翡翠の森
◆
雨と化して降り注ぐアルフォンスの糸は、肉眼で見ることは叶わない。
少しの光の反射だけが、それを認識させる。大抵の者は、攻撃だと認識することすらできない。
アルフォンスの紐の魔術は、極限まで研ぎ澄まされ、人の穴という穴から体内に侵入し、血管から細胞の隙間を通り、全身を支配する。
一般的に使われる防御魔術『盾の魔術』はあらゆる攻撃を防ぐが、攻撃を認識できていなければ防げないのが弱点だ。
その弱点を補う自動防御の術もある。だが、それには高度な技術と、大量の魔力を消費する。
一方、アルフォンスの紐は高度な技術は必要ではあるが、研ぎ澄まし効率化されることで魔力の消費は少なくなっていく。
認識されなければ、勝ち。認識され、相手が防御に入れば、勝ち。
アルフォンスを敵に回した者は、詰む。彼が七魔剣の中でも最強の戦闘魔術士である由縁である。
ルナもそのことを知っていた。それだから防ぐことができた。
反射的に変身し、魔術のイメージを固める。ルナの魔装は防御に特化している。
あらゆる攻撃を防げる。という表現は過言だが、少なくとも熱や毒に対する耐性を付与する。
アルフォンスの紐糸は、毒のように浸透する。それを完全に防ぐには、燃やし尽くすしかない。
加速された脳の反応が、ルナの体に炎を纏わせる。
灼熱のオーラはルナ自身をも焼くが、アルフォンスの攻撃を防ぐにはそれしかない。
糸に延焼し、アルフォンスは全ての糸を断ち切る。
「アル先生……、どうして⁉ アドストリスは消滅したのに!」
魔神アドストリスと接触した今ならわかる。オリエンスも、アルフォンスも、セラも、魔神の影響下にあったのだ。
それがどういう基準で選定されるのかはわからないが、神の気まぐれを推し測ることなどできはしない。
「そうか。アドストリスはようやく死にましたか。本当に残念です」
それはアルフォンスの声ではなかった。
絶望的なまでに、聞き覚えのある声。
「魔神ヴェルディクタ……」
アルフォンスの表情はほとんどわからないが、笑ったように見える。
「ルナ・ヴェルデ。まだ生きているとは。とっくの昔に、魔王に殺されたと思っていましたが」
全身が総毛立つのを感じる。
「アルフォンス先生をどこにやった」
「どこに? ここにいるじゃないですか」
アルフォンスは自分自身を指した。ルナは心のどこかで何かが切れる音を聞く。
ルナの全力を解放する。
このアトリエに生える全ての植物を掌握した。緑が白亜の街を飲み込み、巨大な森がその一角を占有する。
アルフォンスは飛翔しながら、全方位から襲いかかる枝葉を躱し、切り刻む。
アルフォンスに近付くことは死を意味する。それなのにルナは死角から飛び込んできた。
蜘蛛の巣のように張り巡らした糸が、ルナを覆う。今度は焼き尽くすことはできない。
「ヘルインパクト!」
ルナの拳には炎が宿っていた。高音の衝撃波が蜘蛛の巣を焼くだけでなく、衝撃で破壊する。アルフォンスのコートに指が掠めた。
衝撃に押され、アルフォンスの体は後ろに吹き飛ぶ。木の幹に着地し、ルナを見上げる。
ルナはその指に挟んだ形代を顔の前に掲げている。
「水霊絡まる神殿、逃れえぬ底まで沈め。急急如律令!」
服が水に濡れ、重くなっていく。水が溢れる。
人の体をすっぽりと覆うほどの巨大な水滴が、アルフォンスの体を包み込む。指ひとつ動かせないほどの水圧が、身動ぎすら封じる。
だが、その程度でアルフォンスを封じられるわけもない。彼は動く必要もなく、全身から紐を作り出すと、その水滴を破壊した。
毛玉となったアルフォンスは、体を回転させる。台風となった紐が、周囲の木々を薙ぎ倒し、ルナも吹き飛ばされる。
爆心地を思わせる破壊の波が収まると、その中央にアルフォンスは浮かんでいる。
その背中には、紐で作り出した不格好な翼が生えていた。
ルナは彼を見上げると、唇を噛む。
アルフォンスはまた笑った。
「面白い。レッドムーンと幻月の魔法ですね。
だが、本質的に間違っていますよ。こちらの魔術で再現しただけの紛い物では、私を倒せません。
あなたはこんな遊戯で、時間を潰していたのですか?」
唇から血がにじむ。
アルフォンスが言っているのではないが、アルフォンスの体で言われると腹が立つし、心に来るものがある。
同時に違和感も覚えた。
ルナは大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。アルフォンスはその様子を不思議そうに見守る。
「随分と余裕ですね。たったひとりでこの私に勝てると?」
声は似ているし、少しずつ形も似てきている。
翡翠の記憶の中にある、彼女そのものである。
確かに魔神ヴェルディクタのようにも見えるが、何かが違う気がした。
アルフォンスの力を使っていることも気になる。
そうだ。
このアルフォンスから感じる禍々しい力は、ヴェルディクタの力ではない。
アドストリスの粘り着くような魔力だけである。
ルナは唐突に理解する。何の因果なのかわからないが、ルナの執着が、アルフォンスの執着が、今の状況を引き起こしている。
「アドストリス……。なるほど。あれだけあっさりしてるあの子が、あんたのことはしつこいって二度も言うわけだ」
アルフォンスとしての脅威だけが、ルナの偏桃体に警鐘を鳴らしている。魔神としての脅威は感じない。
「アンをどこにやった」
アルフォンスは今度は笑わず、ルナを見下ろし続ける。
少し間を置いてから、アドストリスは話した。
【アンは私のものだ。もう二度と会うことはできない】
耳元で囁くような声が響く。
アドストリスは演技をやめたようだ。ルナの記憶や、アルフォンスの記憶から、ヴェルディクタを再現したに過ぎない。
そうやってアドストリスは人の動揺を誘い、手中に収める。
「ウソか……。なんだ、嘘は下手なんだ? 意外と人間味がある神さまなんだね」
アドストリスは沈黙で応える。
アドストリスは嘘は言わない。言えない。神としての性質が、そうさせる。
「あなたもアンの行方は知らないわけだ……」
嘘はつけないが、願望を言うことはできる。
アドストリスは生まれ持った性質を、工夫によって克服していた。
(なんでだろう。こんなにこの魔神のことがわかるなんて……。この空間の影響? それともアル先生の影響?)
ルナの中には答えは見当たらない。できることはひとつだ。
それができるかどうかが問題だ。
(ひとりでアル先生に勝てる? 訓練では手加減されていても、五人で挑んで敵わなかったのに……)
アドストリスの攻撃が、激しさを増す。
例え助けがあったとしても、勝てるとは思えない。
アルフォンスに勝てるイメージが湧かない。乗っ取られているとはいえ、実力はそのままのように思える。その状態で魔術を使っても、決定打には至らない。
まだ生きているのが奇跡だ。
(そうだ。最初の一撃、確かに殺意のある攻撃だったのに……、生きている)
紐の先端速度は、音速をも超える。ルナは軌道を読みながら身を躱し、ときに炎を用いた防御でそれを焼き尽くす。
もし、本当にアルフォンスがルナを殺しに来ていたのならば、ルナは生きているはずがない。最低でも身動きが取れない状態にされていただろう。
(……魔神ヴェルディクタに憑りつかれた怪人は、その潜在能力を肉体が崩壊するまで引き出されていた。
アル先生の力が完全に引き出されていたなら、もっと恐ろしい事態になっていたんじゃ……。
手加減されてる? でもアドストリスに、その余裕があるとは思えない)
アンの攻撃で、アドストリスは力の大部分を失った。残りの力をアルフォンスに集中させることで、なんとか支配している状態だと考え至る。
(アル先生を完全に支配できてはいない。なら、他の怪人と同じように、追い出して元に戻すことができるはず!)
激しい攻撃に晒されながら、ルナの脳は思考し続け、熱くなる。それと同時に頭の奥の芯だけが冷えている。
(戦うとき、何かを考えていたことはない。ただ、できることをやっていただけだった。
あの吸血鬼……メインスとの戦いのときに、コツが掴めた気がする)
それはアルフォンスとの訓練の成果であり、本当の化け物と向かい合った影響だ。冷静でなければ生き残れない。
【逃げるばかりか。臆病者め。無意味に生き、無意味に死ぬのだ。愚かで矮小なまま】
アドストリスの陳腐な挑発で、ルナの隙を作ろうとする。
「随分と余裕がないみたいだね! アンに力の大部分を持っていかれて、焦ってるんでしょ!」
白亜の街を飛び回り、破壊しながら、かなりの距離を移動してしまった。
地形を変化させるほどの魔術士の戦いに、潜んでいた魔物すら逃げ出すしかない。
ルナにも余裕はない。消耗戦は不利であることはわかっている。
だが、攻めるには手が足りない。
「アルフォンス! クレイン・アルフォンス・フォルスター‼ 目を覚ましなさい!」
ルナは呼びかける。
呼びかけることは無意味ではないと信じて。
「アル!」
指先から伸びた複数の紐が、斬撃の濁流と化して襲いかかる。
ルナは避け切れず、大きくバランスを崩して、弾き飛ばされた。
◆
「おい、おいおいおい! こっちに落ちてきてないか⁉」
カンナが悲鳴に近い声を上げる。
「そのまま、進んでよ! 下手に避けると直撃するよ!」
その背中に乗るイルヴァが、叫ぶ。
大量の瓦礫や、折れた太い木の幹が、重力を無視して白亜の街に降り注いでいた。
その隙間を、イルヴァを乗せたカンナは駆ける。
二度とこのアトリエに入りたくないと思っていたのに、ルナの危機を察知して体が勝手に動いていた。
開けっ放しになっていたアトリエの扉から、ルナの大量の魔力の匂いを感じた。
その入口近くにいたイルヴァが、カンナの背中に跳び乗り、彼女は一緒に戦うつもりでいる。
「本当にアルフォンスなのかよ⁉」
「うん、多分……。ううん、絶対! あれはフォルスター魔導師だった。今、ルナは七魔剣と戦っている!」
アルフォンスの顔は良く見えなかったが、図書室にいるイルヴァたちを無視して、アトリエに飛び込んでいった。
その殺意にその場にいる全員が凍り付き、誰も止められる者はいなかった。
イルヴァの星を宿した瞳が、それは敵だと判断した。
少なくとも味方ではありえない。
先遣調査隊のメンバーは、ルナ以外は全員、外に出ることができていた。
巨大な蛇の魔物であるリンドブルム二体を相手にした蒼光の短刀隊は、たった四人でその魔物を仕留めてしまった。
最早、この四人も人の枠を超えているが、それこそが一級冒険者である証である。
それでも無傷とまではいかない。蒼光の短刀もこれ以上の戦闘続行は不可能である。
ルナがオリエンスの作り出した亀裂に消え、追いかける前に亀裂は消えてしまった。
開かなかった出入り口は、突然、その役割を思い出して、先遣調査隊は脱出したのだ。
外でバックアップに回っていたオドは、突如として学園・街中に現れた怪人の対処に追われ、調査隊に構っている場合ではなくなっていた。
助けることができるのは、まだ余裕のある自分だけだとイルヴァは思った。
降り注ぐ瓦礫の中、イルヴァは杖を振り、身を守る。
(私にできる⁉ レイニー一級魔術士みたいな術……)
イルヴァは握り締めた杖に、さらに力を込める。
それは、魔術学校に入学が決まったとき、両親がプレゼントしてくれた物だ。
小さいがしっかりとした手応えのそれは、オークの木から削り出された、何の変哲もない短杖である。
杖は魔術士が、己の手に合った物を選ぶ。それが一般的だ。
本人がイメージしやすく、手に馴染むようにデザインされる。店先に売ってある物はあくまでも見本であり、それを元に作成者に注文する。
だが、両親の善意が、それを無視した。
彼らは魔術について無知であった。
小さく扱い易そうで、まだ成長しきっていなかったイルヴァにも使えそうだという理由だけで、それを選んだのだ。
以来、イルヴァは杖を変えていない。
ボロボロにすり減った杖には、彼女の想いが詰まっている。
(ルナ……。助けて見せる。バカなアタシに思い出させてくれた……)
杖にイルヴァの魔力が充填され、杖はその魔力の性質に耐えられずに、ボロボロになっていく。
「揺らぎの壁。見えざる法則。我が行く手を阻むものを撃て!」
耳に届かない音が、イルヴァたちの上に広がる。
それは振動の壁である。空気を震わせ、あらゆるものを寄せ付けない。
音を使うレイニー一級魔術士が、巨大なイヴィルアイを受け止めた魔術だ。
「できた……」
今までにない魔力が、イルヴァの中に溢れている。
良く見えるし、良く聴こえる。身体が活性化しているのを感じる。
森が生まれ、破壊される。
ルナとアルフォンスの戦いが激しさを増している。
「もっと早くいけないの⁉」
イルヴァがカンナに言う。
「おま……、人の背中に乗っておいて、言うことかよ⁉ 俺だって頑張ってるんだぞ⁉」
ルナは逃げ回っているのか、なかなか追いつくことができないのだ。
ひと際激しい爆発が起こり、空中にアトリエの破片が舞った。
その中央に赤い弧を引きながら、天井へと落下するルナの姿が見えた。
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