風に散る
◆
結界の核である魔方陣は、ヴァヴェル学園の天文観測所にある。
街の拡張とともに政治の中枢は、現在の街の中央の統律城に移されたが、大規模な魔術の再構築には、膨大な時間とコストを要する。そのため、現統律城にはダミーの魔方陣が作られ、本体は旧統律城であるヴァヴェル学園に秘匿された。
結界魔術師は学園に勤務しつつ、魔方陣の守護をしていた。
国内有数の結界魔術師であるメルビムは齢九十を超える高齢である。
後継の育成は急務だが、結界魔術師は治癒魔術師に次ぐ稀少な術士である。簡単に代わりが用意できるわけではない。
リリアナも基礎を学んでいるところである。その実力は結界魔術師とは呼べない程度だ。
ルミリア・イーブンソードの魔術は、普通の防御魔術では簡単に突破される。それでもメルビムであれば、問題なく防ぐことができたはずだ。
「メルビム先生!」
オドの巨大ゴーレムと、街の抑制結界、メルビムの物理結界によって、ティタンゾンビとの均衡を維持していた。
その均衡が崩れる。ルミリアが来る前に、均衡は崩れていた。
メルビムは血を吐いて倒れ、動かなくなってしまった。何か攻撃を受けたわけではない。
「師匠! お下がりください!」
メルビムはリリアナの言葉に応えることもできない。
今、メルビムに変わって風を防いでいるのは、リリアナである。
今までそれだけの強力な結界魔術に成功したことはなかったが、それだけの力が湧いてきていた。ただ、それでも充分ではない。
「新しいお弟子さん? まだ若いのにやるね」
ルミリアはゆっくりと歩き、リリアナの結界の端を剣でなぞる。
「ロバルト、起きてくださいまし! ロバルト‼」
リリアナたちの後ろの壁に、ロバルトは張り付いていた。皮膚がズタズタに引き裂かれ、自らの血の海の中で気を失っている。
ルミリアの風をまともに受けて、彼は倒れた。何とか即死を防いだようだが、これ以上の戦闘は不可能に見える。
ルミリアが不思議そうに首を捻る。
「私としては……、どうしてロバルトの体が、原型を留めているのか気になるんだけど。
あなたが防いだの?」
オルシアはルミリアの足元で、倒れていた。
オルシアの風はルミリアの風によって、簡単に相殺されてしまった。
針の穴を通すような魔力操作に、破滅的なまでの負荷が、ルミリアに対する一切の攻撃を寄せ付けない。
そして、ロバルトをかばったオルシアは、まるで溺れるかのような表情を見せ、そのまま意識を失ってしまう。
「オル、シア……」
「大丈夫。殺してはいないから。空気を少し薄くしただけだよ」
リリアナにはこれ以上、耐えることはできそうにない。
「ディルタ……!」
リリアナは助けを求めようと、名を呼ぶ。
だが、ディルタはメルビムの結界が消えると同時に、テラスから身を躍らせて姿を消していた。
ルミリアが来る前だったとはいえ、逃げ出したとしか思えない。
「ルナ……」
助けは来そうにもない。
戦えるのは、リリアナしかいない。
怖い。逃げ出したい。
たった独りで、この国でも指折りである魔術士に挑まねばならない。寒いはずなのに全身に汗が溢れ、息が吸えなくなるほど動悸がする。
その事実を認識しながらも、リリアナは一歩も下がろうとはしなかった。
例え、最後の一兵になろうと、貴族であるリリアナは王国の守護者である。
「なるほどねぇ。結界術師の後継はもう見つかったわけね。
学生なのにみんな強すぎ。私がいなくなってから十年も経っていないのに……。デルクリムトがこの街を落とすことを急ぐのが理解できた」
ルミリアは不気味に口角を上げた。
「残念ね、メルビムの婆さん。まさか、このタイミングで寿命が来るなんて。
じゃあ、さようなら」
ルミリアが風を巻き起こす。
竜巻などという生易しい表現では足りない。鑢だ。
全ての物を削り取り、あらゆるものの形を消す魔術。
リリアナは全力で防御する。避けるわけにはいかない。背後にはメルビムとロバルトがいる。
「あああああ!」
リリアナはいつの間にか叫んでいた。真円を描いていた結界が、壮絶な圧力によって湾曲し、リリアナ自身も防げているのかどうかわからなくなる。
攻撃が止んだ。
周囲の壁は全て吹き飛び、リリアナの足元から、ロバルトの倒れた後ろにある建物だけが残っている。天文観測所のシンボルである巨大な魔術遠眼鏡は、完全に消し飛んでいた。
リリアナの目の前に、メルビムの小さな背中が見えた。小さくて、細くて、それでも力強い背中。
メルビムがかばわなければ、塵と化していただろう。オルシアは人の形を保ち、ルミリアの後ろで浮かんでいる。ルミリアはオルシアを殺すつもりはないようである。
空中に浮かんだルミリアの手には、拳大の輝く石が握られていた。
ルミリアの手に持った石は、紫と橙の光を優しく放ち、夜輝石とは違う輝きを放っている。
「こんな小さな魔石が、この街全体を守っているなんて」
ルミリアが少しうっとりとした表情で、魔石を眺めた。
この魔石は、要石である。この魔石を中心に、街中にある複数の魔石を使って、結界を維持している。要石を破壊してしまえば、結界は維持できず、魔物の侵入を容易に許してしまうようになる。
それは魔術遠眼鏡の内部、外からは見ることのできない場所に、部品の一部として偽装されていたはずだ。
「メルビムがいるところに要石がある。言う通りでした、さすがです。シアリスさま」
ルミリアは要石を握り潰す。
夜空に亀裂が走り、空の破片が落ちてくる。破片は塵となって消え街には降り注がない。目に見えない結界が崩壊したのだ。
ルミリアが魔物としての力を取り戻す。影の力が彼女の体を包み、夜の化身となっていく。
彼女は今まで、人の魔術士としてしか力を使っていなかったのだ。それなのに手も足も出なかった。そこに吸血鬼の魔法が加わればどうなるのか、リリアナには想像もできない。
「まだ生きていられるなんてね。それだけでも規格外ではあるのだけれど」
ルミリアのその言葉に、リリアナはようやくメルビムがどうなっているのかを知る。
彼女の右半身は、杖ごと消え去っていた。
「メルビム師匠……」
リリアナが声を振り絞る。もう、メルビムの耳には届いていない。それでもメルビムは最期のときを弟子のために使うため、ルミリアと相対する。
ティタンゾンビを押し戻すほどの結界を作り、生命力を魔力に変えれば、自分で自分の命の灯を吹き消すようなものだ。
メルビムの生物としての限界は、とっくに過ぎ去っていたのだ。彼女自身がそのことを理解していたかどうかはわからない。
その限界が最悪のときに訪れた。それでもなお、メルビムは限界を超えようとしていた。
「リリアナ、見ておきなさい。これが結界魔術師の奥義だ」
メルビムの言葉は、言葉ではない。思考がリリアナに流れ込み、その魔術がどんなものなのか理解する。
死の魔術。
元来は自身の命を犠牲にして、相手の命を奪うものだ。あまりに代償が大きく、効果は薄い。だが、それも進化している。
自分の命を魔術に変える魔術。『死』という概念を超越する力。
不死者であるルミリアには、決して辿り着けない境地。
「……っ⁉」
体を半分失った老人が、魔力を使ったところで大したことはないはずである。だが、ルミリアは危機を察知し、足元のオルシアを盾にした。自分の娘であろうが、吸血鬼には関係がなかった。しかし、そんなものに意味はない。
メルビムはゆっくりと呪文を唱える。ルミリアにはそう思えた。すでにメルビムの手の中に、ルミリアは握り込まれていた。
「初めに限りはなく、終わりに境なし。
名を無に、形は虚ろに、魂魄は無限へ。
全てはひとつ。ひとつは全て。
――――原初無界」
リリアナにはメルビムの体が消えたように知覚された。
霊体のように、空気だけがメルビムの形を作る。生と死の境界が消え、メルビムの時間が巻き戻る。
少女の姿のメルビムが、そこに立っていた。その姿は、リリアナに似ていた。リリアナにはそう見えた。
若さを取り戻したのではない。魔術のイメージが形となったのだ。
ほとんどが塵となって消えた天文観測所が、再構築されていく。
メルビムの境界が消える代価として、今まで境界として存在したものが、その形を取り戻していく。
オルシアの体を通り抜け、ルミリアの手をメルビムは取る。
盾にしていたオルシアを離した。離さざるを得なかった。ルミリア自身の境界が曖昧になり、体がオルシアの体を持っていることができなくなったのだ。
それだけではない。先ほど砕いたはずの要石が、いつの間にか掴まれた手の中に戻っている。
全てが元に戻っていく。
「そんなことが、あるわけが……」
声は出なかった。ルミリアの形がなくなり、魂さえも消え去っていく。
それは結界魔術の極み。
結界とは、境目を操る魔術である。それを極めた者が行きつくのは、境界を失いながらも、その形を失わないことだ。
だが突然、メルビムが形を取り戻す。同時にルミリアも形を取り戻した。
メルビムの胸に、黒炎を纏う爪が突き出ている。それはアンを傷付けた、魔術を無視する力だ。
(アン? どうして、アンの名前が、今……)
リリアナの思考は混乱し、何の行動も起こすことができない。
メルビムの口から血が溢れる。
「もう逝きなよ。死に損ない」
シアリスの爪が背後からメルビムの心臓を貫き、同時に要石を破壊する。
手を振ると、メルビムの体は床に投げ出される。大量の血液が地面を濡らし、メルビムは力なく横たわる。
ルミリアの体は、ほとんど失われていた。頭と胸だけになりながらも生きているのは、不死であるからでしかない。
「あーあーあー、再生するほども魔力も残ってないなんて」
シアリスの影がルミリアの体を一瞬だけ包むと、ルミリアの肉体が完全に元に戻っている。服さえも戦う前の状態になり、戦いなどなかったかのように立ち上がる。
「……申し訳ありません、シアリスさま。助けていただき、感謝いたします」
「いいよ。許す。まさか、こんな強い魔術士がまだ残っていたなんて。
でも、君はしっかり仕事をしたよ」
シアリスがオルシアを抱きかかえる。少年の小さな体では難しいと思ったのか、成人男性の姿になった。
「帰ろうか。もう、ここに用はない」
「はい……。畏まりました」
ルミリアが一瞬だけリリアナを見た。しかし、何も言わずに視線を戻し、シアリスに従う。二人はそのまま何もせずにテラスへと出た。
リリアナは二人を止めるため、立ち上がろうとする。そのとき、僅かに揺れたメルビムの目と視線が合う。メルビムの口が少しだけ開いた気がした。
偶然でしかない。
リリアナはメルビムの目の光が消えるのを、じっと見つめていた。
自分の中の大切な何かが、その光と一緒に消えていく。
シアリスとルミリアが、オルシアを連れてテラスから飛び立ち、ようやくリリアナは空気で肺を満たす。息すらすることを忘れてしまっていた。
恐怖と絶望に染まったリリアナを、あの吸血鬼たちは餌とにすら認識しなかった。
風が止み、時間が止まった。
泣くこともできない。喪失と無力感。
師匠は最期の瞬間まで、リリアナを守っていた。
それなのに、シアリスの爪がメルビムの背中に突き立てられたとき、リリアナは動かなかった。オルシアが攫われるのをただ見送った。
何も守れない。
「もう、嫌だ……。こんな……」
自分の口から出た言葉に、リリアナはうずくまる。
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