56.“最悪”を見ろ
「僕は、違うよ」
まず思い出すのは、懐かしくも激しい黄日と、照らされてなお昏い紫紺の空。
それらから彼女達を守る屋根のように、青緑を茂らせる生命の祭典。
まるで色彩の海……「海」というものを見たことはないけれど、命で一杯になった広い場所のことらしいから、きっとその言い方で合っているだろうと、彼女はそう思っている。
濃密な気配に満ちて、孤独とは無縁となったその場所で、姉と共に駆け回った日々によって、その背中をただ夢中で追いかけることの、楽しさと安心感を知った。
思えばあの頃から、彼女は守られていた。
それが幸せだった。
その揺りかごの中で、ずっと眠っていたかった。
姉もきっと、それを喜んでいるのだと、今まで疑いもしなかった。
互いに自分の好きなポジションを担当して、どっちも嬉しい役割分担。
凸と凹がカッチリ噛み合う心地良さ。
だから、自分を守ってくれる誰かを、姉と同じように慕うのも、自然な成り行きだったのだろう。
彼女より、今まで見たどんなものよりも弱くて、でも誰かを助けようと、守る側で居ようとする“彼”は、だから姉以上に、その立ち位置が好きなんだろうと、最初はそう考えていたのだ。
けれど——
「違、うんだ。そんなんじゃ、なくって……」
「守る者」としてのモチベーション、その根源について訊ねた時、彼は心外であるかのように、首を振った。
「本当は、分かってて……その、でも、見ないフリ、してるんだ。ぼ、僕が居ない、関わらないのが、いいことの方が、多いんだ、って」
やりたくなかったと。
たまたま状況に恵まれていただけで、本当はやるべきでなかったと。
「誰かを、守るとか、戦うとか、できる人って、す、すごいって思う、けど、僕は——」
——向いてないんだ
彼はそう表現する。
「そういうこと、怖いし、痛いし、何より、僕みたいなのが、へっ、ヘタに触っても、問題を…悪化させるだけで……、だから、やりたくないんだ」
けれど彼は、彼女の家族を2度も助けた。
その体の全てを、彼女達の為に使おうとまで、言い出している。
「それはだから、に、逃げてる、んだ。怖くて、痛いのも、みんなに、迷惑かけるのも、厭なのに……、苦しんでる人に、何かできそうな時に、何もしないってことの方が、もっと……うん、そうだ、『厭』ってだけなんだ」
忌避を感じ、一目散に逃げて、逃げて逃げて逃げて、その先で気が付いたら、誰かを守るような立ち位置に、たまたま就いていたらしい。
そこもそれなりに「厭」なのだが、そこを放棄する方がもっと「厭」で、だから離れるに離れられない。
「僕は、自分にっ、自分にとって、最悪なことを、遠ざけてるだけで……えっと、自分の満足に、納得に、周りを、付き合わせてる、ってことで……なんて、言うか……うー……自制心がない、わけで……」
「だから、君達を助けたんじゃない」、「感謝されることじゃない」、そう言われても、彼女にはそれの何が悪いのか、分からなかった。
自分の為に生きるなんて、当たり前だ。
自分が満足したいから、ブリュネはヘルブラの前に立って、ヘルブラは彼女に守られて——
突如として、ある疑惑が鎌首をもたげた。
ブリュネは厭じゃないのだろうか?
青緑の中を奔放に泳いでいた彼女は、幸せそうに見えた。しかしあの時は、彼女を庇護し、導く大人達が居て、その許で明日を目指していた。残飯組の先頭に立つのとは、まるで状況が違う。
ブリュネは自分が立てる中で、「最も厭じゃない」ところを選んだ、の、かもしれない。別の「厭」を噛み殺して。対するヘルブラは、ずっと「誰かの後ろ」に居続けて、それより外を想像もしなかった。
自らを襲う辛苦の正体を、彼女は初めて直視する。
彼女にとって「一番厭なこと」が、ずっと目の前で起こっていた。
だけれど彼女は、「厭」を分類することができず、もっとマシな「厭」も含めて、一括りに拒絶した。
挙句、「一番厭なこと」は終わらず、それをどうにかする手立ても見出せず、「どうにもできない」と不貞腐れて、何も解決することができていない。
虫歯に泣く自身の気持ちを、「痛いのが厭なんだ!」と理解して、「痛いこと」全てを追い出そうとして、「歯を削ること」ができなくなるという、自縄自縛。
削り取られる痛みを一度だけ引き受けることで、「慢性的に痛めつけられた末に歯と顎を溶かされる」という最悪を回避する、という当然のトレードが見えなくなっている状態。
「虫歯が残る」ことが「最悪」である、という切り分けと優先順位付けをせず、「痛いことが絶対に悪い」なんて大雑把な正義を設定したから、そんなことになったのだ。
この世は「いい」か「ダメ」かの二極ではない。
「少しでもマシにする」、「少しでも良くする」、そうやってみんな生きているのだ。
ちょっと何かがダメだったからって、全てを諦めるのは、賢さなどではない。
それはただ、「諦め」という甘い誘惑に、屈したに過ぎない。
ブリュネは諦めなかった。
ユイトだってそうだった。
なら、ヘルブラは?
彼女にとって、最も「厭」なことは何か?
自分を守ってくれる誰かの後ろに居ること、それが彼女の幸せ。
「守られる」立場を捨てることは、だから「厭」なこと。
ではそれが「最悪」か?
それだけはなんとしてでも回避したいのか?
そうではないなら、
もっと避けたいもの、守りたいものがあるなら——
ぽん、ぽん、ぽん、
「ん、ああ……っ?」
「なんだあ、コイツ……!?」
ヘルブラを取り押さえていた巨漢達の体を、冷やかな違和感が這い登っていく。
掌から血液を吸い取られているように。
ぽん、ぽぉん、
彼らのツノが、その振動を知覚する。
コロコロと叩かれる小太鼓めいた音色が、彼らの骨身に沁み渡る。
「わかった……!」
自身の何倍もの荷重を押し返し、徐々に頭を持ち上げるヘルブラ。
「わかったよ、ユイト……!こういう、こと、だったんだ……!」
その全身のラインが、ポプラーが、青く色づいていく。
「本当に、イヤなことがあるなら……!イヤな方へも、進んで、いける……!」
その髪の色と同じく、淡い水色に輝いていく!
「恐くても、痛くても、体が勝手に、動く……!」
ぽぉぉぉぉん……っ!
「ウォああああ!?」
「ぽっ、ポプラーがっ!?」
「オサああああ!オイラのシールドがぁっ!オサああああああああああ!!」
「なに、してやがる……?」
理解出来ない事態に対し、長はただ訊くことしかできなかった。
巨漢達のポプラーが、その身が朽ちようとも構わずに、マナエネルギーをヘルブラへと供給。ヘルブラのポプラーが、それを吸って光量と面積を増していく。
小玉のリンゴが大玉達を細く剥いて、自身の皮として着なおしているようだった。
「ポプラーを……、吸って、るのか……?」
そこで起こっている事象は、実質的にそういうことだった。
巨漢達の身ぐるみが剥がされ、全てがヘルブラの物となったのだ。
彼女の表皮のほぼ全域を覆ったポプラーラインは、一定の図形を作ることで魔導術式を構築。
雷の如き瞬間的な極限発光を見せ、「「「ウアアアアッ!!」」」周囲の巨漢達を弾き飛ばした!
「私が、イヤ……なこと……!」
シンプルだ。
シンプルになるまで削ぎ落とせ。
「最悪」とはなんだ?
「一番厭なこと」とはなんだ?
「いなくなること……!私を守ってくれた、かけがえのない人が……!」
それを防ぐことを考えろ。
彼らを守ることだけを考えろ!
「ユイト……!」
——や、やった……!
「私に、勇気を……!」
どうしてか、彼のことを考えると頑張れる。
これから踏み出す先が、どれだけの地獄だったとしても、どんなに間違っていたとしても、
彼みたいな人が、存在できている、
その奇跡を思い出すだけで、歩く力が湧いて来る!
「みんなで、生きるんだ……!」
ぽぉん!
また1度、彼女のツノが鳴り、それを契機に腕のポプラーが胞子を散布。
巨漢の一体が持っていた大型削巌匙に付着させ、その表面を青いラインで覆っていく。
ぽんっ!
ヘッド部分が彼女の上半身より広いそれを、シールドの反発力を利用してジャンプさせ、両手にガッチリ掴まんでから、背後に振り上げる構えを取ったヘルブラ。
巨漢の一人が横合いから殴り掛かってきたところを、薪のように叩き割った!




