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語られる正義  作者: ふぁい(phi)


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9/9

最終章 語られた正義

桐山が最後に確認したのは、

事件そのものではなかった。


それはすでに終わっている。

記録され、整理され、判断は下された。

誰の机の上にも、もう置かれていない。


彼が向き合っていたのは、

その後に残された、いくつかの「空白」だった。


正式な書類には書かれない。

だが、確実に存在する時間。

誰もが一度は立ち止まり、

それでも結局、先へ進んだ痕跡。


桐山は、過去の事例を丹念に追い直していく。

発砲事件に限らない。

判断が割れた案件。

内部で異論が出た出来事。


共通点は、意外なほど少ない。

現場も、立場も、結果も異なる。


ただ一つだけ、

どの記録にも必ず残っているものがあった。


「検討した」という事実だ。


何を、どこまで、誰が検討したのかは曖昧だが、

検討が存在した、という一文だけは欠かされていない。


桐山は、そこに目を留める。


検討とは、

結論を変えるためのものではない。


検討があった、という履歴が、

結論を動かさないために必要なのだ。



宮坂の証言は、

当初、想定以上の反響を呼んだ。


それは内容よりも、

語ったという事実が注目された。


若手。

現場。

内部からの声。


人々は、それを「健全さ」の証拠として受け取った。

警察が自浄作用を持っている、という物語は、

安心して消費できる。


だが、語られた言葉そのものは、

次第に細分化されていく。


一部が切り取られ、

一部は文脈を失い、

最終的には、

「異議が存在した」という情報だけが残る。


桐山は、その変化を、

誰の悪意とも結びつけられなかった。


すべてが、

あまりにも自然だった。



内部資料の一角に、

評価表があった。


数値化された項目の中に、

「リスク低減効果」という欄がある。


桐山は、しばらくその数字を眺める。


異議がなかった場合よりも、

異議があった場合の方が、

評価は高い。


理由は明確だ。


異議があったという事実が、

「議論を尽くした」という印象を与える。


印象は、

やがて信頼に置き換わる。


信頼は、

判断を疑わない理由になる。


宮坂の証言は、

その流れを成立させるための、

欠かせない要素だった。


彼が何を言ったかではない。

彼が「言った」という事実そのものが、

意味を持った。


桐山は、そこで初めて、

自分の違和感の正体を掴む。


この事件は、

真実が問われたのではない。


手続きが完成しただけだ。



夜、署を出た桐山は、

交差点で足を止める。


信号待ちの人々。

誰も彼を見ていない。

それでいい。


この事件は、

注目を集めるために起きたわけではない。


むしろ、

注目されすぎないことが、

最も望ましい結末だった。


人々が関心を失った瞬間、

判断は固定される。


それは、

誰にも異論を持たれない、

最も安定した状態だ。



宮坂のその後について、

桐山は詳しく知らない。


異動。

通常業務。

特筆すべき問題なし。


英雄にもならず、

排除もされない。


語った者としては、

理想的な処遇だった。


桐山は思う。


もし、彼が極端な扱いを受けていれば、

この事件は別の意味を持ってしまっただろう。


だが、何も起きなかった。


何も起きなかった、という事実が、

最も多くのことを物語っている。



自宅に戻った桐山は、

古い事件ノートを開く。


そこには、

かつての自分が書いた言葉が残っている。


「違和感を軽視するな」


若い字だ。

勢いがある。


桐山は、その言葉を否定しない。

だが、付け加えたくなる。


違和感は、

必ずしも守られるとは限らない。


違和感は、

検討され、整理され、

最終的に、

「考慮済み」として処理される。


それが、

成熟した社会のやり方だ。



机の上には、

まだ未確認の資料が積まれている。


別の案件。

別の部署。

別の現場。


桐山は、それらに目を通さない。


見れば、同じ構造があると分かっている。

分かっているからこそ、

確認しない。


確認しないという行為が、

何かを変えるわけではない。


ただ、

自分がその流れの外に立っている、

という幻想を、

少しだけ保てる。


桐山は、

それ以上のことを望まなかった。



語られた正義は、

必ずしも間違っていない。


だが、

正しいからといって、

何かを救うとは限らない。


語られた瞬間、

それは役割を与えられ、

配置され、

次の判断の材料になる。


その過程で、

誰かの迷いも、

躊躇も、

静かに削られていく。


桐山は、灯りを消す。


暗闇の中で、

今日という一日が、

何事もなかったかのように終わる。


それが、

この社会における、

最も完成された結末だった。


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