19.実行
「これはな、ユイト。忘れてはいけないものだ」
父方のおじいちゃんは遠くに住んでいて、あまり頻繁に会ったことはなかった。お母さんとの折り合いが悪い、みたいな話を聞いたこともあるから、それも理由の一つかもしれない。
おじいちゃんは色々なことを教えてくれて、だから僕は強い影響を受けた。
具体的には……けん玉がやたらと上手くなったり、とか?残念ながら、令和日本のけん玉普及率はさほど高くなくて、お披露目する機会なんて訪れた試しが無かったけど。
そしてそういった事柄の一つに、一際凄絶に焼き付いている記憶がある。鹿の解体を見せてくれた時のことだ。
それを僕に見学することについて、お母さんは反対した。お父さんは中立。僕もちょっとイヤだったけど、でも怖いもの見たさと、おじいちゃんが好きだったこともあって、提案を受けることに決めた。
そして、“鹿”っていう継ぎ目すらない滑らかな形から、血みどろの汚れと内臓が引っ張り出されるところを目撃し、結構なショックを受けた。
表向き、無駄なく完成され尽くした造形、一つの個として完結したもの。その内側は酷くグチャついていて、全身の神経に逃走命令を流し込み、震えながら跳び退かせようとしてくる。
赤色が目から脳に入って、内側からガンガンと頭を叩いた。
森で見れば穏やかな自然を感じさせる雄姿が、そこでは悪趣味で気持ちの悪いオブジェ。「汚い」とか「醜い」とか、そこまで言語化出来てなかったけど、そういう感情を抱かずにはいられなかった。
「残酷だと思うか?」
おじいちゃんは僕にそう訊いた。僕がどう答えたか、思い出せない。僕のことだから、曖昧に濁したんだと思う。
「だがな、ユイト。これが生きるってことだ」
けれど、彼が何を言っていたかは、よく憶えている。
「流血は野蛮だとか、殺すのは可哀想だとか、そう言う人間もいる。だがな、どんな人間でも、生きる過程で、他の命をバラして喰らっているんだ。殺して、壊して、貪り食っているんだ」
それが、見えるか見えないか、それだけの違いだって、おじいちゃんは言った。
「他の人間が殺したのを食っただけで、だから殺さなくても生きていける、だから自分達には罪が無い……本当にそうか?赤い血が流れないから、草を踏みつけ、摘み取り、食べるのは、残酷なんかじゃない。それでいいのか?」
僕は、確かその時初めて、ちゃんと想像したのだ。自分がいつも食べているものには、その前段階っていうものがあって、それを殺して、僕達は生きているんだ、と。
「じゃあ、残酷だからやめるべきか?命ってのは、栄養だとか空間だとか、他の命が受け取る筈だった資源を、自分のものとして奪い合って、それに勝った者だけが生き残れる。命を奪うのが罪で、生きること自体が悪なら、人間は今すぐ死ぬべきか?」
それは、正しいような、でも間違っているような、だけど、どう正しくてどう間違ってるのかが、言葉にできなくて。
「なら、みんな死ぬのが良いことなのか?大切な人から食べ物を取り上げて、飢えて苦しみのたうつことを強制して、自分から死ぬように仕向けるか、それともその手で直接殺すのか。それは——」
——「残酷」じゃないって言うのか?
「可哀想」じゃない、のだろうか。
命を守ることは命を奪うことで、それは悪くないのだろうか。
「人間は、命は、生きる為に、できるだけ長く続く為に、残る為に生まれたんだと、そう思う。けれど、その為には他の命を、『続いているもの』を頂かなくてはならない。生きるということは業が深いことで、けれど殺さないことが正しいわけでもない」
その辺りで、幼い僕は頭がこんがらがってしまったのだろう。おじいちゃんは、「今すぐに答えを出さなくていい」って、そう微笑んでくれた。
「参考までに、これは俺が勝手に考えた意見だが……人間性に必要なのは、『少しの勇気と大きな覚悟』だと、そう思うんだ」
そして、一つの解答例を示してくれた。
「『なになにの為に殺してやる』、それは簡単だ。どんなに難しく思えることでも、罪深い行動でも、それを実行する一線は、案外あっけなく越えれるんだ。地球上に、『殺して生きている』人間が70億から居るのが、その証拠だ」
やろうと思えば、どんな不可能にも、挑戦すること自体はできる。どれだけおぞましいことでも、ブレーキ無しにやれてしまえる。殺して食うっていう残虐非道が、僕達生き物の基盤だからだ。
「忘れてしまえば、分からないままでいれば、狭い近視眼さえ持っていれば、人間はなんでもやれる。どんな勇気だって出してしまえる。
本当に難しいのは、だから、“覚悟”することだ。責任を持つ、と言ってもいいかもしれない。
それが悪だとして、罪だとして、失敗だとして、大きな苦痛を伴うとして、けれども『やる』と言うことだ。『自分がやりたかったからやった』、そう言い切れることだ」
「正しいからやる」んじゃない。強制されたからそうしたんじゃない。外に理由を作ってはいけない。
何も正しくない僕達が「正しさ」を理由にするのは、それを正しそうに唱えた誰かとか、それを正しそうに見せかけた何かとか、いざとなったらそういうものに、責任を転嫁する為の予防線。
誰かが殺して食卓に並べたから食べた、みんなに言われて石を投げた、国に命じられて密告した、だから自分は何も悪くない。正義に従っただけで、被害者が居るなんて知らなかった。
そうした犠牲と行動の上で、自分や大切な誰かの生存、安全という利潤を得たけど、でも、何もやってない。隠してた、騙してた奴らが悪い。
それじゃあダメだって、おじいちゃんが言っていたのはそういうことなんだろうと、後から思い返した時にそう考えた。
生きるにしろ、それが嫌で死ぬにしろ、何かしらの罪。その中から「生きる」ということを選ぶ勇気と、その結果地獄行きでも受け入れるという覚悟。
特に、覚悟は難しい。
どうしても、心意気を買って欲しくなる。
「地獄行きでも良いっていうくらいに本気だった、その熱心さの分だけ他より免罪してください」と、閻魔に色目を使いたくなる。
そうじゃない。
地獄で良いって言ったなら、良いんだ。
その言葉は、罪を軽くする為のものでも、楽にする為のものでもない。
痛いし苦しいし怖いのはそのままに、それを永遠に引き受けるという意思。この先にそれが延々と続くという確信。それを持てるかどうか、って話なんだ。
「ユイトは、勇気を持っている。なにせこうやって、“生き死に”に触れようっていう、一歩を踏み出せたんだからな」
「怖がらないことより、ちゃんと恐れることの方が、ずっと大事だ」、
おじいちゃんは、そう言ってくれた。
僕に必要なのは、あと一つだけだって。
「本当のことを知る勇気を出した後は、それを命ある限り受け入れ、正面から対峙し続ける、その覚悟だけだ」
僕は人を傷つけたくない。
できれば動物に、全ての生き物に対してもそうだ。
だけどそれは正しいからじゃない。地獄で刑を軽くしてもらえるからじゃない。
僕がそうしたいからだ。
だから、自分勝手な優先順位を付ける。
それが罪だって分かった上で、やる。
その先がもっと、痛くて苦しいものだって、分かっている上で、その道を進む。
「僕にとって生きてて欲しい人に、生きていてもらう」っていう僕の得の為に、
僕はそれを脅かす命を傷つけ、殺さなきゃいけないんだ。
違う。
「そうじゃなきゃ」、じゃない。
殺すんだ。
バリケードを踏み越える。
棘熊のあの唸りが、金切り声に変化する咆哮が聞こえる。
〈む゛み゛ィィィィイイイイィィイイイぃイイイィィいいィィィィィ!!〉
まただ。
また、この、ザラつきだ。
危険に近づかれたんじゃなくて、危険に取り囲まれた、この感覚。
ヒヤリとして終わりじゃなくて、「今にも死んじゃう」がずっと続く、この恒常的な悪寒。
僕の首にすぐ届くところに、ナイフを持った敵の手があるような。
自分の右手を血が出るほど噛んで、湧き上がる貪欲を押さえ鎮める。
左手に持たされたのは、エレノア様のアームグローブ。それから、甘辛いような、甘酸っぱいような、唾液の分泌を促す馨しい香りが漂っている。
食べたい。
口に含んで、しゃぶって、呑み込んでしまいたい。
切なげに渇く喉を、それで撫でてやりたい。
その疼きを、血液で潤して誤魔化す。
二つの眼球が、痒くなるほど震えているのを感じながら、それでも視界から、熊を外すことだけはしない。
魔導砲と拒絶障壁が生むフラッシュで、痛む網膜を酷使して、瞬き一つ許さない。
やり始めることは誰にだって出来る。
踏み出すだけなら、特別なことじゃない。
痛覚を直接ドリルで掘り進められるような、そんな最悪の苦しみを味わっても、進んだ先に待っていた地獄が、自分が思っていた以上に辛いものだったとしても、
「やめない」、その覚悟こそが、本当に必要なこと。
僕にはそんなもの、まだない。
何を選んでも間違いなのに、間違えることが怖くて、行動できない。
でも、でもせめて、一番は、「これだけは」って何かは、守り通したい。
譲れないものについてだけは、やり通したい。
「間違えたくなかった」っていうのは、
間違えたことの言い訳にならないのだから。
後ろから見ている筈のエレノア様を勇気づける為、左手で握った拳を掲げて、「やってやります」と意思表示。
よし、これで前にしか行けなくなった。
ここから踵を返すことを、僕の度胸じゃできないくらい、恥ずかしい行為にすることができた。
退路を絶って真っ直ぐ進み、左手の高さはほぼそのままで、見せつけるように頭の前へ。
明らかにそれに合わせて、棘熊の鼻先の角度が変わった。
エレノア様の魔導能力の影響か、薄桃色に光るそれを軽く左右に振って、確かめてみる。やっぱり、興味を示している。
更に一歩。
右手を僅かに前に倒して、匂いをより近づけてやる。
また一歩。
砲撃が止まっても、そいつは動かず、僕の方に釘付けになる。
もう一歩。
棘で上下に貫かれた鼻の頭が、ヒクついているように見える。
そろりと、スローモーションで、こっちに近づいてくる。
そうだ。
来い。
食いついてこい。
こっちの水は甘いぞ。
エレノア様ご謹製だぞ。
欲しいだろ。
食べたくて仕方ないだろ。
ほら、
お前にあげるよ。
美味しい美味しい餌をやる。
入れてやるから、口を開けろ。
載せてやるから、舌を差し出せ。
前のめりに、頭を垂れろ。
首をめいっぱい、前に伸ばして、
そうすれば届く距離に、
一歩、
そこで世界が真っ黒に落ちた。




