第八章 引き受けられないもの
告訴期限が、迫っていた。
発砲事件そのものではない。
警察の対応を巡る、市民団体からの告発だ。
違法捜査、説明義務違反、組織的不透明性。
法的に通る可能性は低い。
それは、関係者全員が分かっている。
それでも告訴状は提出される。
正義は、勝つためだけに使われるわけではない。
桐山は、関係資料を読みながら、その事実を噛みしめていた。
告訴が通らなくても、
記録は残る。
疑念も残る。
そして何より、
「何もなかったこと」にはならない。
宮坂は、提出前日の夜、桐山に会いに来た。
「自分、署名を頼まれています」
その声に、迷いはあったが、恐れはなかった。
「断ってもいいし、
書いても、何かが変わるわけじゃない」
宮坂はそう言ってから、少し間を置いた。
「……でも、書かないと、
自分が何を見て、何を感じたのか、
全部なかったことになる気がして」
桐山は、止めなかった。
勧めもしなかった。
それが、今の自分に許された立場だと理解していた。
「署名したら、どうなる」
宮坂が聞く。
「たぶん、何も起きない」
桐山は、正直に答える。
「ただし、
君が“戻る場所”は、さらに狭くなる」
宮坂は、うなずいた。
「もう、広くなくていいです」
その言葉は、強がりではなかった。
選び直した結果でもない。
ただ、受け入れた、という響きだった。
数日後、告訴は受理された。
そして、予想通り、進展はない。
不起訴。
理由は、形式的で、丁寧だった。
記者会見もない。
ニュースは、短いベタ記事で終わる。
だが、署内では、確実に変化が起きていた。
宮坂は、完全に“透明な存在”になる。
問題にも、功績にもならない。
桐山のもとにも、非公式な連絡が入る。
「これ以上、関わらない方がいい」
忠告とも、配慮ともつかない言葉だった。
桐山は、資料を閉じる。
誰も、間違っていない。
誰も、責任を放棄していない。
それでも、
この一連の出来事は、誰の手にも引き受けられていない。
夜、桐山は一人で街を歩く。
事件現場の近くまで足を運ぶ。
人通りは多い。
誰も、あの夜のことを覚えていない。
正義は、記念碑にならない。
残るのは、通り過ぎた痕跡だけだ。
桐山は、立ち止まり、考える。
語られた正義は、役目を終えた。
沈黙も、もはや守るものを失っている。
それでも、
この街は、何事もなかったように続いていく。
それが、最も重い現実だった。




