薄幸の智
◆
溺れる者は藁をも掴むとは良く言ったもので、目の前に現れた手だけをルナは不思議にも思わずに掴んだ。
その瞬間に、ルナは図書室の即席で作られた警戒線の中で、リリアナに覆い被さっていた。
「リ、リリアナ……⁉」
リリアナはルナとの衝突で朦朧としている。ルナが手を翳すと、リリアナは意識を取り戻した。
「……ルナ!」
気が付いたリリアナがルナを抱きしめる。ルナは何が起こったのか良く理解してなかったが、リリアナが泣き出してルナを離そうとしないので、しばらくその柔らかさを堪能した。
だが、カンナの肉球に顔を踏まれ、やるべきことを思い出した。自分がアトリエ内から脱出できたことを悟るが、まだオルシアもイルヴァも残っている。
「ダメ! すぐに私を戻して!」
「ル、ルナ?」
リリアナはその言葉に顔を上げる。メルビムがゆっくりと近付いて来て、ルナの頬を持って顔を覗き込んだ。
「落ち着きなさい。今、自分がどういう状況なのかわかっているのかしら?」
「わかっています。オリエンスが私を異空間へ送りました。そこにイルヴァさんとオリィが来て……。とにかく、まだあっちに二人がいる! すぐに戻って助け出さないと!」
ルナは立ち上がろうとするが、体に力が入らない。全身の震えが治まらず、まだ心臓が高鳴っていることに気が付いた。
「無理だろ、戻るのは。あんな魔物がいたんじゃ」
カンナも地面に横たわっている。その言葉を聞いて、メルビムが目を細める。
「魔物。どんな魔物がいたんだい」
「どんな、魔物……」
ルナはその言葉を聞いて、さらに体が震え、悪寒で全身の力が硬直する。
「でっかい腕の塊みたいなやつだった! 目ん玉がいっぱい付いてて、なんかパイナップルみたいなやつだった!」
カンナが興奮気味に叫ぶ。メルビムがその顎をやさしく撫でると、カンナは目を細めてそれを受け入れる。リリアナはルナを助け起こし、カンナに目を向けた。
「この子は何者ですの? まさか、その異空間の住人……?」
ルナが答えられずにいると、メルビムが代わりに答える。
「使い魔だね。こんなに精巧な使い魔は見たことがないけれど……」
「カンナって言うんだ。よろしくな!」
狐は先端だけが少し黒い尻尾を、横にフリフリと動かすと、メルビムとリリアナの視線を釘付けにした。迷彩のために真っ白な毛皮にしたのだが、副次的な効果で愛らしく見える。
ルナは近くにある椅子に座らされる。戻る方法を考えなければならないが、本能が拒絶する。
恐怖が精神の奥にこびり付いている。あの魔物の瞳と目が合った瞬間を思い出すと、
正気が石臼にでもかけられたかの如く、磨り潰されていくのを感じる。
諦めるしかない。
恐怖が勇気を塗りつぶしそうになる。そのとき、図書室の外がにわかに騒がしくなり、何人かの人物が入ってくる。
アルフォンスにグリオン。そして、オルシアとイルヴァ。彼らはルナの姿を見つけると、その周囲に集まった。
呆然としているルナにオルシアが飛びつく。そのまま何も言わずにしばらくそうしていたが、またオルシアが「臭い」と言うので、ルナは少しムカついて身を剥した。
イルヴァがルナの頭に手を乗せる。
「良かったよ。あんたも戻ってこれたんだね」
「二人はどうやって……」
「オリエンスがアタシたちを外に飛ばしたんだよ。気が付いたら、オリエンスの自宅にある牢屋にいて、フォルスター先生に助けてもらえたんだよ。それでオリエンスはどうなったの?」
ルナは背中で聞いたオリエンスの悲鳴を思い出す。また背筋に悪寒が走るが、今度はそれほどでもない。
「顔色が土煙色ですよ。どこかに怪我を?」
アルフォンスがルナの前に跪くと、その手を取って治癒魔術で身体検査を開始する。体中を爽やかな力が巡り、精神が安寧を取り戻す。
「何があったのか話せますか。オリエンス魔導師はどこに?」
「その……、オリエンスは死にました。多分……」
ルナの言葉にメルビムが溜息をついた。
この場で事情がわかる者は誰もいなかった。とにかく、三人の無事を喜ぶしかない。これから大規模な調査がされるだろうが、今は全員に休息が必要である。
◆
ルナの行方不明事件から数日が過ぎた。
事件と言ってもたった一晩の話である。ルナにとっては何日にも感じたことだが、他の生徒にとってはまたルナ・ヴェルデが何か問題を起こしたぞ、くらいの認識だ。
結局、オリエンス魔導師の生死は不明であった。ルナもその目で死亡を確認したわけではないし、死体は異空間にあり、原形を留めているとは思えない。
彼の自宅から見つかった、ルナに関することは表沙汰にされることはなかったが、オリエンスの凶行は、噂の流布という形で世間に知られることになる。
生徒を誘拐したが敗れた教師という不名誉なレッテルとともに、その功績もついでに流布された。ヴァルナ・ヴェルデ高等学園の古代魔術師の『アトリエ』。その新たな空間を見つけ出しという功績だ。
ヴァヴェル学園は、古代魔術師が残した異空間を利用して建てられているが、既にその異空間は探索済み、無力化済みであると思われていたのだ。だが、それは早計に失する考えであった。
学園にはまだ未探索のアトリエが残されており、その価値は千金にも万金にも値する。生徒に三人が消えたことなど、吹き飛ぶくらいのニュースである。
アトリエには、価値のある古代の魔道具や呪文が眠っており、凶悪な魔物が潜んでいる可能性がある。それが学校という人が多すぎる場所にまだ隠されていたという衝撃的な知らせは、街中を震撼させたのだ。
オリエンスはその空間の行き来を可能にする、鍵のような魔術を発見し私物化していた。その空間を利用して、生徒の誘拐を試みると言う凶行に及んだのだ。
「いや、驚いたぜ。なんだか騒がしいなと思って寝てたら、次の朝には解決してるんだもんな。しかも、その事件にみんな関わっているなんてさ」
ディルタはここ数日その話ばかりだ。
授業が正常に開始されたのは、数日の臨時休校の後である。なにせ犯人は行方不明で、未知の空間があるのである。
それでも再開が早いのは、アトリエには既に大規模な調査の手が及んでいるからだ。
「結局、あのアトリエはどうなるんだろう。このまま調査しながら、授業はするのかな」
学園内には、異空間への出入り口が複数のがあることが確認されている。オリエンスの自宅へ繋がる出入り口も確認されており、彼の自宅もかつてはアトリエの敷地の一部であったのではないかと言われている。
今は高位の冒険者や軍人による大規模な調査団が組まれている。彼らがひっきりなしに学園に出入りして、アトリエの調査に着手しているので、いつもとは違う雰囲気に、生徒らも少しばかり興奮気味である。
「本当、勘弁してほしい……。もうあんなところに手を出してほしくないんだけど……」
ルナはそう言うが、調査団も危険は承知の上だ。
だが、ルナの思う危険は、あの魔物。魔物と言って良いのかすら不明な、怪物のことだ。あれが街の中に出現したら、この街どころか国ひとつ、大陸ひとつ消滅しかねないと思っている。
しかし、調査団はそんな怪物の姿は見ていないらしい。しかも、中で流れている時間も外と同じであるようで、ルナの話は半信半疑でしか聞いてもらえなかった。
白い建物が広がる異空間。魔物たちが蔓延り、危険ではあるが、今のところそれ以上の危険はないとのことである。
(何だったんだろう、あれは……。見間違いなんかじゃないと思うんだけど……)
実際、使い魔のカンナも目撃している。幻覚や幻術の類ではないはずだ。しかし、ルナの証言は黙殺されている。その危険を冒すだけの価値が、アトリエにはある。
オルシアが机の上で眠るカンナを撫でようとするが、カンナはまた彼女の手を避けて、ロバルトの肩に飛び乗った。
「お、おい。暑いんだが……」
「ふん」
ロバルトの言葉を無視して、カンナは再び眠り始めた。ロバルトがルナにどけるように視線を送っているが、ルナは思案に耽っている。
オリエンスはどうやら、ルナが入学したときからずっと見張っていたようである。
最初は問題を見つけ出して退学にでもさせるつもりだったようだが、いつの頃からか所謂ストーカーになっていたようだ。
何を思ったのか、ルナが自分に好意を寄せていると思い込んでいた。その師匠であるアルフォンスとの訓練を、彼のイジメであると確信していたようだ(実際問題、それは間違いではない)。
しかし、アルフォンスには敵わないことはわかっているようで、異空間にルナを連れ込んで、色々とやろうと思っていたようである。
オリエンスにとって誤算だったのは、孤独にさせて時間をかけてルナを弱らすつもりだったのに、ルナはその程度のことは慣れていることであった。
使い魔を作り、孤独を紛らわせ、魔術を使わない持ち前のサバイバル術で、工夫して体力を保っていた。
しかも、なぜかイルヴァとオルシアも異空間に巻き込まれてしまっていた。それは図書室にあるアトリエへの出入り口の特性が、オリエンスの知っている出入り口とは違っていたことが理由だ。
その出入り口は一度開けたら、数時間は閉じない性質があったのだ。他の出入り口は自動ですぐに閉じてしまうのに対し、図書室にある出入り口は、閉じなければ自動では閉まらないようである。
要はオリエンスの計画不足、知識不足が招いた、自業自得の末路だ。
ルナが気になっているのは、どこで変身する姿を見られたのかであるが、今となっては判らず仕舞いである。オリエンスの自宅からも、ルナと緑のドレスを結びつけるものは見つかっていないようである。
(その点は感謝かな……。自分が捕まったときのことも考えて、秘密を守ってくれる程度の良識は持ち合わせていた……、とは思えないけど)
もうひとつ感謝することがある。魔術が使えなくなったときのために、肉弾戦の訓練も取り入れるように思えたことだ。
短剣の使い方、弓の使い方、あとは走り込みもしておきたい。
時間がいくらあっても足りない。異空間の時間の流れがそのままであれ良かったのにと思うルナであった。
◆
「あんたがそんなに小さくなるとはね」
学園長室は相変わらず落ち着いた雰囲気であった。
オド学園長は、向かいのソファで小さくなっているメルビムに、困ったような悲しいような視線を向ける。
メルビムは元々、体の小さな女性で、九十歳になった今では、さらに小さくなっている。
そして、今回に事件だ。教え子は沢山いるが、最後の愛弟子の起こした事件は、さらにメルビムを小さくさせてしまった。
「生涯現役を謳っていたじゃないか。あんたは何人も弟子を取って来た。そのひとりが起こしたこと程度で、引退なんてあんたらしくもない。
それにオリエンスは新しい『アトリエ』を発見したんだ。それは充分な功績じゃないかい」
「残念だけど、そんなわかり易い慰めは、余計に気が滅入るわ。オリエンスはアトリエを独占し、私物化しただけよ。国家の利益を損ねた。反逆にも等しい行為だわ。
そして、悲しいことに、そんな愚かな弟子でも、あたくしは愛おしく思う」
「そう、だね……。出来の悪い子ほどかわいいもんだ。血を分けた子どものいないあたしたちにとっちゃ、余計にね」
オドは少女のような見た目をしているが、百歳を超えるドワーフ族だ。多くの子を育ててきたが、子を生んだことはない。
「別に、あんたを無理に引き留めるつもりはなかったんだけど、頼まれてしまってね。丁度、来たみたいだね」
「頼まれた?」
学園長室のドアがノックされ、ひとりの生徒が入ってくる。
「リリアナさん? どうしたの?」
部屋に入って来たリリアナは、メルビムにカーテシーをして見せる。貴族の見せる最高級の挨拶である。
「ごきげんよう、メルビム先生。本日はお時間を頂き、ありがとうございます」
リリアナの丁寧な挨拶に、メルビムはオドを見つめる。オドは知らん振りして、茶を飲んだ。こんな不意打ちをされるとは思っても見なかった。
「わたくし、リリアナ・リルケーは、メルビム魔導師に正式に弟子入りを所望いたします。わたくしに、魔導師の魔術の全てを伝授していただけませんでしょうか」
メルビムはその言葉に驚いた。
リルケー家の娘が、他の魔術士の弟子になるなど、聞いたこともない話だ。彼らは自分たちの魔術に誇りを持っており、学園に通うのも、あくまでも見分を広めるためだけの話である。
「あたくしの専門は結界魔術ですよ。あなたの支配の魔術ほどの有用性はありません。それにあなたのお父上がどう思うか……」
「父には既に相談しました。許可はもらっておりますわ。父はわたくしの言うことなら、何でも聞いてくださいますもの」
いったいどんな脅し文句を言ったのかは不明だが、リリアナはリルケー家当主を説得したようだ。
「支配の魔術は大変効率良く、それを極めれば不利も覆し、万能の魔術士と成れることは、重々承知しておりますわ。身近にも、そのような魔術士がたくさんおりますゆえ……。
でも、わたくしは限界を感じておりますの。このままではわたくしは、ただ器用なだけの凡庸な魔術士になってしまうと、危機感を覚えております。魔術は常に進化し、いずれリルケー家も没落するときが訪れることは、歴史を見れば自明の理というものです。
支配の魔術を捨てるつもりはありませんが、そこに一芸を加え、リルケー家に新しい風を吹き入れたいと思い、弟子として導いていただきたいのですわ。
そして、友を救える力を、わたくしに授けてくださいませ。どうか……」
メルビムは鼻を掻いた。
目の前に才能ある魔術士見習いをぶら下げて、死ぬまで扱き使うつもりだ。魔導師として、若い才能を信じるのは至上命題である。それはメルビム自身の言葉だ。
こんな引き留め方があるかと思う。オドは相変わらずだ。
だが、気落ちしていた気分が、もう少し長生きしたいと思えるほど前向きになったのも事実だ。
メルビムはリリアナの申し出を受けることにした。
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