最終章 語られた正義
桐山が最後に確認したのは、
事件そのものではなかった。
それはすでに終わっている。
記録され、整理され、判断は下された。
誰の机の上にも、もう置かれていない。
彼が向き合っていたのは、
その後に残された、いくつかの「空白」だった。
正式な書類には書かれない。
だが、確実に存在する時間。
誰もが一度は立ち止まり、
それでも結局、先へ進んだ痕跡。
桐山は、過去の事例を丹念に追い直していく。
発砲事件に限らない。
判断が割れた案件。
内部で異論が出た出来事。
共通点は、意外なほど少ない。
現場も、立場も、結果も異なる。
ただ一つだけ、
どの記録にも必ず残っているものがあった。
「検討した」という事実だ。
何を、どこまで、誰が検討したのかは曖昧だが、
検討が存在した、という一文だけは欠かされていない。
桐山は、そこに目を留める。
検討とは、
結論を変えるためのものではない。
検討があった、という履歴が、
結論を動かさないために必要なのだ。
⸻
宮坂の証言は、
当初、想定以上の反響を呼んだ。
それは内容よりも、
語ったという事実が注目された。
若手。
現場。
内部からの声。
人々は、それを「健全さ」の証拠として受け取った。
警察が自浄作用を持っている、という物語は、
安心して消費できる。
だが、語られた言葉そのものは、
次第に細分化されていく。
一部が切り取られ、
一部は文脈を失い、
最終的には、
「異議が存在した」という情報だけが残る。
桐山は、その変化を、
誰の悪意とも結びつけられなかった。
すべてが、
あまりにも自然だった。
⸻
内部資料の一角に、
評価表があった。
数値化された項目の中に、
「リスク低減効果」という欄がある。
桐山は、しばらくその数字を眺める。
異議がなかった場合よりも、
異議があった場合の方が、
評価は高い。
理由は明確だ。
異議があったという事実が、
「議論を尽くした」という印象を与える。
印象は、
やがて信頼に置き換わる。
信頼は、
判断を疑わない理由になる。
宮坂の証言は、
その流れを成立させるための、
欠かせない要素だった。
彼が何を言ったかではない。
彼が「言った」という事実そのものが、
意味を持った。
桐山は、そこで初めて、
自分の違和感の正体を掴む。
この事件は、
真実が問われたのではない。
手続きが完成しただけだ。
⸻
夜、署を出た桐山は、
交差点で足を止める。
信号待ちの人々。
誰も彼を見ていない。
それでいい。
この事件は、
注目を集めるために起きたわけではない。
むしろ、
注目されすぎないことが、
最も望ましい結末だった。
人々が関心を失った瞬間、
判断は固定される。
それは、
誰にも異論を持たれない、
最も安定した状態だ。
⸻
宮坂のその後について、
桐山は詳しく知らない。
異動。
通常業務。
特筆すべき問題なし。
英雄にもならず、
排除もされない。
語った者としては、
理想的な処遇だった。
桐山は思う。
もし、彼が極端な扱いを受けていれば、
この事件は別の意味を持ってしまっただろう。
だが、何も起きなかった。
何も起きなかった、という事実が、
最も多くのことを物語っている。
⸻
自宅に戻った桐山は、
古い事件ノートを開く。
そこには、
かつての自分が書いた言葉が残っている。
「違和感を軽視するな」
若い字だ。
勢いがある。
桐山は、その言葉を否定しない。
だが、付け加えたくなる。
違和感は、
必ずしも守られるとは限らない。
違和感は、
検討され、整理され、
最終的に、
「考慮済み」として処理される。
それが、
成熟した社会のやり方だ。
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机の上には、
まだ未確認の資料が積まれている。
別の案件。
別の部署。
別の現場。
桐山は、それらに目を通さない。
見れば、同じ構造があると分かっている。
分かっているからこそ、
確認しない。
確認しないという行為が、
何かを変えるわけではない。
ただ、
自分がその流れの外に立っている、
という幻想を、
少しだけ保てる。
桐山は、
それ以上のことを望まなかった。
⸻
語られた正義は、
必ずしも間違っていない。
だが、
正しいからといって、
何かを救うとは限らない。
語られた瞬間、
それは役割を与えられ、
配置され、
次の判断の材料になる。
その過程で、
誰かの迷いも、
躊躇も、
静かに削られていく。
桐山は、灯りを消す。
暗闇の中で、
今日という一日が、
何事もなかったかのように終わる。
それが、
この社会における、
最も完成された結末だった。




