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 私は、どこにでもいるただのOLでしかなかった。

 学生時代からの友達がいて、気の合う同僚がいて、片手で事足りる数のモトカレともいい距離感の友人関係を続けられていて。

 別にコミュ障が過ぎて色々拗らせてしまってはいないし、美し過ぎるが故に同性を敵に回したこともない。バリキャリでもなく、何かを夢見る夢子ちゃんでもなく、私のキャラメーターはプラスにもマイナスにも振れないど真ん中でピタリと針を留めている。

 だからというわけじゃないけど、きっと私の人生はこんなモンなんだろうと思っていた。ドラマチックな逆転劇が起きることなんてなくて、ほとんど平坦と言っていいくらいの道のりがこの先も続いていくんだろうななんて、すっかり悟りきっていた。


「うっそでしょ……」


 一気に水分を失った唇からこぼれた声。この軽自動車と付き合いを始めて5年、何度か壁をこすり、駐車場のポールに当てたりしてきたけれど、こんな衝撃を感じたことはなかった。

 実家から一人暮らしのアパートまでの走り慣れた道で、次の角を曲がれば駐車場に着く、というところまで来ていた。確かに、真夜中で視界は悪かったかもしれない。でもまさか空から人が降ってくるとは思わなかったし、急に現れた想定外の落下物を避けきれるほどの運転技術が私にあるはずもなくて。


()ねちゃった……私、人殺しちゃったんだ」


 ヘッドライトが片方消えてしまっていて、運転席からでもバンパーの形が変わっているのがはっきり分かる。車は軽く当たったくらいでもかんたんに凹むようにできているというのは聞いたことがあるけれど、あれだけの衝撃を受けた生身の人間がどうなるかなんて、今まで人を撥ね飛ばしたことのない私でもすぐに理解できた。

 震える手でギアをパーキングに入れ、サイドブレーキのペダルを左足で踏み込む。こんな時でも停車する時の手順は間違えないんだな、と妙に冷静に自分を分析しながらシートベルトを外した。

 車から降りてすぐ上を見上げたけれど、停めた車の真横に建っている、4住戸しかないハイツのどの部屋も明かりは点いていない。窓が開いている様子もなくて、この人がどこから落ちてきたのかはこの状況ではまったく分からなかった。


「……とりあえず、救急車と警察に連絡しよう」


 その前に被害者の状況を確かめなくちゃいけない。

 そう思い、意を決して道路に倒れているその人にそっと近づいたその時だった。


「う……」


 苦しそうなうめき声が聞こえたのだ。よく見ると胸のあたりが小さく上下していて、ちゃんと呼吸しているのが分かった。

 生きていた。良かった。いや事故を起こしたんだし良くはないけど、とにかく今の時点で私はまだ人殺しにはなっていないようだ。

 私はその人に慌てて駆け寄った。


「大丈夫ですか!?」


 骨が折れているかもしれないし、下手に動かさない方がいいだろうと判断して、その人には触れずにそばにしゃがみ込み、そう声を掛ける。


「……くれ」

「えっ?」


 かすれた声で何かを頼まれたけれど、掛けっぱなしのエンジン音のせいでよく聞き取れない。


「……を、くれ」

「……? なんですか?」

「たのむ……が欲しい」


 何かを求めているみたいだ。飲み物ですか、と聞いたら、その人は首を横に振り、何か伝えたげに唇を小さく動かした。

 きっと怪我のせいで声を上手く出せないんだろう。そう思った私は、どんな小声でも聞き逃さないようにしようと、地面に這いつくばるような体勢を取り、その人の口元に耳を近づけた。


「ち……」

「ち?」

「ちが、欲しい」


 ち、って……血のこと? 私が気付いていないだけで実は出血がすごかったりするから、輸血してほしいということだろうか。


「あ、あの、血液型が合うかどうか分からないですけど、必要なら提供しますんで!」

「ほん、とうか……?」

「はい! だからすぐ救急車を」


 呼びます、という言葉をその先に続けるつもりだったけれど、それ以上私は声を出すことができなかった。

 突然、首元に走った鈍い痛み。背中に回された腕は思ったよりも強い力で私を押さえつけていて、身動きがとれない。何が起きているのか、今自分はいったい何をされているのか、まったく状況が把握できなかった。

 ようやく解放されたと思った瞬間、全身から力が抜けて起き上がれなくなってしまい、私はその人の胸の上に倒れこんだ。


「いやー、助かったよ。狙ってた人間とは違ったけど……俺、いいモン拾ったかもしれねーな」


 さっきの弱々しい声量とは比べ物にならないくらい、はっきりとした声でそう言いながら、その人は私の体を抱きとめつつゆっくりと起き上がった。

 膝枕をしてもらっている状態で空を仰ぎ見る私。小さな星が一つ、二つ光っているのが分かって、今夜はとてもいい天気なんだと思った。


「お前、名前は」


 景色を遮るように、私の視界にその人の顔が飛び込んできた。端正な顔立ちは言うまでもなく、覗き込むその瞳が赤く光っていることに強く心惹かれて思わず息を呑む。


「……八木(やぎ) 明日香(あすか)、です」


 不気味だけどなんだかすごく綺麗だし、こうして見つめているのが心地いい。

私は赤い瞳の怪しいゆらめきに恍惚感のようなものを覚えながら、素直にそう答えていた。


「アスカ、か。どんな字書くんだ?」

「明日に香る、でアスカです」

「三文字とも”日”が入ってんのか! “月”までおまけに付けてくるとか、俺の天敵みてーな名前なんだな」


 天敵ってどういう意味だろう。そう思って首を傾げると、彼はニカッと大きく口を横に広げて笑った。


「俺、マモルっていうんだ。よろしくな、アスカ」

「あ、は、はい、こちらこそよろしく……?」

「よし、家はどこだ? 送ってってやるよ」

「い、いえ、大丈夫です! 私、あなたのことを撥ねちゃったのにそんなことまでしてもらうわけには」


 そこまで言って、はたと気付く。空から落ちてきた上にあれだけ激しく車にぶつかった彼がピンピンしている今のこの状況が、どれだけおかしいものか。イケメンの膝枕に浮かれて機能しなかった私の中の違和感が、ようやく仕事を始めたようだった。


「気にすんなよ。俺、別に平気だから」


 いや気にするわ。あれだけはね飛ばされておいて平気なのが怖いわ。

 私は彼を刺激しないように、一刻も早くこの場から離れたいという気持ちを隠しつつ愛想笑いを浮かべた。


「わ、私も平気です! 車はちゃんと動いてくれそうだし、自分でどうにか帰りますので」

「どう見ても無理だろ。全然起き上がれそうにねーじゃん」

「これは、その……人を撥ねたの初めてで、たぶんショックで体が動かなくなっちゃってるだけだと思うから」


 こうなったらいいな、は叶わないのに、悪い予感だけはちゃんと現実化してしまうのは、これまでの人生で何度もあったことだ。加害者として最低限の補償はするとしても、それ以上は関わるなというこの警鐘は無視しちゃいけない。

 まるで金縛りに遭った時のような感覚の中で、私は無理やり体を動かそうとした。


「やめとけやめとけ。咬まれた直後に無茶したら、後がきっついぞ」

「かまれた……?」

「いいから大人しくしてろ」


 彼はそう言って私を抱え上げ、停めていた車に向かうと、助手席に私をそっと置いてからシートを限界まで倒した。


「体が辛いところ悪いけどさ、住所教えてくんない? お前のことはまったく候補に挙げてなかったから、調べがついてねんだわ」

「……い、いやあの」

「ああ、運転なら任せろよ。なんせこの国に車が初めて持ち込まれた時から乗り回してるからな、腕は確かだ」


 そんなことは聞いていない。何を言っているのかも分からない。候補って何? 調べがついてないってどういうこと? この国に車が入ってきたのって、いつの時代なの?

 一体何なんだろう、この人。空から落ちて車に撥ねられたのにケロッとしているし、むしろ私の方がなぜか倦怠感がすごくて動けなくなっている。それより何よりヤバイのは、あの赤く光る瞳だ。あれに見つめられると自分が自分でなくなったような感覚に陥って、この人の言葉に逆らえなくなってしまう。


「け、警察……」

「あぁ?」

「警察、呼ばないと……。事故の処理をしてもらわなきゃ」


 この場から逃げられないなら、せめて一人で相手をしないことだ。そう思って、さっき止められたにもかかわらず体を必死で捩り、後部座席の自分のカバンに手を伸ばそうとした。


「アスカ」


 名前を呼ばれ、反射的にそちらに目をやる。


「お前んちの住所。さっさと言え」

「……」


 言いたくない。そう思っているのに、私の意志とは全然違うところが勝手に私の口を動かしてしまい、気づけば郵便物が間違いなく届けられるくらいに正確な住所をその人に伝えていた。








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