごく嬉しかった。それまではあの時のたった一瞬しか言葉を交わしていなかったけれど、君のことはなぜか胸の奥にずっと残っていた。はじめはたしかお互いについて自己紹介をしただけだったかな。チェロが弾けることを知った時は胸が高鳴った。チェロの音はすごく好きだったし、ぜひ君が奏でる音を聴いてみたいと思った。

 ある時昼休みに忘れ物を取りに音楽室に向かうと、第二音楽室の方からやさしい弦の音色が聴こえてきた。もしかしてと思って開け放たれていた扉から覗くと、君がひとりで練習していた。思わず見惚れてしまったよ。君は、胴体よりも大きなチェロを、まるで子どもを優しく抱えるように構えていた。姿勢も美しかったなあ。凛然としていて、でも力任せなところは微塵もなく、重心の通った背筋がその大きな楽器を自然と支えていた。力強く奏でるところは芯のある音色で、やわらかく弾くところはまるで風にそよぐ草のように静かで、旋律はまるで誰かに届けられる祈りのように響いていたのを憶えている。どれだけの時間をかけて、どれだけの反復を重ねてきたのだろう。その音からは、積み重ねてきた努力と、音楽へのまっすぐな思いがにじみ出ていたよ。

 しばらく黙って聴き入っていると、君は僕に気付いた。どきっとして、「昼休みに練習してるなんてびっくりしたよ、練習を邪魔して申し訳ない」と、しどろもどろに言うと、「外は暑いし、教室にいるのも暇なので、好きな曲を弾いていただけですよ。全然大丈夫ですよ」と返してくれた。チェロの音に心を打たれたことを伝えようとしたがうまく言葉が出ずにいると、君は、「先輩は何か好きな曲とかありますか?」と尋ねてきた。うーーーーん、と口ごもったまましばらく考えていたが、なんの曲を答えればいいか分からず、すると君は「トロイメライって曲は知ってますか?」と言って、僕が首を横に振ると、「たぶん聞けばわかると思います!」と言ってチェロを僕側に向けなおして、そして徐に演奏を始めた。

 最初の数音だけで、僕はその曲を知っていると気付いた。チェロの低くて柔らかな響きが、再び部屋に広がっていった。その響きは、僕の心や記憶にぽっかりと空いていた穴を、そっと埋めるようだった。君の指先は、ためらいなく弦を捉えながらも、精緻なビブラートを含ませていて、弓は空気を吸い込むように静かに滑っていた。教室の窓の外からは、昼休みの校庭のざわめきがかすかに聞こえていた。トロイメライの旋律と重なり合って、ひとつの夢のような世界を形づくっていた。

 最後の音が消えていったあとも、しばらく僕は何も言えなかった。ただ拍手をするしかなかった。君は「ありがとうございます、ありがとうございます」と言ってはにかんでいた。やがてぼんやりと立ち尽くしていた僕の胸に、じわじわと熱がこみ上げてきた。もっと君の世界の中にいたいな、ふれあいたいなと思った。「その曲確かに知ってたよ、だいぶ前にピアノで弾いたことがあった」。そう言いながら、僕はそっとピアノの蓋を開けて、「あの...もしよければ、もう一度だけ弾いていただけませんか。一緒に弾いてみたい...」と言うと、君は「いいですね!」と頷いてくれた。

 「じゃあ、いきますね」

 君はそう言ってチェロを構えなおした。僕は息を呑むような思いで、君の音に合わせて、最初の一音目を鳴らした。

 最初は少しだけずれていたリズムも、何小節か進むうちに、自然と重なっていった。音と音の間にあった距離が、少しずつ縮まっていくような気分だった。僕は慎重に、この音を介したふれあいを壊さないように、そっと鍵盤を叩いていた。周囲のざわめきも、教室の気配も、もう耳には入ってこなかった。手にはじんわりと汗をかいていた。でもそんなことなんてもうどうでもよかった。音だけがそこにあった。君と僕の間に流れる音だけが、その時の世界のすべてだった。僕のピアノはところどころ音を外していたと思う。でも君は何ひとつ責めるような素振りは見せず、ただ静謐に、穏やかに、音を重ね続けてくれた。曲が終わりに近づくにつれて、僕の指先は興奮で震えていた。お互いの息づかいや、ちいさな間合いや、それらすべてが旋律と共に空間に溶けあっていて、誰かと一緒に感情を分かち合うことが、こんなにも神秘的で、美しいことだったなんて、あの瞬間までは知らなかった気がするよ。

 曲が終わると、僕たちは思わず「おおーーー...!!」と声を漏らしていた。体中が熱くなっていた。部屋全体も熱くなっていた。「本当に本当にありがとう...すごく楽しかったなぁ...」と僕が言うと、君は「自分もです、楽しかったです」と言ってくれて、「また明日も来ますか?」と言ってくれた。

 それから僕たちは、よく昼休みや放課後になってすぐの時間に、音楽室でふたりきりで演奏するようになったな。程なくして、ある日の昼休みにとうとう先生に見つかってしまったけれど、楽しそうだねと笑って許してくれたね。

 学校からの帰り道で、好きな曲の話になったときに、君は「River Flows in You」という曲が好きだと言っていた。家に帰ってすぐ動画サイトで探して聞いてみると、まさに流水のようなどこか切なくも、透き通ったメロディがすっと胸に刺さった。君から教えてもらった曲だけど、どうしても自分の音で君に届けたいという気持ちが込み上げてきて、その夜は夢中で旋律を繰り返しなぞりながら練習した。翌日の昼休みに「昨日ちょっと練習したんだ」と言って弾くと、君は感動しながら聞いてくれた。喜んでる姿を見て僕はただただ嬉しくなって、ピアノをやっててよかったと心の底から思ったよ。

 あくる日、君は、自分が以前から好きだと言っていたLizstの「Liebestraum No. 3」を、突然弾いてくれた。いつもはピアノでしか聴かない曲だったけれど、チェロの音色にも不思議なほどよくマッチしていた。チェロを奏でる君がいて、それを聴いている僕がいるというよりは、自分の心がチェロと共にあって心を直接やさしく震わせられているような感覚だった。目を閉じると、風に揺れる旗や服が、夕陽を受けてゆらゆらと光っている風景がふと現れた。水の上に浮かぶ街を君と歩いているような風景。まるで夢の中にいるかのような牧歌的な情景が、ゆっくりと滲むように広がっていった。

 君は一体どうして、そんなにもやさしいのだろう。手汗がひどくて、人にふれるのを怖がっていた僕を、君は気にすることなく、ありのまま受け入れてくれて、ただまっすぐに、一緒に音を、時間を重ねてくれた。廊下や全校集会で会ったときには、いつも僕に手を振ってくれていた。一体どうしてそんなふうに、迷いもなく接してくれるんだろうか。



 薫風が漂う季節。

 土曜日練習が終わって、弁当を食べ終えたあと、僕たちは喋りながら一緒に自転車を漕いで田んぼの広がる地帯を走っていた。

 たまにこうして、ふたりで目的地もなく出かけることがあったな。その日は随分と遠くまで行っていた気がする。すると、さっきまでは青空が広がっていたのに、急に空が雲に覆われはじめ、あっという間に大粒の雨が降り出した。傘を持っていなかったので、慌てて自転車を道路わきに捨てて、近くにぽつんと建っていた廃屋のような建物へと逃げ込んだ。僕たちは頭から足までずぶ濡れだった。「びっくりしたな」なんて笑いあいながら、雨音の響く中で息を整えた。

 雨は止む気配を見せず、ただただ強く降り続けていた。ふと君の方を見ると、濡れたワイシャツが肌に張りついて、寒そうに肩をすぼめていた。「寒くない?大丈夫?」と聞くと、君は「ちょっと寒いかも」と呟いてそっと僕のほうへ寄り添ってきた。自分も夏服を着ていたから、かけてあげられる上着もなくて、あたふたしながら思わず君をそっと腕の中に抱いた。僕にそんなことができる勇気があったなんて、自分でも驚いたよ。

 僕は水なら気兼ねなく触ることができる。君はぼくにとって、水のような存在であることにそのとき気付いた。しばらくのあいだ、もう誰のものか分からない鼓動の響きを感じながら、ただふたりで、雨音に包まれていた。互いの体温がゆっくりと混ざり合って、境界線がじんわりと溶けていくような感覚であったのを今でもおぼえている。


 それからというもの、ぼくらは何か嫌なことがあったら、お互いにハグを交わすようになった。実に不思議な気分だ。僕は君に好きだとか伝えたわけじゃないのに、僕たちはまるでカップルみたいだった。君は、小学生の頃に、この町に転校してくる前の学校で起きたことなどをぽつぽつと話してくれた。今まででいちばん、僕の心の深いところに手を伸ばしてくれたのは、きっと君だ。そして僕にとっても、これまででいちばん深く触れることのできた相手は、君だった。

 夏休みが始まって、僕たちは何度か、夏にしか開いていないプールへ電車に乗って出かけたね。君は僕の手を引っ張って、「次、あれ滑ろう」とはしゃいでいた。

 手が汗で濡れているときは、気持ち悪い思いをされてしまうのが怖くて手をつなぐのを躊躇ってしまう。でも水の中では、「手が濡れている」なんて概念がそもそもなくなるから、そんなことを気にする必要がなくなる。君に手を引かれるたびに、胸がときめいた。水を掻き分けて進む君の背中は、夏の光の中でどこまでもまぶしかった。水中に潜っているとき、僕はこっそり君への想いを叫んでいた。君は当然聞こえるはずがない。声は泡沫になって水の中を昇っていくだけだった。でもそれはそれで青春って感じがして、おもしろかったな。ねえ、もしかして、聞こえてたりした?


 夏は他にもいろんなことをして遊んだね。部活の練習も楽しかったなぁ。

 前にも書いたように、あの日、走ることの愉しさを知ってからというもの、割とよく秘密のトレーニングと称してあたりをひとりで走るようになっていた。

 ちょうど成長期を迎えて背が少し伸びたせいか、走るスピードもどんどん上がっていって、夏休み明けの体育の授業での短距離走で、自分でも驚くくらいに走れた日があった。それでクラスの何人かが「速いね~」なんて声をかけてくれて、そして体育祭では、クラス対抗のリレーの選手に選ばれることになった。1,2回だけ、バトンの受け渡しとかの練習のために放課後に集まって練習する機会があって、それをきっかけに、ほんの少しずつだけど、クラスの人とも言葉を交わせるようになっていった。

 たしか結局、リレーはあまりいい順位で終わることはできなかった気がするな。自分の関心事はいかに速く走れるかもそうだったけれど、それ以上に、バトンを落とさずに受け取れるかどうかのほうが気がかりだった。バトンを受け取って、そして次の人へと手渡すという一連の儀式的な動作を無事成功させることができたときは、なんというか感動したなぁ。精神的に一歩大人へと近づいたような気がしたんだ。そしてそんな自分の姿を、君に見てもらえたのも、誇らしくて嬉しかったよ。まるで鉄棒で初めて逆上がりができた瞬間を、親に見てもらえたときのこども、みたいな?

 人といることの楽しさを教えてくれたのは君だ。

 空気が急に冷たくなってきた十一月のある日。何かの都合で、僕たちは、中途半端な時間に下校することになった。まだ外はほんのり明るかった。足元にはいくつもの銀杏の実が落ちていた。道の上にはぼくたち以外に誰もいなかった。どっちからだったか忘れたけど、「寒いから手、繋がない?」なんて言い出して、それで僕たちは周りを見回して、誰もいないのを確認すると、そろりと手を重ね合わせた。君はうふふ、ふふふ、と変な笑い声を漏らして、ぼくもつられて笑った。その笑い方がおかしくって、またしばらく笑った。水の中で手をつなぐのとはまた違った感覚だ。どこかくすぐったい。水の外で手をつないだのは、初めて出会ったあの日以来だ。君は水のように僕のすべてを受容してくれる。いつまでも君の優しさに甘えたままで大丈夫かと思いながら君の手を握りしめた。手のあいだから伝わってきたぬくもりは、銀杏のあの特徴的な匂いと共にずっと心に残っている。今でも思い出すたびに、体全体が暖かくなる記憶だ。


 土曜日の部活の日、珍しく雪が降ったので、部員のみんなで外に出て雪遊びに興じた日があった。やがてみんなでかまくらをつくりだした。何個か完成して、僕と君とで中に入ると、突然、ほかの部員の人たちが閉めちゃえ閉めちゃえとふざけて、入り口を雪で塞いでしまった。

 でもせっかく二人きりになったので、僕たちはそのまま、暫く中で過ごすことにした。中は暗くて、周りの世界から切り離されていて、まるで殻の中にいるみたいだった。「この中、居心地いいな」と僕が言ったら、君は「先輩、やばいですよそれ」と笑った。それから僕は、君がオケ部に入ってきてくれたことに、ちゃんとお礼を言ったことがなかったから、ありがとうね、とだけ言った。君は「急に何を言ってるんですか?」と言って僕の肩を軽くはたいた。

 かまくらの中は、外の寒さとは別世界のように暖かかったなあ。やがて僕たちは、ふたりで壁を押し破って、外に出た。白い光が差し込んで、粉雪がきらきらと舞っていて、眩しかった。



 三月、先輩たちの卒業式。

 卒業証書授与のとき、オーケストラ部は、体育館の後ろ側にある二階のスペースで、BGMを演奏する。普段、全体で一般的なオーケストラの曲を演奏するときは、打楽器パートは暇なことも多いけど、卒業証書授与式の時はとにかく忙しい。やっぱり名前を呼ばれて「はい!」と返事するのがメインの見どころとなる式だから、僕たちの音楽はなるべくそれを邪魔しないようにしなければならない。鍵盤打楽器はそれにうってつけで、弦楽器や、木管も演奏するけれど、およそ半分くらいは、マリンバやシロフォン、グロッケン、ヴィブラフォンを使って、クラシックから合唱曲、そしてポップスまで、様々な曲を演奏する。そんななか僕たちは、先生にお願いして、Saint-Saënsの「白鳥(The Swan)」を演奏することにした。チェロの旋律に、マリンバのアルペジオ。よくピアノとチェロのデュオで演奏されるこの曲だけど、昼休みに、試しに冒頭だけピアノの代わりにマリンバで合わせてみたら、すごく綺麗だったから、ぜひ卒業式で演奏できたらいいねと二人でよく話していた。

 卒業式当日。体育館の二階の片隅、譜面台とパイプ椅子と楽器がぎっしり並べられた中に、僕たちは立っていた。

 やがて授与式が始まり、静かに最初の曲が流れ出す。順番に卒業生の名前が読み上げられていく。拍手も歓声もなく、卒業生の返事と、うっすら聞こえる音楽だけが、天井の高みに吸い込まれていく。少しのミスも許されないような、張り詰めた空気。でも妙な心地よさもあった。呼吸を合わせて、音を重ねて、去っていく人たちに思いを馳せながら、甘美な旋律を、華やかに飾られた体育館全体に、そっと染み渡らせていく――その営みに、僕はひそやかに心を動かされていた。

 そして、いよいよ「白鳥」の順番がきた。何度も何度も練習を繰り返してきたから、怖さはなかった。むしろ、みんなの前で演奏できる喜びが、心地よい緊張感と共に胸の奥でゆっくりと膨らんでいた。

 僕はそっとマレットを握り直し、君はチェロに指を添える。僕たちはお互いに面と面を向き合っていた。

 曲は、僕のマリンバから始まる。水面に木の葉が一枚落ちたときのような、かすかな音。アルペジオが静かに流れ出す。そこにチェロの旋律がふわりと乗る。お互いの息遣いや、体の些細な動きを感じながら、音の強弱やテンポをそっと揺らしていく。でもお互いがお互いを意識しすぎてはいけない。気を抜けばテンポが速まりすぎたり、遅れてしまったりする。ある時は相手に身を委ね、ある時は自分から率先して音を奏でていく。

 最初の部分が終わると、曲は少し色を変えていく。和音が度々移り変わり、優美な曲調のなかに、どこか不穏な陰りがふと現れたり、逆に短調のような響きから、たった一音で長調の、光が差したときのような明るい響きに変わったり、訪れる変化のひとつひとつを味わうように、噛みしめるように、音を重ねていく。そして再び、閑静なピアニッシモの場面がやってくる。ぼんやりと白い霧が立ちこめる湖の真ん中に、長く首を伸ばした白鳥が佇む姿を思い浮かべて弾いていく。君とは以前、一体誰が白鳥で誰が水面なんだろうと議論したことがあったな。普通ならチェロが白鳥で伴奏が水面だと思うけれど、でも伴奏はずっとタカタカタカタカというリズムで弾いていて、マリンバだと特に大変で、まるで水面下で懸命に動かしている白鳥の足のようであるなと思った。でも気を緩めてはいけない。いま紡いでいるすべての音が、優雅な白鳥と静かな湖畔の輪郭を保っているのだ。

 やがて、その「タカタカ」というリズムが一時だけ終わる瞬間がやってくる。ここから曲は終盤へと向かっていく。チェロの動きはより静かに、よりシンプルになって、そしてついにマリンバだけが残される。白鳥が飛び立っていった後の湖面。小さな葉よりは少し大きな波紋が、静かに静かに広がっていくような光景を想像しながら、最後の一音を、そっと打った。



 中学3年になって、部活を引退したあとは、受験勉強もあって、僕たちはだんだん顔を合わせることが少なくなっていった。家の事情もあって、僕は東京の高校に進学することになった。卒業して、すぐに引っ越してしまったから、君と最後に会ったのは卒業式の日で、それ以降は会えていない。

 卒業式のあと、校門のところで少しだけ立ち話をした。覚えているかな。あのとき君が何を言ったか、正確には思い出せない。手を振ったような気もするし、じゃあねとだけ言ったような気もする。でも、それが最後になるなんて思っていなかったから、その瞬間を記憶に刻もうとは僕はしなかった。いつでもまた会えると思っていた。

 いざ東京での新生活が始まると、僕は自分から君に連絡することができなかった。いや、僕から絶ったんだ。最初の数ヶ月は、君から何度かメッセージが来ていたよね。「そっちの高校はどうですか」って。でも、僕はそれに返信しなかった。できなかったんだよ...。新しい環境にまったく馴染めず、誰とも話せずに孤立している惨めな僕を知られるのが、恐ろしかったんだ。田舎の小さな音楽室で君に見せていた、先輩らしい姿?などといった綺麗な虚像を守りたくて、適当な理由をつけて無視を続けてしまった。

 あんなにも手放したくなかった君との繋がりを、まったくもって変な自意識過剰な見栄のせいで、僕自身の手で捨ててしまったんだ。僕のくだらないプライドなんかよりも、君と他愛のないやり取りを続けることのほうが、よほど大切だったというのに。自分がどれだけかけがえのないものを手放してしまったか、それに気づいたときには、もう君はこの世界にいなかった。



 東京に出てからしばらくして、君が海で亡くなったことを知った。

 オケ部で一緒だった同級生からだった。久しぶりの電話の中でふいに、「チェロのあの子、亡くなったらしいよ」と言われた。あの子というのが誰のことか、一瞬わからなかった。というより、わかりたくなかった。受話器を持つ手が止まったまま、僕は無言だった。同級生は、防波堤で釣りをしていて波にさらわれたらしい、とだけ言った。それからもう一度、かわいそうにね、と言った。新聞だったか、ほかの誰かからの電話だったか、その訃報の細部は奇妙なくらい現実味がなかった。その夜は何を食べたのかも覚えていない。まあそれは当たり前か。

 亡くなった、という言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。言葉としては理解できた。でも、その言葉が指し示しているはずの現実――君がもうどこにもいない、あの手がもう誰にも差し伸べられることがない、あの弦を押さえていた指がもう動かないということ――その事実を本当に飲み込むまでに、ずいぶん時間がかかった気がする。いや、今でもちゃんと飲み込めているのかどうか、正直わからない。

 何も感じなかった。それがいちばん怖かった。泣くべきだったのに泣けなかった。君との日々を思い返して胸が張り裂けるはずなのに、僕の胸はただ空っぽで、少しも熱を持っていなかった。自分の中に君の死を受け止めるだけの感情がないのか、それとも無意識に拒んでいるのかもわからなかった。

 海で亡くなったということだけが、何度も何度も頭の中を巡った。あの冷たい海。僕たちが夏に泳いだあのプールと同じ「水」だ。水面下なら手が自然に触れられるって、あんなに二人で喜んでいたのに。僕にとって唯一安心できる場所だったはずの水が、君を連れ去った。その事実が、いつまでも喉の奥に引っかかっている。

 あの日以来、水に触れるときの感覚も変わってしまった。蛇口から流れる水に手を浸すとき、以前のようにただ安堵するだけではなくなった。水に触れるたびに、君のことを思い出す。僕を安心させてくれていたはずの水そのものが、今はひどく恐ろしい。

 ねえ、そっちはどんなところなのだろう。天国にも海はあるのだろうか。もしあるのなら、君はきっとまた泳いでいるのだろうな。怖くないのだろうか。いや、もう怖いも何もないのか。僕には何ひとつわからない。君が苦しかったのかどうか、最後に何を思ったのか、そういうことを考え始めると息ができなくなる。だから考えないようにしている。君との思い出はずっと大切にしたいのに、君が死んだという現実からは、僕はあのころからずっと目を背けたままだ。

 君の訃報を聞いてから、自分と世界を隔てる境界線が、少しずつ曖昧に溶け出していくような日々が続いた。

 重たい水の中に沈んでいくような感覚のなかで、僕はただひとつの幻ばかりを夢想するようになった。ああ、君が天使となって僕を迎えに来てくれるだろうか、僕の手をそっと引いて、この息苦しさから救い出してくれるだろうか、なんて。あんなに君からの連絡を無視して逃げていたくせに、自分がどうしようもなく痛めつけられたときだけ、都合よく君にすべてを委ねようとしていたんだ。

 でも、そんな図々しい甘えすら、僕には許されていなかったらしい。君のところへ行くことすらできず、目を醒ましたら、無機質な病室の冷たい光の中に引き戻されていた。本当に、どこまでも滑稽で惨めなざまだよ。結局、僕には何もできないままなんだ。

 だからぼくは今も、ずっと海を見ている。海を見ていると、まだどこかに君がいるような気がするから。波の音を聞いていると、あの夏のプールの水音と混ざって、君が笑っている声が聞こえるような気がする。君はまだ水の向こう側にいてくれる――ただの錯覚にすぎないとしても、生きていくためには僕にはその錯覚が必要だった。

 ずいぶん長く書いてしまった。書いているあいだだけは、君がまだどこかで読んでくれているような気がしていた。


 君と出会えて、よかった。


 ありがとう。


2月21日



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 三月に入った。病室の窓を開けると、以前よりもやわらかい風が入ってきた。土の湿った匂いが微かに混じっていた。まだ冷えるが、真冬のあの刃のような寒さは遠のいている。丘の斜面では椿の花が地面に点々と落ちており、梅の木が一本、白い花をつけ始めていた。港のほうからは、ときどき漁船のエンジン音が低く聞こえてきた。海の色も、冬のまんなかに見ていたそれとは少し違った。明るいわけではない。ただ、鈍い鉛色の底に、どこか水気の多い色が混じり始めていた。


 そのころには、達也はだいぶ長い距離を歩けるようになっていた。食事の量も少し戻り、看護師に促されなくても廊下へ出る日が増えた。夜はまだ眠りが浅かったが、朝の光の中では自分がここにいることを、前ほど不自然に思わなくなっていた。病室の白さにも、点滴の金属にも、午前の回診の気配にも、身体が少しずつ慣れてきていた。慣れたからといって、それらが自分のものになったわけではない。ただ、抗う気力がなくなっただけのことだった。


 達也は、便箋の最後の一行を書き終えたあと、しばらく何もせずにベッドに座っていた。書いているあいだ続いていた、指の先まで行き渡るような緊張が、からだからゆっくりと抜けていった。窓の外に目をやると、午後の光が港の水面に散っていた。書くべきものはもう手元にない。その不在が、疲労というよりは、何か軽い空洞のように胸のあたりに残った。


 その週の面談で、先生は、いつものようにノックして病室へ入ってきた。椅子を引いて座り、いくつか体調のことを確認したあとで、先生は「手紙のほうはどうですか」と訊いた。達也は少し黙ってから、「ついに書き終わりました」と言った。先生は「そうですか」とうなずいた。

 達也はベッドの脇に置いてあった便箋の束を手に取った。しばらくそれを膝の上に置いたまま動かなかった。それから、先生のほうへ差し出した。

 「先生に、読んでもらいたいんです」

 先生は一瞬手を止めた。「いいんですか」と訊いた。達也はうなずいた。先生はそれを受け取って、その厚みをたしかめるように手のひらに載せた。ずいぶん書きましたね、と先生は言った。達也は少しだけ口の端を動かした。それは笑みと呼べるものではなかったが、これまでの面談で先生が見たどの表情よりも穏やかだった。

 「今日はここで読むより、ちゃんと時間を取って読みたいので、持ち帰ってもいいですか」

 達也はうなずいた。先生は便箋を自分の鞄のそばに置いた。それから面談の残りの時間、先生はいくつか別のことを訊いた。今朝の食事はどうでしたか、廊下は歩きましたか。達也はそのどれにも短く答えた。手紙のことは、もうそれ以上触れなかった。

 面談が終わり、先生が手紙を鞄に入れて立ち上がったとき、達也はその動作を目で追っていた。自分が何日もかけて書いたものが、他人の手に渡って、この部屋から出て行く。取り消すことはもうできない。先生の靴底が廊下に遠ざかっていく音を聞きながら、達也は掌を見た。汗が薄くにじんでいた。


────


 達也は談話スペースまで歩いて行って、自動販売機で缶のコーヒーを買った。紙コップではなく缶を選んだのは、冷たい金属の表面が、いまの掌には心地よかったからだった。掌の湿りは、朝からましなほうだった。缶を握っているあいだだけ、自分の手が自分の手ではなくなる気がした。談話スペースのテレビではワイドショーがついていた。芸能人の名前が大きく出ていたが、何も頭に入らなかった。窓の外では、防波堤に釣り竿を立てている人影がいくつか見えた。天候の穏やかな日だった。


 先生は何日後に感想を言うのだろうか。達也はそのことを考えないようにしていたが、考えないようにすること自体が、すでに考えていることだった。その間にも面談は続いた。先生はいつものように体調の確認をし、最近のことを二、三訊いた。手紙のことには触れなかった。達也もこちらからは何も言わなかった。ただ、面談の時刻が近づくと、身体がほんの少しだけそわそわした。廊下の足音が耳に入りやすくなって、時計を見る回数が増えた。


 夕方、食事の時間になった。骨が取り除かれた魚の煮つけが出たが、甘い匂いが鼻についた。味噌汁は熱すぎた。ご飯は半分ほど食べた。魚は少しだけ箸をつけて、やめた。


 夜の廊下は昼よりも静かだった。蛍光灯の白い光が床を照らしていて、ナースステーションの向こうから、ときどき低い話し声や紙をめくる音が聞こえた。空調の音が、夜になると昼よりはっきりした。隣の病室から咳がひとつふたつ聞こえることもあった。達也がベッドに横になると、昨日の昵に聞いたピアノの旋律が、頭の中でぼんやりと繰り返された。面談のときの、先生と二人でいるときの静けさに少し似ていた。似ているようで、違った。そこには先生がいなかった。


 先生が来ない日があった。面談の時刻が過ぎても、廊下に聞き慣れた足音は現れなかった。達也は窓の外を見ていたが、実際には何も見ていなかった。昼の光が床の上をゆっくりと移動して、やがて壁のほうへ退いていった。しばらくして看護師が来て、先生は今日はほかの患者さんの対応が入ってしまって、と説明した。達也は分かりましたとだけ言った。それから先生にもらったタオルを引き出しから出して、手に持ったまましばらく何もしなかった。


 ベッドの脇のテーブルに、先生が以前置いていった便箋の束がまだ残っていた。達也はその白紙の便箋を一枚引き抜いて、膝の上に置いた。ペンを手に取ったが、何も書かなかった。しばらくそのまま紙を見ていて、やがて便箋をもとの束に戻し、引き出しにしまった。


 翌朝、看護師が採血に来た。達也は言われるままに腕を出して、透明な管を通る自分の血を見ていた。針が抜かれて脱脂綿をあてがわれるとき、達也は看護師に訊いた。先生は今日は来ますか。看護師は、午後は来られると思いますよ、と答えた。達也はうなずいて、肘を曲げた。脱脂綿の白さがいやに白く見えた。


──


 先生は、その夜、医局の机の上で手紙を開いた。他のスタッフはもう帰っていた。デスクライトの光の下で、紙の擦れる音だけがあった。


 文章は整っていた。手汗のこと、水に触れていると少しましになること。あとは一部の過去については面談でうっすらと、わずかに聞いていた話だった。そこから先は、面談では一度も出てこなかった過去が、びっしりと綴られていた。

 そのなかに、一つ下の男子生徒のことが繰り返し書かれていた。その少年にだけは、汗を気にせずに触れることができていたらしい。友情というよりは、もう少し近いもののように読めた。いくつかの箇所で、先生はページをめくる手を止めた。

 その少年が海で亡くなったこと。連絡を絶ったまま再会できなかったこと。そのあと達也が自分を責め続けていること。先生はそこまで読んで、便箋を膝の上に置いた。


 椅子の背にもたれた。面談ではほとんど喋らなかった青年が、これだけの量を書いていた。蛍光灯が微かにちらついていた。明日、あの青年の前に座ったとき、自分が何を言えばいいのか、まだわからなかった。


 先生はペンを胸ポケットに戻した。キャップの欠けたあのボールペンだった。指先でキャップの断面に触れた。便箋を閉じたあとで、先生はふと、達也が今日の不在をどう受け取っただろうかということを考えた。考えて、そして、そういうことまで気にし始めている自分に気づいた。この日は午前中に別の患者の容体が急変し、午後はその対応と家族への説明に追われていた。達也の面談は、明日に持ち越すことにしていた。それは日常業務としてはごく普通のことだった。ただ、普通のことであるはずのものが、今日にかぎっては少しだけ引っかかった。


──


 先生が来た。午後の光がまだ窓から入っていて、病室の白さがいつもより明るく見えた。廊下のどこかで、車輪のついた何かが床をころころと転がっていく音がした。


 面談の冒頭で、先生は手紙の束を持ってきた。テーブルの上に静かに置いた。紙の束が触れる音が、やけに大きく聞こえた。


 「読みました」


 達也は掌が湿るのを感じた。先生の顔を見たかったが、見ることができなくて、自分の膝を見ていた。


 「……よく、これだけ書きましたね。きれいな文章でした」


 先生の声はゆっくりだった。達也は何も言えなかった。その「きれいな」という言葉が、胸の奥のどこかに沈んで、そのまま浮いてこなかった。


 先生がそのあと何を言ったのか、達也ははっきり覚えていない。読んで思ったことをいくつか、先生は言った気がする。達也の耳に残ったのはそのうちの一つだけで、それは「つらかったでしょう」という短い言葉だった。


 沈黙が落ちた。


 達也は、言うべきだった。今のうちに。あの手紙に書いたことの半分は、嘘だ。嘘というか、あったかどうかわからない。自分で作ったものだ。そう言うべきだった。言わなければ、先生はあの手紙をそのまま信じてしまう。信じた上で、次の治療を組み立てていくだろう。そうなってからでは遅い。


 けれど達也は動けなかった。手紙を書いているあいだの時間が、唯一、自分が何者かであるような気がした時間だった。それを今ここで壊したら、自分には何が残るのだろう。


 先生が、「何か聞いておきたいことはありますか」と言った。


 達也は掌を見た。汗がにじんでいた。膝の上で手を握った。


 「……手のことは、本当です」


 先生の顔が少し動いた。


 「汗のこと、水に触ると少しだけましなこと、そういうのは嘘じゃないです」


 達也はそう言って、それから黙った。自分がこれから何を言おうとしているのか、まだ迷っていた。言ってしまえば楽になるのか、もっと苦しくなるのか、分からなかった。


 「……でも、その先は」


 達也の声はかすれていた。


 「そのまま読まないでください」


 先生は何も言わなかった。廊下を看護師が通り過ぎていった音がした。足音が遠ざかってから、達也はまた口を開いた。


 「書いているうちに、そういうことが本当にあったような気がしてきたんです」


 言葉はゆっくりと、自分でもどこへ向かっているのか分からないまま出てきた。


 「ある人のことを書いていたはずなのに、その人がほんとうに誰なのか、途中から自分でもわからなくなった」


 窓の外では海が、三月の空のもとで、冬とも春ともつかない色をしていた。


 達也は何か言おうとして、口を開いたまま止まった。喉の奥にあるものが、言葉の形になるのを拒んでいるようだった。


 「……僕は、その……」


 掌を膝に押しつけた。汗の滲みが、ズボンの布地に丸く広がった。


 「大きい悲しみの近くにいれば……自分にも、何か……かたちがつくような気がして」


 言ってしまった。言ってしまったあとで、達也は自分の体が冷えていくのを感じた。胃のあたりが硬くなっていた。取り消したかった。あの手紙を書いているあいだだけは、自分には物語があった。語るべき過去があった。それがいま、自分の手で崩れていった。目の前の先生の顔を見ることはできなかった。見れば、先生が自分をどう思ったかが分かってしまう。分かるのが怖かった。


 先生はしばらく何も言わなかった。その沈黙が達也には苦しかった。嘘をついた人間なのか、訂正している人間なのか、綺麗だって褒められたことに耐えられなくなっただけの人間なのか、自分で分からなくなった。先生の袖口には薄い折り目がついていた。達也はその折り目ばかりを見つめていた。


 達也は何かをもう一つ言いかけた。言い方がわからなくて、口がそのまま止まった。胸の奥に何かがつかえていたが、それは掌の汗のように、握ろうとすると指のあいだからすべった。

 「僕の過去なんか、聞かないでください」

 達也は掌を握ったまま言った。

 「何かがあったからこうなったわけじゃないんです。……何もないのに、こうなったんです。……だから、作ったんです」

 先生の視線が少し落ちた。しばらく何も言わなかった。

 「手紙に書かれていることも、書かれていないことも、今日あなたが話したことも、どれもあなたの一部だと思っています」

 その言い方はやさしかった。やさしいのに、達也には少しも足りなかった。先生は手紙を手に取り、静かに言った。

 「これは、預かっておきますね」

 達也はそれを取り返そうとしなかった。返してほしいとも言えなかった。自分の中途半端なものが、先生の手の中へ入っていくのを見ているしかなかった。


──


 先生は病室を出たあと、廊下へ出てすぐには歩き出せなかった。廊下には夕食の配膳車が通ったあとの、煮物の甘い匂いが薄く残っていた。カルテと手紙を抱えたまま、向かい側の壁をしばらく見ていた。足が重かった。


 廊下の蛍光灯が一本、かすかにちらついていた。先生はそれをぼんやり見上げてから、医局へ向かって歩き始めた。


 医局の本棚には、ずいぶん前に読んだ精神療法の教科書が並んでいた。先生はその中から一冊、背表紙の色が褪せた古いものを引き抜いた。付箋がいくつも挟まっていて、それは研修医のころの自分が貼ったものだった。パラパラとめくったが、探しているものが見つかるわけではなかった。先生は本を閉じて、机の上に置いた。


 答えは出なかった。先生はカルテを閉じて、デスクライトを消した。


 その数日間、達也はほとんど廊下に出なかった。談話スペースにも行かず、缶コーヒーも買わなかった。食事のトレイは半分以上残して返した。看護師が体調を尋ねると、大丈夫です、とだけ答えた。大丈夫ではなかった。先生の前であの言葉を口にしたことが、掌の汗のようにいつまでも乾かず、身体にまとわりついていた。


 次の面談の日、達也は先生の顔をまともに見ることができなかった。嘘を告白したあとの自分が、先生の目にどう映っているのかが怖かった。面談の椅子に座っているあいだ、先生の視線を避けて、窓の外ばかり見ていた。先生はそれについて何も言わなかった。


 そうして迎えた次の面談のとき、先生がやわらかいタオルをもう一枚持ってきた。これ予備に置いといてください、と先生は言った。達也がいつも手にしているタオルがだいぶくたびれているのを、先生は見ていたのだった。新しいタオルは少し厚手で、手に持つと先生が前にくれたものよりも重かった。達也は「ありがとうございます」と小さく言って、タオルを受け取った。手に残った先生の体温を、感じたような気がした。

 その日の面談で、先生は最初に言った。

 「過去の話は、しばらく置いておきましょう」

 達也は顔を上げた。


 「話したくないことを、無理に話す必要はありません。ただ、今のことは、今のこととして聞きたいと思っています」


 言いながら、先生は自分の言葉が慎重すぎる気もした。慎重すぎる言葉は、ときによそよそしい。病室には消毒液の匂いが漂っていた。達也の表情はほとんど動かなかったが、その動かなさの中にわずかな固さがあった。


 「いま、眠れていますか」


 「前よりは」


 「食事は」


 「まあまあです」


 それだけのやり取りが続いた。静かな面談だった。達也は、その静けさの中に前とは違うものを感じた。先生は方向を変えたのだと分かった。分かったが、その変わり方が救いになるかどうかは、まだ分からなかった。


 「今、ほしいものはありますか」


 先生がそう訊いたとき、達也はすぐには答えられなかった。窓の外を見た。海は低い雲の下で鈍く光っていた。


 「分かりません」


 達也は言った。


 「分からないから、書いたんです。分からないから、先生に読んでほしかったんです」


 先生は何かを言いかけてやめた。分からないままそこにいる人に、こちらが先に分かる言葉を置くのは、ただの先回りになることがある。そのことだけは、はっきりしていた。


 その日の面談は静かに終わった。達也は先生の袖を見なかった。見ないようにしていることが、自分でも分かった。


 面談が終わりに近づいたころ、先生が「では今日はこのくらいで」と言いかけたとき、達也はふいに口を開いた。


 「先生は、どうして医者になろうと思ったんですか」


 先生は少し目を見開いたが、すぐに元に戻って、うーん、と言いながら少し考えた。


 「最初はね、あまり大した理由じゃなかったんですよ。親戚に医者がいたから、くらいのものだったかもしれない。途中で何度もやめようと思ったし。でも、続けているうちに、なんというか……患者さんと話すこと自体が、嫌いじゃないと思えるようになった。それだけです。格好いい理由じゃなくて申し訳ないけど」


 達也は黙って聞いていた。先生が立ち上がって鞄を持ったとき、達也はもう一度、今度はもっと小さな声で言った。


 「僕も、医者になりたいと思ったことがあります」


 先生は振り返った。


 「そうなんですか」


 「……親に、言われたことがあって」


 先生はしばらく黙っていた。それから、「そうなんですね」と言った。それから少し間を置いて、「その話、ぜひまた聞かせてください」と言った。達也は小さくうなずいた。先生は立ち上がり、ドアが閉まった。


 達也は自分がなぜそんなことを言ったのかわからなかった。医者になりたいと本気で思ったことはなかった。親に言われて、そういうものかと思っていた時期があっただけだ。その頃は、親が望むことと自分が望むことの境が、まだ見えなかった。


──


 光の角度が変わっていった。午後の日差しが病室の床を照らす面積が、日ごとにわずかに広がっていた。窓辺に置かれたプラスチックの水差しが、光に当たるとゆらゆらと天井に影を映して、それは二月にも見た光景だったが、今はその影が少しだけ暖かく見えた。廊下に出ると、どこかの病室から、春の甲子園のラジオ中継が低く漏れ聞こえてくる日があった。打球音のあと、歓声とも溜息ともつかない遠い音が、白い廊下に散った。


 そのころの達也の日常は、似たような輪郭を持って繰り返されていた。朝の回診、昵の散歩、午後の面談、夕方の食事。談話スペースの窓際に立って港を見下ろすと、防波堤に出ている釣り人の数が、前よりわずかに増えていた。暖かくなると人が出てくるのだな、と達也はぼんやり思った。階段の踊り場にある窓から中庭が見えた。小さな花壇に黄色いパンジーが咲き始めていた。看護師の誰かが植えたのだろう。達也はそれを眷めて、ああ咲いているなと思ったが、きれいだとも何とも思わなかった。きれいだと思えない自分のことも、もうあまり気にならなかった。


 達也は、先生のことを前より強く意識するようになっていた。


 それは嘘の告白のあとから始まった。空っぽの自分を知っている人間は、もうこの人しかいない。手紙の中の達也ではなく、何もない達也を。その事実が、達也のなかで、言葉にできない重さを持ちはじめていた。


 面談は毎日あるわけではなかった。二日続けて来て、一日空く。あるいは三日来て、二日空く。達也はその不規則さに、最初のうちは何も思わなかった。けれどある時期から、来ない日の病室がひどく静かに感じられるようになった。窓の外の海は同じ色をしているのに、先生がいない日は、それがただの風景に見えた。先生が来る日には、同じ風景が、もう少しだけ近く見えた。


 先生が来る気配を、達也はほとんど身体で覚えるようになった。廊下の向こうで足音が止まる間の取り方。ノックの前にある、ごく短い静けさ。そういうものを、いつのまにか聞き分けていた。


 面談のときだけ、達也は少しだけ言葉が多くなった。看護師や回診の内科医に対しては依然として必要最低限の返事しかしなかった。はい。いいえ。大丈夫です。それだけで済ませた。けれど先生が椅子を引いて座ると、達也の口からは、自分でも予期しなかった言葉がぽつぽつと出ることがあった。今日は風が強いです。缶コーヒーの冷たいのを買いました。談話スペースでまたあのピアノが聞こえました。そういう、理由にも告白にもならない報告を、達也は先生にだけした。先生はそのどれにも、ただ黙って聞いていた。


 面談が終わりに近づくと、達也は落ち着かなくなった。先生が「では今日は...」と言いかけたり、「ほかに聞きたいこととか...」と言いかけたりすると、達也はまだ半分も言い終えていないことがあるような気がして、何か言葉を探した。探すのだが、言いたいことがあるわけではなかった。ただ、先生が立ち上がるまでの時間を、少しでも引き延ばしたかった。先生が椅子を引く音、白衣の裾が擦れる音、靴底が床を踏む音。その一連の音の並びを、達也の体はいつのまにか覚えていた。先生が帰った後の病室は、先生が来る前の病室とは、わずかに違う場所のように思われた。


 ある午後、廊下で先生が別の患者の病室に入っていくのを見かけた。ドアが閉まった。少し立ち止まって、その向こうで、同じ声で、同じ調子で、同じやわらかさで話しかけているのかななどと考えた。達也は自分の病室に戻って、ベッドの端に座ったが、窓の外も手元のタオルも、どこか遠くに感じられた。


 ある夕方、医局の前を通りかかったとき、中から笑い声が聞こえた。先生の声もその中にあった。「いいですね、今度の土曜」と誰かが言い、先生が「ちょっと考えます」と笑って返していた。達也は足を止めかけて、そのまま通り過ぎた。先生にも、自分の知らない時間がある。当たり前のことが、腹の底に小さな重石のように沈んだ。


 缶コーヒーを買う回数が増えていた。金属の冷たさが掌を落ち着かせた。談話スペースの窓際に立って、缶を両手で包むように持っていると、汗が金属の表面で冷えて、それが痛みのような快さだった。窓の外では防波堤の釣り人が竿を上げたり下ろしたりしていた。それをじっと見ていた。


 ある面談の終わりがけに、先生が「今日は海がきれいですね」と窓のほうを見た。これまで海の話題はもう何度も繰り返されてきた。午後の低い光が海面をなぞるように伸びていて、港の防波堤が影を落としていた。先生がそのまま立ち上がろうとしたとき、達也は先生の白衣の袖口に目がいった。糊のきいた白い布と、その内側に覗くシャツの袖。先生が腕を動かすと、袖口がゆれた。達也は自分の手を伸ばしかけて、止めた。汗ばんだ指先が、白い布のすぐ手前で止まった。先生は気づいたのか気づかなかったのか分からない。何も言わなかった。達也は手を膝に戻した。


 自分は何をしようとしたのか。触ろうとしたのか。腕を掴もうとしたのか。分からなかった。分からないまま、ただ恥ずかしかった。それは恥ずかしさというより、もっと深い、自分の内側のどこかがむき出しになったような感覚だった。先生にだけは見せなくていいと思っていたものが、体のほうから先に出てしまった。カテーテルの日のことを、達也はふと思い出した。あのときも、意志とは無関係に、身体が先に反応した。あのときの惨めさと、今の惨めさは、似ていた。


 三月も半ばを過ぎた頃、達也は面談が少しだけ短くなったような気がした。


 気のせいかもしれなかった。実際には数分の違いだったのかもしれない。話の内容が変わったわけではないし、先生がよそよそしくなったわけでもない。けれど達也の体はそれを感じていた。先生が立ち上がる気配を見せたとき、もう少しだけここにいてくれたらと思うことが增えた。


 廊下ですれ違っても、先生は以前のように足を止めなくなった。軽く会釈をして、そのまま通り過ぎた。すれ違う瞬間、消毒液の匂いと、それから微かにそうでないもの——先生自身の匂いのようなものが、一瞬だけ達也の鼻をかすめた。


 先生のほうは、達也のために意識的に距離を調整しているのではないかとも思った。けれどそうだとすれば、それは気遣われているのか、それとも厄介払いなのか。どちらに転んでも、達也には突き放されたようにしか感じられなかった。距離を置かれることの恐ろしさが、足元から静かに這い上がってきた。

 達也は自分の中にあるものの正体を、名づけることができなかった。ただ、近くにいてほしかった。先生の声が聞こえる距離にいたかった。犬みたいだ、と思った。頭を、手のひらで、ただ撫でてもらいたい。それだけのことで自分は救われるような気がした。そう思うこと自体が恥ずかしくて、達也は毛布を顔まで引き上げた。


──


 先生は、達也の変化に気づいていた。


 面談のとき、達也の視線が以前と違う。先生が何かを言えば達也はうなずくが、そのうなずきの意味が変わっている。以前は「聞いている」という合図だった。今は「まだここにいてほしい」という合図に近い。面談が終わりに近づくと、達也の言葉数が増える。話題が途切れても、何か探すように口を開きかける。


 先生は面談の時間を意識的に短くした。十五分で切り上げる。廊下で達也を見かけても、立ち止まらず会釈だけで通り過ぎる。訪室の回数を、必要な範囲に戻す。そうすることで、自分があの青年にとって意味になりすぎるのを防ごうとした。


 しかし先生は、その判断が正しいのかどうか、自分でもわからなかった。距離を取ることが治療なのか。それとも、自分が傷つくことを避けているだけなのか。それとも、そのどちらでもなく、ただ自分の処理能力を超えたものがあの青年の目の中にあるのが怖いだけなのか。


 患者が求めるものと、患者に必要なものは違う。そんなことは分かっている。分かっていて、それでもどうすればいいのかが分からない。

 近づきすぎれば依存を生む。離れすぎれば見捨てたことになる。その間のどこに立てばいいのかを、先生はずっと探していた。けれどその判断の中に、自分自身の怖えが混じっていることも分かっていた。あの青年が嘘の手紙を書き、嘘の過去を語り、それを自分の目の前で壊したとき、先生は正直に言えば、うろたえていた。壊したあとに何も残らなかった。残らなかったのに、あの青年はまだここにいて、こちらを見ている。空っぽのまま。その目を真正面から受け止める力が自分にあるのか。先生には、それが分からなかった。


 先生は医局の椅子に座った。窓の外はもう暗かった。港の灯りが遠くにいくつか点いていた。キャップの欠けたボールペンを指で回しながら、カルテに何を書くべきか考えていた。


──


 三月の下旬に入ると、日の入りが遅くなった。午後の面談が終わる頃にも、まだ窓の外に光が残っていた。病棟の暖房は切り替わる時期に入って、午前は少し肌寒く、午後は温かすぎることがあった。達也は毛布を半端にかけたり、剥いだりを繰り返していた。窓のそばに立つと、海からの風が首筋を冷やした。丘の上にあるこの病院は、いつでもどこかで風が鳴っていた。


 その日の面談で、先生がふいに切り出した。


 「少し、退院後の話をしてもいいですか」


 達也は窓の外を見ていた視線を、先生のほうへ戻した。


 「身体のほうは、もうだいぶ落ち着いています。内科のほうの先生もそう言っている。精神科のほうも、少しずつ通院に切り替えていければと思っているんですが」


 先生の声は普段と変わらなかった。淡々としていて、どこにも圧はなかった。けれどその言葉のなかに、達也は一つの事実を聞き取った。この場所を出るということは、先生がいなくなるということだった。


 「ただ、一度にたくさんのお薬をお渡しすることはどうしてもできません。ですから、退院後もこまめに通院していただいて、お一人の先生に継続して体調と処方を見てもらうのが安全だと思っています。お住まいに近いところで、引き継ぎができればと」

 それは、遠回しなオーバードーズへの言及だった。達也の過去の過ちが、ここへ来て静かに、しかしはっきりと目の前に置かれた。


 先生はそう言って、達也の反応を待った。


 達也はしばらく黙っていた。それから、短く訊いた。


 「先生はそのとき、まだここにいるんですか」


 先生は少し間を置いて、「ここにはいますよ。でも、外来で毎回お会いするというのは、難しいかもしれない」と答えた。


 達也はうなずいた。うなずいて、それ以上は何も言わなかった。先生の言っていることは分かった。ここを出れば、自分は先生の患者ではなくなる。べつの医者がつく。先生はべつの患者を見る。それが当然のことであるのは分かっていた。


 その夜、達也はいつもより長く窓の外を見ていた。港の灯りが水面にゆらゆらと映っていた。ここを出たら、もうこの海は見えない。先生の足音も聞こえない。毎日決まった時刻にノックされる、あのドアの音も。達也は毛布の端を握って、眠れないまま朝を待った。


 「退院後は、どちらにお戻りになりますか」

 先生がその次の面談で、事務的な口調でそう訊いた。達也はしばらく考えて、「東京の……アパートに」と答えた。声は小さかった。先生は「お一人ですか」と確認した。達也はうなずいた。「退院してから、何かやってみたいことはありますか」と先生は訊いた。達也は考えようとした。考えようとしただけで、頭の中がすうっと白くなった。将来という言葉の先に何かを置こうとすると、何も浮かばなかった。「……わかりません」と達也は言った。先生はうなずいて、カルテに住所のことを書き留めた。


 東京のアパート。達也は面談が終わったあと、あの部屋のことを思い出そうとした。六畳一間と小さなキッチンとユニットバス。それだけは浮かんだ。冷蔵庫に何が入っていたか。本棚に何が並んでいたか。窓から何が見えたか。どれも思い出せなかった。日曜日に何をしていたか。誰かに連絡を取ることがあったか。答えは出なかった。あの部屋には、自分が何ヶ月も不在だったことに気づく人間は誰もいない。帰ったところで、誰にも気づかれずに消えていた人間が、誰にも気づかれずに戻るだけのことだった。


 面談が終わって先生が立ち上がったとき、達也は何か言おうとした。けれど何も出てこなかった。先生がドアに手をかけたとき、達也は先生の背中を見ていた。白衣の背中。一月の夜に、ナースコールを押して、先生が来てくれたときの背中と同じだった。あのとき自分は「もう少しそばにいてほしい」と言った。今は言えなかった。今言えば、それは別の意味を帯びてしまう気がした。


 それ以来、達也は自分が少しずつどこかへ押されていく感じを持った。誰かに押されているわけではない。先生が何かをしたわけでもない。むしろ先生は前より丁寧になっていた。話し方も、間の取り方も、距離の取り方も、前より慎重だった。丁寧だからこそ、その丁寧さが壁のように見える瞬間があった。


 その夜、達也は窓の近くに立って、暗い海を見ていた。港の灯りが水面に細く揺れていた。ここを出たら、あの声は聞こえなくなる。ノックの音も、椅子を引く音も、白衣の擦れる音も。そう思ったら、胸の奥がひどく重くなった。自分は退院したくないのだと、そのとき初めてはっきり思った。その理由が自分の健康とは何の関係もないことも、分かっていた。


──


 その翌日は、朝から曇っていた。海は灰色で、空との境界がほとんど見えなかった。風が少し強くなっていて、窓枠がときおり鳴った。廊下では看護師たちが夜勤から日勤へ引き継ぎをしている声がして、その日常的な気配が、かえって達也のなかの何かをぎりぎりと締めつけた。


 面談はいつも通りに始まった。先生はいつもの椅子に座り、いつものようにいくつか確認をした。達也は短く答えた。窓の外のことを少しだけ話した。先生はうなずいた。何も変わっていない一日だった。変わっていないはずだった。達也は必死にいつも通りの自分を保とうとしていた。


 先生が「では今日はこのくらいで」と言って、椅子を引いた。


 達也の中で何かが崩れた。音はしなかった。叫びたいわけでも泣きたいわけでもなかった。ただ、先生が立ち上がって、この部屋を出て行って、廊下を歩いて、別の患者の部屋に入って、同じ声で話しかけて、それから医局に戻って、カルテを書いて、帰る。その一連の動作が、達也の頭の中で、ひどくはっきりと映像のように流れた。そしてその映像のどこにも、自分はいなかった。


 「先生は」


 達也はベッドの端に座ったまま言った。


 「すぐ、そういうふうに言うんですね」


 先生は返事をしなかった。


 「ここを出たあと、とか。次のこと、とか」


 達也は先生のほうを見た。胸のあたりがひどく狭くなっていた。


 「今の自分のことを見るって言ったのに」


 「見ています」


 先生は言った。


 「だから、今のあなたがここを出たあとも困らないように考えています」


 「今じゃないです」


 達也は言った。声は大きくなかったが、その静かさが自分でも少し怖かった。


 「今じゃないです。そういうことじゃない」


 何が違うのか、何が足りないのか、それを言葉にしようとすると、どれも少しずつ違っていた。自分でも分からないまま、口だけが先に動いた。


 「先生は、帰るから」


 「帰って、別の人のところへ行って、また明日になって」


 そこで声が少し震えた。唇を閉じた。もう何も言わないつもりだったのに、次の言葉が勝手に続いた。


 「それが嫌なんです」


 その一言で、病室の中の何かが変わった気がした。先生の表情は大きく動かなかったが、息を吸う速さがわずかに変わったのが分かった。


 達也は、自分が何を言っているのか分からなくなりかけていた。何が嫌なのか。先生が帰ることが。ほかの患者のところへ行くことが。ここを出たあとの話をすることが。全部が同じもののように固まって、その中心に、自分でもまだ名前をつけていないものがあった。


 「先生に」


 達也は言って、止まった。そこから先へ行けば、もう引き返せない気がした。けれど、止まっても、いまさら元の場所へ戻れる気はしなかった。


 「……抱きしめてほしいです」


 言い終わったあと、病室はひどく静かだった。外でカートの車輪が一度だけ鳴り、すぐに遠ざかった。


──


 先生はすぐには答えなかった。目の前の青年は叫んでいるわけでもなく、取り乱しているわけでもなかった。ただ、ひどく静かに追いつめられているように見えた。その静けさが、先生にはいっそう難しかった。


 「……できません」


 先生は言った。


 達也の肩がわずかに動いた。


 「ここでだけ効くものを渡したら、あとで、あなたをもっと困らせるかもしれない」


 達也は窓のほうへ半歩下がった。逃げるためではなく、立っている場所が急に落ち着かなくなったような動きだった。


 「でも」


 と達也は言った。


 「今なんです」


 耳に届いた自分の声は、途方もなく幼く、空ろだった。達也はその響きに耐えられず、奥歯を深く噛んだ。


 「今しかないんです」


 先生は椅子から立ち上がった。すぐには近づかず、一度そこで立ち止まった。その一瞬がひどく長く感じられた。達也は、そのあいだに自分の右手が動いているのに気づいた。先生の袖口へではなく、先生の手のあるあたりへ、ほとんど無意識に伸びていた。


 途中で止まった。白衣の布まで、ほんの数センチだった。引かなければならないと思った。思ったのに、引けばそれで何かが終わる気がして、引けなかった。


 「すみません……すみません、でも」

 その先が続かなかった。手のひらに汗がにじみ、指先が冷えていた。先生はその手を見た。見てから、ごくゆっくり、自分の両手を動かした。達也の手を強くつかむのではなく、その汗ばんだ手を、自分の両手で包んだ。引き寄せも押し返しもしない、ただ包むだけの形だった。

 達也は息を止めた。


 先生の手は乾いていた。乾いているのに、冷たくはなかった。自分の手の重みを、そのまま受けているだけのようだった。数秒のことだったかもしれない。もっと長かったかもしれない。達也には分からなかった。ただ、誰かに手を見られながら、そのまま包まれていることだけが、はっきりしていた。


 達也の指がわずかに震えた。


 「あなたを見ていないわけではない」

 先生は静かな声で言った。

 達也は顔を上げた。


 「ただ、私ひとりが、あなたの全部になることはできません」

 その言葉は、達也のほしかったものとは違っていた。違っていたが、嘘ではなかった。嘘ではないから、すぐに拒むこともできなかった。


 「そんなこと……頼んでないです」

 達也は言った。だが声には力がなかった。

 「頼んでない、ですけど」


 そこでまた言葉が切れた。頼んでいないはずなのに、何かを頼んでいる形になっていることだけが分かった。自分がどんな顔をしているのか知りたくなくて、視線を落とした。


 先生はそれ以上、言い聞かせるようなことを言わなかった。手を離すのも急がなかった。いまここで唐突に手を離してしまえば、目の前の青年の均衡が乱暴に崩れてしまうだろうと、先生は思った。やがて先生は、ゆっくりと手を離した。自分の掌にわずかな湿りが残っているのが分かった。


 「今日は、ここまでにしましょう」

 先生はそう言って立ち上がった。

 達也はうなずかなかった。首も振らなかった。ただ両手を見ていた。さっきまでそこにあった重みが消えたあとも、手の形だけがしばらく残っているようだった。

 「また来ます」

 先生は言って、病室を出た。その言葉が自分にだけ向けられたものではないことを、達也は知っていた。知っていたが、今日のところは、それでよかった。


──


 先生が出て行ったあと、達也はしばらく自分の手のひらを見つめていた。


 先生の手の熱は、もうほとんど残っていなかった。あれほどはっきりと重かったものが、もう消えかかっていた。代わりに、達也自身の汗だけが、いつものように冷たく滲んでいた。

 足りなかった。

 何が足りなかったのかは、言葉にできなかった。抱きしめてほしかったのだ。もっと長く、もっと強く。体ごと預けて、先生の白衣の匂いを近くで嗅いで、息ができなくなるくらい、ぎゅっと。それが欲しかったのだ。それは分かっていた。けれど先生は「できない」と言った。できないと言いながら、手だけは握ってくれた。あの短いあいだの手の重さと温度だけが、やけに生々しかった。あの手の幅と厚みを、達也は自分の体が覚えてしまったと思った。

 窓の外の海は、灰色のまま動いていた。風が波を立てていた。防波堤に人影はなかった。達也はベッドに横になって、天井を見た。蛍光灯は消えていて、窓からの薄い光だけが、部屋を灰色に染めていた。自分が求めたものと、与えられたもののあいだにある距離のことを考えようとした。考えようとして、うまくいかなかった。距離と呼ぶには近すぎ、触れたと呼ぶには短すぎるものだった。

 達也は右手を左手で包んだ。そうすると少しだけ落ち着いた。包んだ手の内側はじっとりしていたが、離す気にはならなかった。掌の湿りが、自分のものだけではないように思えた。もちろんそんなはずはなかった。けれど、そう思いたかった。手汗のある自分の手を、先生は嫌がらずに包んでくれた。それはあの場をやり過ごすためのわずかな譲歩だったのかもしれない。達也にとっては、そうではなかった。そうではなかったが、それが何だったのかを言い当てる言葉を、達也は持っていなかった。


──


 先生は廊下を歩いていた。

 白衣の袖口に目を落とした。達也の汗が残っている気がした。見えるものではなかった。けれど、わずかな湿りが指先にある。それが達也の汗なのか自分の汗なのか、一瞬、区別がつかなくなった。

 歩きながら、先生は一度だけ、さきほどの病室のドアのほうへ視線をやった。閉まったままの白い扉は、ほかのどの扉とも変わらなかった。

 医局のドアの前で足を止めた。中から、ほかの医師の話し声が漏れていた。先生はドアを押し開けて、自分の席に戻り、カルテを開いた。書くべきことを書いた。

 書き終えてから、ペンを置いた。

 指先に残る微かな湿りを、無意識に白衣の裾で拭った。拭ってから、その動作の意味を考えて、やめた方がよかったと思った。何もなかったことにはできなかった。

 窓の外は暗かった。港の灯台が、一定の間隔で、光と闇を繰り返していた。


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