第一章 発砲は、正しかった
その音は、乾いていた。
街路樹の並ぶ住宅街で、夕方の空気を裂くには、あまりにも短く、あまりにも明瞭だった。
破裂音に似たその一瞬のあと、すぐに静寂が戻る。まるで、何事もなかったかのように。
倒れた男は、仰向けになっていた。
アスファルトに広がる血は、最初は黒く、やがて赤みを帯びていく。男の胸元が、わずかに上下したが、それも数秒で止まった。
「……発砲しました」
震えのない声で、警察官が無線に告げる。
「被疑者、確保……いや、倒れています」
現場にいた三人の警察官のうち、引き金を引いたのは最年長の巡査部長だった。
四十代半ば。現場経験も多く、冷静な判断力で知られている男だ。
逃走中の被疑者。
夜間。
刃物所持の可能性。
職務質問からの急な走り出し。
制止の声。
止まらない背中。
発砲に至るまでの経緯は、あとで作成される報告書に、正確に、簡潔に記されることになる。
そのすべてが、マニュアル通りだった。
数分後、パトカーと救急車が到着する。
救急隊員は男の脈を確認し、静かに首を振った。
「死亡、確認します」
誰も声を上げない。
現場は、奇妙なほど整然としていた。
やがて規制線が張られ、周囲に集まり始めた住民たちが、遠巻きに様子をうかがう。
スマートフォンを構える者もいる。だが、警察官の視線に気づくと、すぐに下ろした。
撃った巡査部長は、深く息を吐いた。
震えはない。後悔も、少なくとも表情には浮かんでいない。
それを見て、若い巡査――宮坂は、胸の奥に、説明のつかない違和感を覚えた。
被疑者は、確かに走っていた。
だが、振り返った瞬間、刃物を構えていたわけではない。
距離も、致命的に近いとは言えなかった。
「……撃つほどだったか?」
その疑問は、声にならなかった。
なってはいけない、という空気が、すでに出来上がっていた。
署に戻ると、すぐに事情聴取と内部報告が始まる。
現場検証、弾道、証言。
すべてが迅速に、淡々と進んでいく。
結果は明白だった。
正当防衛、あるいは職務上の正当行為。
発砲は、適正。
上司は言った。
「よくあるケースだ。誰も間違っていない」
宮坂はうなずいた。
理屈としては、理解できる。
法的にも、問題はない。
それでも、胸の奥に残った小さな引っかかりは、消えなかった。
数日後、警察は公式に発表する。
――警察官の発砲は、適正であった。
新聞は小さく報じ、テレビは数秒で次のニュースに移る。
世間の関心は、すぐに別の事件へ向かった。
発砲事件は、終わったことになった。
だが、宮坂の中では、何も終わっていなかった。
「もし、撃たなくても――」
その続きを考えた瞬間、彼は自分が危険な場所に立っていることを悟る。
正義は、すでに決まっている。
あとは、それを共有するだけだ。
だが、共有できない違和感は、
やがて言葉を欲しがり始めていた。




