29.人でなし
「緑川先生に言われたのよ、『集中力が無い』って……」
何か大きな音を聞いた気がして、目が覚めた。
外はもう真っ暗で、僕は一人、布団の中。この時間に激しい物音なんて、鳴るだろうか?
怖くなった僕は、お父さんとお母さんを探して、そっと子供部屋を抜ける。
夜の闇のなか、何か、恐ろしいものが潜んでいると、そんなことを思った、ような気がする。だから抜き足差し足で、そろりそろりと音を殺しながら階段を降りて、1階の灯りが点いていることに、そこで気付いた。
両親だと思わせて、怪物が待ち伏せているとでも、思ったのだろうか。それとも、室内で張りつめている、重々しい空気を感じ取ったのか。
何を考えたのか、僕はスライドドアにそっと隙間を作って、中に居る誰かに気付かれないよう、覗き込んでいた。
そして、リビングの先、ダイニングテーブルでお父さんとお母さんが、向き合っているのを見た。二人とも悲しそうな、深刻そうな顔をしていた。
「授業中は落ち着きなくキョロキョロキョロキョロして……、給食の時も欠食児童みたいにがっつくって言うのよ?」
「うん、うん……」
「おやつまであげてるのに、『お家での食事は足りてますか?』って聞かれるの!あの子もあの子で、注意しても全然食べる量が減らない!何度言っても食生活が良くならないの!それで私が虐待してるみたいに言われるの!」
「うん、そうだね、君はいつも頑張って、よくユイ君のことを見てくれてるよ……」
お母さんが叫ぶように吐露して、お父さんが一生懸命に宥めている。二人をそうやって困らせている問題、その原因が自分にあるのだと、聞いていてだんだん分かってきた。
僕がお母さんに、涙を流させているのだと。
「あの子ももうすぐ中学生よ……!なのにまだ子どものまま!藍沢さんのお宅の美玲ちゃんなんか、同い年でもあんなにお行儀が良いって言うのに!私だってあのくらいの年齢の頃は、もう分別が付いてたわ!」
「そうだよね、うん。ユイ君はちょっと成長が、遅れてるかもしれないね……」
「いつまで、いつまでああなの……!?いつまでも、あのままなの……!?」
キン、キン、と頭に響く。
脳ミソを万力で潰されるような、その金属質な痛みは、僕がお母さんに与えている苦しみが、そっくり返ってきたものなのだと、そう思った。
「せっ、先生にっ、言われたのよ…っ!あの子っ、あの子は病気かもしれない、って……!」
その時初めて、僕は自分が異常なヤツなんだと知った。
そんな出来事があるまで、自覚なんてまるでなかったことが、僕には常識も良識も欠如している、その何より確かな証拠だった。
「私、わたし、どうしたらいいのか分からなくなって……!」
「そうだよね、うん」
「どうしたら、わたし、わたしこわい……!」
「大丈夫、君は一人じゃない。僕が居るじゃないか」
お母さんはとうとう泣き崩れてしまった。
お父さんは席を立ち、お母さんの背中に手を回して抱き締める。
「わたし、わたしこれ以上、どうしたら……!」
「分かるよ。分かってる。君が頑張ってるのは、ちゃんと分かってる」
僕は知らない間に、二人をあんなに追い詰めていた。
その事実が、細く差し込む光に質量を持たせ、僕の全身を圧し斬った。
「ユイ君だって、いつかは分かってくれる。君の愛も、ユイ君に伝わる時が来る。そうしたら、病気だってよくなるさ。ちゃんと良い子になってくれるよ」
僕は、他の人と同じではない。
そしてそのズレの根源は、僕がお母さんを大切にしてないところから、来ているのだ。
お母さんは僕を愛してくれている。他の子だったらそれさえあれば、食いしん坊も治るし、勉強だって得意になる、らしい。
でも、僕はそうじゃない。
人間にとって、「愛」が何より大事なことなら、
それを正しく受け取れず、正しくお返しできない僕は、
世界で一番の「人でなし」だ。
苦しくなった。
心臓も胃腸も一緒くたに、雑巾絞りされてるみたいに。
あんなに僕の事を想ってくれている人達に、真剣に愛してくれる人達に、僕は何もしてあげられないのだ。どころか、苦しめてしまうのだ。大切にしてくれた人ほど、傷つけてしまうのだ。
それから、治そうと僕なりに努力してみた。
みんなと同じに、関わっても人に危害を加えない普通の人に、なりたかったから。
——嘘つけ、この無能が
「努力」なんて、やった気になってるだけだろう。
だってお前は、何も良くなってない。
いや、却って悪化している。
僕が頑張ったとか、成長したとか、成し遂げたとか、そんなの、勘違いだ。
あの時だって、そうだったじゃないか。
「理由!言え!猿の子ども!」
人間より少なくて、三角形頂点の並びで生える、黒い指。
それに首を絞められて、地に足がつかないほど、持ち上げられている。
「天!我ら!祝福する!違うか!」
「あ……、あが……!」
「我らドワーフ!この戦い!勝つ!違うか!」
「お……!あ………!」
金属光沢を持つプレートや装身具を纏い、円形の模様を四つ、額に並べた二足歩行の蟻。
ドワーフのビョークさんだ。
いつもこっちが困るくらい恐縮していた彼は、表情が読めない複眼に怒りを燃やし、僕を持っていない2本の腕で、背中に背負ったピッケルみたいな武器を取り、振り上げる。
「言え!約束!何故破る!言え!」
「やめろ!」
ビョークさんの後ろから、もう一人のドワーフが、羽交い締めのように押さえ、僕から引き剥がす。
額の模様が、バツ印型に交差した楕円二つとなっている、ロズさん。僕がここに居る間、ずっと話し相手になってくれてた人だ。
「やめろビョーク!ユイト、俺達、助けた!」
「だが、嘘吐いた!偽った!紛い物見せた!砦、落ちる!我ら、負ける!」
「吐いてない!偽ってない!見せてない!俺達、勝手に信じた!ユイト、天の意志、騙った事ない!」
口論している二人を前に、僕は腰を引いた三角座りで、小さくなってることしか出来なかった。「上手くいってる筈だったのに」、「役に立ててる筈だったのに」、未練がましくそんなことを考えていた。
「だが、じゃあ、こいつ、なんで、なんで此処、落ちた!我ら勝つ為、違うなら、なんであの時、ここ落ちてきた!」
「希望の為!皆、希望貰った!天の為、正しきの為、死ぬと信じた!信じれた!誇り持った!笑って死んだ!ユイトのお蔭!これ以上、なに望む!」
何を失敗したんだろうか。
どうすれば良かったんだろうか。
僕は、僕を保護してくれた人達に、少しでも何か、恩返しがしたかった、それだけだったのに。
「女王、死んだ。俺達、数、少ない。クイーン、もうなれない。俺達、負ける!ユイトもう、ここ居る意味、ない!解放する……!」
ロズさんはビョークさんを突き飛ばし、僕の足枷を解こうと体を屈めた。
その背後で、鎌のように尖った鈍器が振り上げられる。
「……!」
声が、出なかった。
役立たずの僕は、声帯まで能無しで、優しくしてくれた人に、危険を報せる時ですら、機能してくれなかった。
茶褐色の液体が撒かれ、見開いた目に直接浴びせかけられる。
視野の半分が、錆びた鉄の世界を映していた。
「……!お前……!」
ビョークさんはピッケルを取り落とし、円形広間の唯一の出入り口へ、
「お前、来たから、おかしくなった……!」
ロズさんの遺体を引き摺りながら、後退る形で消えていく。
「お前さえ……、お前さえ、現われなかったら……!」
僕さえ、いなければ。
僕は、何をしてしまったのか?何が出来ていなかったのか?
僕の力が、行動が足りなかったのか。
それとも、余計なことをやってしまったのか。
僕は、
僕は呪われているのか。
僕は結局、最後まで膝を抱えて、丸くなっていた。
その置物は、ドワーフのみんなが皆殺しにされて、ダークエルフやリカントが踏み入ってくるまで、そのまま動かなかった。
僕はこのセラに来て、あの人達に手を貸して、マシな人間になった気でいた。
誰かの命を助けられてる気がして、一歩先に踏み出せたと思っていた。
でも、それが失敗したら、何かが間違っていると分かったら、動けなくなった。
考えがすっぽりと抜け落ちて、痛みと恥に支配されて、被害を更に拡大させた。
覚悟が、出来ていなかったのだ。
自分のミスにショックを受けた時、クヨクヨめそめそするより前に、目の前の問題に立ち向かう。それは、行動する時点で、「これは間違いかもしれない」、という覚悟があるから。
僕には、それがなかった。
勇気だけ出して、「やり遂げた」って満足して、だから肝心な時に、ただの害悪と化す。
おじいちゃん、
おじいちゃんは僕を、「勇気はもう合格だ」って、褒めてくれたよね。
でも僕は、
僕に、覚悟なんて出来るのかな。
普通みたいに、愛することすらできない僕に、
人並みの覚悟を持った決断なんて、
物事の重みを理解した上で、それを背負うと心に決めることなんて、
僕には、出来ないとしか、思えないんだ。
僕は、居ない方が、良いって思うんだ。
不死になんて、なりたくなかった。
自然な流れで、誰も悪くないって形で、死にたかった。
病気とか事故とかで、あっさり居なくなって、
誰の重荷にもならなくて、誰にも憶えられない、
そんな死に方を、したかったんだ。
でもまた、今日もこうやって、太陽が昇るところを見ている。
セラの黄色い太陽が、山脈の向こうから覗くのを、
緑の原に横たわって見ている。
太陽は僕から見て、右へと広がっていき、
芝生は優しく、頭の重さの分だけ沈めてくれて、
あれ、でも、
僕の顔は地平線へと向いているのに、後頭部が大地に抱き締められてるのは、なんでだろう?
って言うか、他の部分はそうでもないのに、頭の回りだけ、クッションみたいに柔らかくて、温かくて、それに……そうだ、セラの空は、こんなに明るい色をしてなかった筈で………
やけに目に優しい陽光に、思考を溶かされて呆然と見つめていたら、
ぎゅう、と、
その形が下から押し上げられ、弓なりの孤に近くなる。
「よく、眠れましたか?」
エレノア様の声に、鼻の頭を撫で下ろされて、
そこでようやく、彼女に見下ろされていると気付く。
僕は今、仰向けに寝転がっているのだ。
「えっ、れのあさま……っ!」
彼女が生きている!
意識がハッキリしてきたことで、間欠泉みたいな喜びに打たれる。
「どっ、どこか、痛かったりとか…っ!あのっ、ペイルさんも、来てるんで、すぐに…っ!」
それに押し上げられるがままに、上半身を起こそうとして、
「こぉら、安静に」
だけど頭と胸を、流れるような手付きで押さえつけられる。
そんなに強い力じゃないのに、それだけで動けなくなってしまった。
その手がくれる安心感、頭を包む深さ、彼女の密やかな声、それら全てに籠った優しさが、僕の中身を吸い取ってしまう。
って言うか、彼女が真上から見ていて、だけどその手が寝ている僕の頭に届いて、しかもこの、脳幹を後ろから、蜘蛛の巣みたいに粘っこく捕らえる感触は——
「ひざまくっ「休みなさい、と言いましたよ?」ハイ」
ぴしゃりとした声色に額を叩かれ、脊髄反射みたいに従ってしまったことで、心地が良いのに居心地が悪いという、不思議な状態から抜け出せなくなる。
「あの、えっ、エレノア、様……」
「なんでしょうか?」
「僕その、もう体、あぁー、大丈夫なんで……、えっと、ほら、不死身、ですし……」
「そうですか」
「え、あ、はい……え……」
「それで?」
「それ、で?……いや、いえ、僕、起きます…っ!僕より、エレノア様の、体の方が……!」
「ダメです。と言うより、イヤです。そのままでいなさい」
「ぇぁあ……?は、はい……?」
慰撫するみたいな、慈しみの籠もった両手の動きに、またしても目蓋が落ちてきた。
いや、でも、流石にそれは図々し過ぎる。
主であるエレノア様に労ってもらってるのに、こんなぐうたらしてるなんて。
彼女が怒っていないか不安になり、そっと顔色を窺う。
鼻から下は丘陵に、存在感が大き過ぎる胸に隠されて、口の形も見ることができない。
だけど彼女の瞳は、ここからでもよく見えた。
下目蓋が持ち上げられ、その黄色い部分だけが、弓なりに光っている。
付き合いの短い僕ですら知っている、「上機嫌」のサイン。
どうやら目立った傷は無さそうだし、気分も害してないみたいだと、
残った力まで根こそぎ抜けるほど、ホッとしたのだった。




