64.悪魔狩り
危なかった。
九死に一生を得たそいつは、四肢で岩盤を掴んで駆ける。
〈ぐ、ぐぐぐぅぅぅぅ……!〉
肩幅の広い巨漢の体に、オランウータンのように長い手足、奇妙にも無音に近い硬質な蹄。
ヤギと羊が混ざり合ったような頭のデーモンは、坑道内を一人で走っていた。
本当に、危なかった。
そいつのように、離脱用の小型ボディを用意し、体内に仕込む用心深さがなければ、間違いなく爆散していた。
ノームや冒険者達の生死は確認できていない。恐らく生き残りも居る。デーモンの暗躍は、もう隠しきれないだろう。
だが、あの場に留まり戦い続けるのは、得策とは言えなかった。肉体の大部分を喪失し、今の最低限の体を作るだけでも、かなり無理をしている。それなり以上の相手と戦うには、余力が心もとない。
勝ったと思って安心している隙を突き、あの場の生存者を殺すことまでなら、まだ可能かもしれない。だが、敵が戦力を二つ以上に分けていた場合、その別動隊が後から合流してくる危険がある。
そうなると、今度こそ命は無いと考えていい。
今のそいつは、それほどにまで追い詰められている。
使命の為に、命を投げ出す覚悟はある。
だがそれは、仕事をキッチリ果たしてから。
特に現在、そいつは重大な役を担わされている。
ユイト・クロキ。
異世界から来たあの脅威について、仲間達に報せること。
あれは、危険だ。
必ずやデーモンにとって、巨大な障害となる。
そいつの君主にとって、良くないモノとして立ち塞がる。
あんなものが存在すると、それを報せなければならない。
警告しなければならない。
だから今は、どんなに潔くなかろうと、死ねないのだ。
実績こそが一番。それ以外は二の次。
結果で語る者こそが一流だ。
重要情報を絶対に持ち帰る。
その上で、この失態は必ず取り戻す。
幸い、彼のユニークは、あの少年と相性が良い。
殺せないまでも、捕獲することはできる。
だから、逃げ、だ。ここは逃げ。それが最適解。
〈ぐぅうううウウウウウ……!〉
下唇と共に屈辱を噛み殺し、敵に背を向ける無様を握り潰し、デーモンはただ出口へと——
〈!〉
来る。
まずはマナの流動が、次に足音の木霊が伝わってきた。
「別動隊」とかち合った?
数は——
——一人?
単独行動?
冒険者ではないのか?
不審に思ったそいつの前に、気配の主が現れた。
「おや、本当にデーモンですか。これはまた珍しい」
女。エルフか。
地味な色のローブに、フードを目深に被っている。
“罪餐”の効果で見落としてくれれば話は早かったのだが、彼らはマナの動きに敏感な種であるので、素通りとはいかなくなってしまった。
よりにもよってエルフとは……、否、それが一人で歩いていることを、むしろ幸運と考えるべきか。
人一人殺せば、突破できるのだから。
〈ダラ・ガラ……!〉
略式詠唱によって生み出した小型の眷属達。そいつのように、マナの塊に生物の動きを模倣させ、ある程度自律行動をさせられるのは、相当な使い手である証なのだ。
虫ほどの大きさのそれらを数十ほど床に敷き詰め、女を襲わせる。この暗さ、この小ささであれば、何体かは“罪餐”の効果に紛れ、不可視の攻撃と化してくれる筈だ。
「ペイル」
エルフもまた短縮した詠唱らしきものを唱え、それによって……何も起こらない。その間に飛びついた眷属が、その衣を黒く染める。
〈!……なんだよ、この服……!〉
「ああ、お前、見えていないのですか。手の掛かること……」
会話のように見えて、互いに独り合点しているだけ。一方通行どころか、まず相手に聞かせようとすら思っていない、勝手な呟きが交錯する。
「10メートル圏内に、他の生命反応は?……なるほど、ポプラーだけ、ですか」
〈この記憶……、ハイエルフ……!?そして、変身……!なるほど、2体居るのか!〉
だがデーモンは、彼のユニーク故に理解した。
外側と内側で、別の生物!
絡繰りを看破したそいつは、思わぬ獲物に舌なめずりをして、予定を大幅に変更する。
この女を持ち帰れば、多少の埋め合わせになるのかも、と——
「致し方ありません。少しだけ、夢でも見ていなさい」
エルフが両手を持ち上げ、すう、と息を吸い込んで、
声楽の一節を、朗々と歌い上げた。
玲瓏たる波浪が通路を吹き抜け、それが届いた部分から順に、ポプラーの青照明が明滅していく。
絵本に描かれるような幻想的な情景、デーモンはその夢心地を全身で浴びながら、片膝をついている己を見出した。
屈服したのではなく、ただ単純に、強力な睡魔に急襲されたのだ。
〈こ、れは……?〉
「耐えますか。なかなかの力量……いえ、お前、よく見たら、そのマナの動き……」
女に被さっていた衣が、ドロドロと溶けるように形を崩し、足元へと溜まっていく。その青色のゾル状物体が、本来の姿であるようだった。
「もしや、いつぞやの生き残り、でしょうか?」
〈?!???〉
瞠られた真っ黒な眼球に、幽霊の如き銀白が揺れる。
真っ白な肌、金属光沢めいたドレス、そして麗らかな銀色の髪。
〈な……、え……!エ……!〉
その美姿は、忘れもしない、忘れるわけもない、間違える余地など一切ない、
そいつにとっての生ける悪夢。
〈エレノア・エメラルダス・アシュルブラン……!?〉
女はその名を聞いて、
「いいえ?」
冷たく細い笑顔を見せる。
「その姓は捨てました。ご存知ありませんでしたか?今は一人の“エレノア”、それ以上でも以下でもありません」
甘淫令嬢、或いは、淫涜の天幕。
「エレノア」の名は、デーモンの間で忌み嫌われて、
否、はっきり言って恐れられている。
50年ほど前、デーモン達がエリーフォンに、一大侵攻を仕掛けたことがあった。彼らは周縁都市の数々を破竹の勢いで攻め落とし、熟練の戦闘型ハイエルフも何体か手に掛けた。
敵の喉元、首都メガラルブスにも届くかと思われたその時、とある都市において彼らの軍勢は、たった一人の若きハイエルフに阻まれた。
“十苦鳴叫”と呼ばれる将軍格10人のうち、羊・ヤギ頭を含めた七命が攻略に参加して、うち六命が戦死。数週間後にやっと到着した、エリーフォン側の増援によって、囲い込むように叩かれたのが決定打となり、デーモン軍はほぼなす術なく敗走。
計画は、その計算外一つによって、完全に瓦解してしまったのだ。
あの戦線で、都市全体の魔導システムを完全掌握し、たった一人で運用することで、無敵の要塞生命と化していた、その神域の少女こそ、
誰あろう、エレノアその人である。
以来デーモン達は、エリーフォン陥落を目指す上で、彼女こそ最大の障害であると位置づけ、どうにか除く事はできないか頭を悩ませる、長い雌伏の時を過ごすことになった。
そしてその臥薪嘗胆は、つい最近になって実った。
そう、実ったのだ。
事態は解決した。
稀代の毒女エレノアは、〈死ん…!死んだんだろ…!死んだ筈だろっ!〉
体を傾かせながら、人差し指で女を差すデーモン。
〈ここで出て来て良い筈がない!お前は死ィッ!死んだんだから!〉
「何を言い出すのやら」、とでも言いたげな顔で、小首を傾げるエレノア。
「なんとまあ、そんなにも驚き、惑い、慌てふためいて……。御大層な図体に見合わず、案外お子様なのですね?」
そして手の甲で口元を隠し、黄色い瞳で蔑むことで、攻撃的な嘲笑を示す。
「悪魔ともあろうものが、お化けが怖い、だなんて」
出遭っては、いけなかった。
デーモンの内なる声が、そう嘆いているのが聞こえる。
50年前の戦闘において、その女に“罪餐”が通用しないことは、嫌と言うほど分からされていた。その反面、デーモン達の中で彼女のユニークに対し、有効な手札を持つ者は少ない。
七大神格の末節の中で、最もエレノアにカモられやすいのが、デーモンという集団なのだ。
〈なにがどうなって……!なぜ、ここに……!〉
100万歩譲って生きていたことまでは承ったとしても、どうしてここなのか、今なのか。よりにもよって、大きく消耗しているこの状況で、この女と遭遇するのか。
なんとか、しなければ。
「なんとか」とは?とにかくなんとかするのだ!でなければ——
〈いや!いいや!この状況!逆に!逆に好機と見る!〉
発想を転換する。
死を偽装して表舞台から姿を消していた彼女を、ここで運良く捕捉できた。
「騙されていた」という情報を得た。
そしてそのフェイクニュースを、真実にする機会を与えられたのだ!
〈あの時は都市型魔導術式と自律兵器群があった!今こいつは身一つ!丸裸も同然!〉
この女の首を手土産にすれば、今回の作戦の収支はプラスに転じる!
実績だ。実績だけが物を言うのだ!
〈俺は無能とは違う!俺は十苦鳴叫が一命!“模虞裡のカクォール”!成功し!勝利する!今度こそ!〉
全身から獣の頭を生やし、黒いマナの塊を発射。
それと共に飛び掛かるカクォール。
だがエレノアが、再び艶めく喉を奏でた。
その一謡で灯りが瞬き、全ての運動が鈍っていく。
デーモンも、そのマナエネルギーミサイルも、上から同時に叩かれたが如く、ガクンと床に落とされて、一部はそれでも彼女に到達したが、
「矢張り“睡眠欲”では、即効性に難あり、か」
片手を振られただけで、呆気なく弾かれてしまった。
薄闇に撒かれる黒い光粒子の乱散は、妖精達が上げる微かな花火の如く。
カクォールともあろう者のマナが、手袋一枚破れない。
〈生存……、残存への欲求……!その暴走……!〉
そいつ自身の体が、睡眠を強要してくる。「生きる為に」、という本能をハックされて、意識を強制シャットダウンしようとする。当然、マナの遠隔操作や、精神によって高められた破壊力も失われ、大きく衰えてしまう。
疲労が蓄積している現在の状態では、より覿面に効いてしまっている!
〈くおおおお……!〉
片手を反対の手の指で貫き、眠らないよう足掻くカクォール。
エレノアはそいつへ、親指、人差し指、小指を立てた両手を向けて、
「ばん」
楽しそうでもない棒読みで、
「ばん、ばん」
おざなりな連続発砲擬音を口にする。
彼女の後ろ髪が、いいや、よく見ると銀白のマナエネルギーで作られた、髪を模した攻撃が、デーモンの四肢、腹や胸、首から頭へと次々に刺さる。それにより〈“潜罪威式”!〉
カクォールが反撃の糸口を掴む!
〈失態だなあ……!自分と繋がっているマナを、この俺に触らせるなんてのは……っ!〉
相手のマナを侵蝕し、己がものとする。
それを通し、魂に接続し、五感までをも掌握する!
〈ハイお前は俺のものォッ!〉
ぱぁんっ!
カクォールの脚が弾けた!
〈バカなァーっ!?〉
髪を刺された部分が、下から順に破裂していく!
「助かりました。お前の方から、私の中に入ってくれて」
〈なぁ…っ!?〉
エレノアの無意識領域内に広がる暗闇の中で、双つの威圧的な斜陽が彼を睥睨する。
否、それは下目蓋の向こうから覗く、彼女の冷淡な蔑視であり、つまり悪魔は見下されているのだ。
「お蔭様で、我が“甘声濫色”の出力を、遠慮なく上げられる。外に漏らさず、自分の内側でマナを操るのは、得意ですから」
〈………!〉
カクォールはそこで、そいつが最初に「睡眠欲」という、最も攻撃性の低いモードで戦っていたのか、ようやく気付いた。
服に擬態していた、あの特殊なスライム。あれを殺さない為だ。
愚かなデーモンは自分から、巻き添えの心配のないテリトリーへと、喜び勇んで飛び込んでしまったのであり、それによりエレノアは、致死性を高めることを遠慮しなくなって——
「お前にとっては、甚だ“不運”と言わざるを得ませんが、」
彼女はもう、威圧の笑顔を作る手間すら、惜しんでいた。
「私は今、大変に機嫌が悪い」
敵の脳に破壊が回るところを、鉄仮面めいた無表情で、ただ観察しているだけ。
「お前の座興に付き合う気など、毛頭なかったわけです」
カクォールは焦った。
このままでは、そいつの君主にとって不都合な状況になってしまう。
エレノアが生きていることが、また隠されてしまう。
何かメッセージを、他のデーモンに届けなくては。
何か、残さなくては。
「ずきゅーん……」
その想いが却って、エレノアのユニークの効力を高め、体内のマナの暴走が加速。
その身は高熱と爆風によって、液体に近い状態に変わりながら、
ノームの坑道のシミとなって果てた。




