34.憂鬱の天幕
繋ぎ留めなければならない。
ユイト・クロキという男は、放っておけばいとも容易く、
冥府へ、死者の地へと堕ちる。
肉体が滅びずとも、少し力を加えてしまえば、彼は人として壊れてしまう。
いや、それとももう、ほとんど壊れかけているのか。
だからこれほどに、危ういのだろうか。
内臓を掻き混ぜられながら、思索を巡らせて前に進んだ彼。
怯え切った子どもの顔で、指を食い千切り、圧倒的な強者へ飛び込み、意識あるまま噛み砕かれることを選んだ彼。
突き刺す病に腕を喰わせ、体がバラバラになること承知で、高きから身を投げた彼。
目の前の異種族の苦しみを、ただ見ているのが忍びなく、その肉を分けることにした彼。
それらは、誰よりも勇敢なる者の、英雄的な所業だろうか?
違う。
問題は、彼はある意味で“弱い”少年なのに、ちっぽけな常人の感性に閉じ込められているのに、肝心な時には動けてしまう、というところにある。
近くで眠ることを許してから、分かったことがある。
彼は毎夜、うなされている。
ペイルが作った獣毛の寝袋の中で、汗だくになってのたくって、時には悲鳴と共に跳ね起きる。
「地球」という世界での過去も混ざっているだろうが、大部分は戦いの記憶によるもののようだった。彼にはあの一戦一戦が、強烈な体験として刻まれているに違いない。
当然なのだ、そんなことは。
彼が戦いどころか、身体的な重傷から遠い生き方をしていたなんて、日に焼けていない肌や薄い体を見れば分かる。
そして肉体は、常にその状態にロールバックするのだ。
頭が身構えることが出来ても、体は痛みに敏感なまま。
致命傷を受けるたび、新鮮な業苦が彼を襲って、その魂に刻み付けられる。
そしてそれらが、入眠時の記憶の整理の際、入れ替わり立ち代わり、表層意識に浮上してくるのだ。眠りが深くなることさえ一苦労。不眠によりマナ処理能力が不全となり、固有魔導と呼吸の同時停止で死亡する危険さえある。
これでは、持たない。
怖ろしい体験が増えるだけ、不死身の筈の彼は、滅びに近づいていく。
生き延びるには、痛みを重大なものと思う、これまで通りの“人らしさ”を、捨てるしかなくなるだろう。
その、死と比肩し得る“不可逆的な変化”は、彼の生物的本能を、常に震え上がらせている筈。
なのに彼はまた、延々と脳の一角を占領するような苦しみを、自ら足そうとしているのだ。
他者にとって有益そうだからと、自分の口から軽々しく言い出すのだ。
それでいて、実行中に快感を得ているかと言えば、そうでもない。
だからそれらは、純然たるマイナスの集積として、彼を圧迫する。
そして彼自身が、その負荷を加速させているのだ。
彼なりの信念に基づいているのだとしても、度が過ぎている。
今まで“ユイト”という人格が保たれていたのは、奇跡に近い。
彼女の夢に不可欠な少年は、飛びながら交尾で寿命を使い切る羽虫の如く、自然励起したマナ光球の如く、あっけなく自壊するのが関の山な、儚い存在だったのだ。
エレノアは、彼の半生に思いを馳せる。
彼が生まれてから、16年と少し。
彼女からすれば、ほんの短い時間。
その間に何があれば、こういう魂の形と成るのか。彼女には想像も及ばない。
彼のこれまでの体験を、聞いてみれば分かるのか。
だが彼女がそれを試みれば、それこそ決定的な崩壊を、引き起こしかねない。
人の気持ちを想い、寄り添い、守り、癒す。
それをしようとする自分を思い浮かべ、エレノアの顔に、泣きたくなるほどの嘲りが彫り込まれる。
同じハイエルフの社会の中でさえ、感覚や心情をチューニングできず、周囲と適合しきれなかったのが、彼女なのだ。そんな高度なこと、できるわけがない。
彼女には、これまでずっとユイト相手にそうしてきたように、傷つけ、押さえつけ、脅し、乱し、壊す以外に、コミュニケーションの形などない。
彼と彼女は、奴隷と主人、小人と上位者、カエルとヘビ。
彼は今、彼女に忠誠を誓っている。
それは、エレノアという脅威に曝され、恐怖、危機感に襲われたユイトが、それらがあまりにも重大であるが故に、「これは崇敬なのだ」と錯覚しているに過ぎない。
史上初めて雷を見た者が、そこに大いなる存在を感じ、ひれ伏したのと同じこと。
と言うより、彼女がそう仕向けたのだ。
エレノアは下僕に、「彼女こそが当然“上”なのだ」と、そう思わせることに腐心してきた。インパクトを与え、プレッシャーを掛けることで、好悪を力づくで転倒させる、そんな手法を取ってきた。
ほどほどに壊して、対象の自己治癒の方向性を誘導し、思いのままの対話相手を作らせる。それが彼女のやり方。
雪の花の如く脆いユイトの核に、そんな手では触れたものではない。立体迷宮めいて神秘的な構造が、指の上のシミに変わるのがオチだ。
実際、彼女は彼を思いやれていない。
「石や泥を食ってみる」、「武器を呑んで破壊する」、そういったことをやらせたくないなら、「己を意図的に傷つけるのをやめろ」と、命じればいい。自虐的な戦い方をしないよう、約束させればいい。彼はそれを、忠実に守ってくれる筈だ。
だが、彼女は飽くまで、あの場での試行のみをやめさせた。
「役立つ可能性は確かにある」、その合理性が、完全に禁じる言葉を、彼女から奪った。
彼女はただ、ユイトという少年を、利用しているに過ぎない。
「彼に理想の世界を捧げる」、その大願だってそうだ。
他者の心を掴むという生存戦略の為に、心身を全霊で磨き抜いて輝かせるほど、忌むべき体質もまた殺傷性を上げていき、敵視されやすくなるという逆説的存在、それが彼女。
不死身である彼が、そんな女を世界ごと受け取ってくれるなら、その呪われた運命も、頭から報われる気がするというのが、エレノアの希望の根本だ。
「彼の為に生まれた」、そう言い切ることができれば、存在が赦される気がする、だなんて。彼の意思など関係なく、自らの欲望の受け皿として、一方的に定めているだけ。
無理に情を交わすのと、精神性はほぼ変わらない。
くれぐれも勘違いするなと、エレノアは強く自戒する。
彼女は優しくなどなっていないし、彼の為になど生きていない。
そうしようとしても、出来ない。
彼の傷害と真摯に向き合い、それを治癒する役など、果たせない。
そんな「善き人」の行いなど、彼女の手に余るもの。
真似事をしても、「破壊」という結果だけが残る。
ユイトはエレノアの期待に応えてくれる。
けれどエレノアは、ユイトに新たな傷を増やすことしか、できないのだ。
だが、それでは、どうするべきだろうか。
彼女が彼から奪うだけなのだとしたら、ユイト・クロキは早晩失われてしまう。
それではいけない。
いけないが、では、どうするのか?
淫涜の天幕エレノア。
やり過ぎた、或いは届かなかった己に腹を立てたことは、数知れず。
けれど未だかつて、手札が皆無であることを、ここまで呪った日々はなかった。




