50.芽生え
「むかつく」、
初めにそれを見た時、最初に頭の中で出た言葉が、それだった。
「ずるい」、
共に日々を過ごすようになって、育っていった情緒が、それだった。
それはきっと同族嫌悪だと、顧みたヘルブラはそう分析する。
弱くて、臆病で、だから流されるしかできない。
人との触れ合いを恐れ、関係を変えることに怯えて、傷つけたくない以上に、傷つきたくない。
一言発するというだけでも、毒の大気の心配をしながら、窪んだ空洞に飛び降りるのと、同じくらいの勇気を要する。
彼女がそうだったから、彼もそうなのだと、そう思ったのだ。
そいつが吐き出す音がどれもこれも、いつも内から感じている、“小心者の周波数”に、酷く近似していたから。
彼女がやっていることは、矛を収めて耐え忍ぶような、殊勝な生き方ではない。何かを主張し、決断し、命令し、侵害するという、生きる上で必須な精神的コストを、別の誰かに、主にブリュネに押しつけているだけ。
グラウが言った「ジマンできること」を、彼女は持っていない。ただ姉に言われるがまま、唯々諾々と従うだけ。
「私が言ったことじゃないし、失敗したとしても私のせいじゃない」、「私は言われたことを真面目にやってるから、何かあっても言った方が悪い」、そんな予防線を常に張っている。
心が寄り掛かる先として、ポプラーという共生者達が選ばれたのも、痛いことから守ってくれるし、文句があるとしても表明できない、と、そういう身勝手な理由から。
自分の外側と関わる時、一方的にズルい接し方しかしていないと、彼女はどこかで自覚していたのだろう。
そこに巨磐どもから下げ渡された、不思議な見た目の生き物。
それが、彼女の罪悪感を強烈に思い出させる、鏡のように機能した。
だから、「むかつく」のだ。
こちらの言う通りに動き、理不尽な境遇も受け入れる。
それは、そいつがそうすると決めたのではない。何も出来ないから、決めることからすら逃げただけ。
決めた上で真摯に試みて、でも出来なかったとする。その先にあるのは、自分の無力無能との直面と、絶望だ。だから、「やってないだけ」、「言われたからやらないだけ」、「真面目だからしないだけ」と、そういう顔を作るのだ。
善良で、理性的で、悪とは無縁だから、行動しない、なんて、慰めの誇りを振り翳して、満足していると自分に言い聞かせる。
彼女の苛立ちは、そいつの中に己を見てしまったから。憎めば憎むほど、その火は彼女自身を焼いて、憎しみを余計に悪化させるという、負の循環。
しかもそいつは、自分の善性を本気で信じているように見えた。
自身の欺瞞からどこか逃げきれない彼女と違って、夢を見続けている。逃げ場所が無くなるほど、現実に追い詰められたことが、無かったとしか思えない。
だから、「ずるい」のだ。
だから、攻撃したのだ。
そいつが自分より惨めで、無能で、絶対に勝てない。それを確認することで、自分とそいつとを、切り離そうとした。
似ているところはあっても、そこには明確に格差がある、という実感があれば、そいつへの悪感情が、自分に返ってくることもなくなる筈。
劣等感が刺激される度に、彼女は“鏡”を踏みつけて、「そこに映る自分は、本物の自分に逆らえないのだから、こっちの方が上等だ」と、幼稚な主張を繰り返した。
まあそれも結局、ブリュネがやったことへの便乗だったのだが。
——なのに、なんで、この人は……
力を掛けたらあっさり凹みそうな、彼の胸板に顔を押し付けながら、彼女は頭を冷まそうとする。
全ては思い上がりだった。
見当外れだった。
似ている?何を馬鹿なことを言っているのか。
彼は、彼女とはまるで別。
彼女が守れなかった家族を、彼は助けてくれた、助けることができた、という、表面的な成否や能力の問題ではない。
グラウの命を救い、彼とブリュネの争いを止める、それを為したものの本質は、彼が持つ高い知能ではない。
身を捨てるような利他の心。
利己的になれないが故の言い訳ではない、本物の他者尊重。
ヘルブラが彼の立場なら、手段を思いついたとして、教えたりしない。
自分のアイディアのせいで失敗するのは怖いし、誰かの為に痛い思いをしたくないし、何より彼女の場合は、虐待を受けたことを絶対に根に持つ。
あそこで彼が、彼女達を必死に助ける、そのことで得られるものなど、何もない。
「やさしさ」だとか「おもいやり」だとか、そういう絵空事の実在を仮定しない限り、説明できない。
きっと根本から、人格が違っている。
彼女との差異という観点で言えば、行動原理が理解の範疇にある分、巨磐どもの精神構造の方が、まだ近いと言えるだろう。
——みんなのポプラーに、僕の血を吸わせるってアレ、やろうよ
なんでそんな、「良い考え」みたいに言えるんだ。
チビ共にさえ伝わるほど、怯えているのがバレバレな顔で。
顔面の筋肉の運動が作る凹凸が、影を作って強調されるほどに、歪められた表情で。
彼は、分かっているのか?
あの時、どれだけ異常な雰囲気を醸していたか。
その様子に周囲が、どれだけ恐怖していたか。
「恐怖」、恐怖だ。
本気で言っていると分かるからこそ、彼女達の安全の為だと伝わるからこそ、恐ろしくてたまらなかった。
この人は、他人の為にどこまでやれてしまうのだろうか?
こんな破綻した生物が、有り得るのか?
強くないのに、
彼女達と比べてすら、苦痛に弱いと言えるほどなのに、
力を掛けたら、楽な方ではなく、相手を労わる方へ転がるのだ。
理解できない。
こわい。
恐いと、思っている、その筈だ。
けれど彼女は、そんな彼に近づこうとしている。
理性の壁をぶち抜いて、彼女の無意識がそうさせている。
もっとよく見て、触れて、知りたいと、たぶん、そう思っている。
——ありがとうね、僕に、笑った顔、見せてくれて
「笑顔」?彼女は、笑っていたのか?
自分がまた、まともに笑える日が来るなんて、思ってもみなかったほどなのに。
ヘルブラも知らない、彼女の本心。
彼が必要だ。
彼が欲しい。
彼と共に、幸福で居たい。
彼女の勝手に動く体が、思考に先立つ行動が、それら魂の声を代弁していた。
頼れる大人を殺され、搾取されてきたから、誰かに守られ、寄り添われることに、免疫が無かった。だから彼に、父親を求めているのだろうか?辛い夜は抱きしめてくれて、生まれてきたことを肯定してくれる、そんな庇護者になって欲しいのか?
ところが彼女は、彼の申し出を断った。否、黙らせた。
彼を痛みや苦しみから守りたいと、そういう気持ちの表れだった。
苦悶に満ちた貌を、もう彼にして欲しくなかった。
それは、受難を全て受け止めて欲しいという、上位者にぶら下がる子ども心とは、また違うもののように、彼女には思えた。
だとしたら——
これは、“そう”なのだろうか?
「平和な楽園」と同じように、おとぎばなしの中にしかないと思っていたもの。
人が人を想う気持ちの、最上位。
これが、“そう”なのだろうか?
よりによって、あんな人相手に?
水晶玉が見上げる青い月みたいに、自分からかけ離れたあの人を?
ヘルブラには自分が分からない。
ただ、全部が不明瞭なわけではない。
彼女にとって、最も特別な一瞬。
それは、目を瞑ればいつも、目蓋の裏に投影される、あの時のこと。
——や、やった……!
彼女の大切な姉が、後戻りできなくなりそうなところを、
彼が身を挺して止めてくれた、その瞬間に見えたもの。
いつも張り付いていた怯懦と卑屈が、さっぱりどこかに消えてしまって、
混じりけも憂いもなく、100%の喜色に染まった、ユイトの笑顔。
どうやらそれが、彼女の宝物になったようだった。




