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溟楼綺譚  作者: 上遠野
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―――身体が、熱い。


まるで久遠の劫火ごうかに身を焼かれているようだ。

過敏になりすぎた神経に巻き付いたいばらの蔓が、佐波の痛覚を限界まで痛めつけている。


―――もえ、る。


肉が、神経が、骨が、生きたまま焼かれて逝く。


いっそ身体を捨てて天津国あまつくにに旅立てば楽になれるだろうに。


身体の芯まで食いちぎろうとする激痛から逃れようと身を捻った佐波の身体を———


何者かの手がそっと宥めた。


―――…だ、れ…?


汗と苦痛の涙に濡れた佐波の頬を、冷たい何かがそっと触れる。

何度も何度も、まるで大切な陶器を扱うような慎重さで、頬を、額を滑るその感触に、痛みが一瞬緩和した。


ほぅ、と熱い息を吐いて、僅かに身体の力を抜く。

すると今度は頬に、ぽた、と雫が落ち滑り落ちた。


―――水…?


うっすらと目を開ける。薄い幕で覆われた滲んだ世界。

薄い闇の中で、衣擦れの音がした。


―――姫様…


耳に涼やかな風が触れる。心の一番奥まで染み渡る、柔らかな吐息。


―――姫様…


ああ。


ああ。


心が震える。

この時を、何度夢に見ただろう。

再び霞み始めた意識を必死に保たせて、佐波は焼かれた喉を押し広げた。


「い、お…り…」


以織。以織。以織。

心のうちで何度も呼ぶ。

指の一本も動かせない今の状態では、抱きついて喜ぶ事も、膝をついて謝ることも出来ない。


でも、確かに、以織がここにいる。


―――姫様…


もう一度、耳に吐息が落ちる。泣きそうな、哀しそうな声。


ああ、泣かないで、以織。泣かないで。


昔、まだ佐波が貴族の子女で、以織が使用人の子であった頃。

他の兄弟に苛められて物置で一人泣いていた佐波を、以織だけが探してくれた。

声を殺して泣く佐波を優しく抱きとめ「姫様、私がおります」と安心させるように囁いてくれた彼に、その言葉に、どれほど救われてきたか。

母にも父にも兄弟にも、使用人にすら相手にされなかった佐波を、彼は一人で支えてくれた。

そしてそれは、最後の時まで―――


「いお…り…」


不思議と、痛みはもう気にならない。

その代わりに襲いくる、抗い難い睡魔に最後まで抵抗しながら、佐波は乾いた喉を少しでも潤そうと唾を飲み込み、


「…き、た……よ…」


迎えに、きたよ―――


耳にかかっていた吐息が震えた。

頬にもう一度雫が落ちる。


―――姫様…


吐息が頬を撫でる。

震えるそれが、唇にそっと押し当てられた感触を最後に、佐波の意識は再び闇の中に堕ちていった。








泡が弾けるような目覚め。

あわいからうつつへ、別の世を潜る様にして意識を浮上させた佐波は、無意識に身体を捻らせ、次の瞬間全身に走った痛みに「うっ」と悲鳴をあげた。

身体が燃える様に熱い。特に背中の痛みが尋常ではなく、少しでも動かせば大小の雷撃を喰らっているかのような鋭い痛みが容赦なく襲って来る。

しばし痛みを逃がすように硬直していた佐波だったが、痛みがじわじわと引き出すと、己の現状を把握する為にそっと目を開けた。


身体は動かせないが、どうやら自分は背中を天井に向ける形で、うつぶせに寝ているらしい。

真っ先に目に飛び込んで来たのは、頬の下にある柔らかな布の光沢。

これほどまでに柔らかく、滑らかな布を佐波は知らない。

そして沈み込みそうなほどに柔らかい布団が身体の下に敷かれているのに気付き、狼狽えた。


―――ここは…


薄暗い部屋だ。だが風通しは良く、湿気はほとんど感じられない。

出来れば顔を動かして部屋の大きさを確認したいところだが、首に力を入れようとすると背中が刺すように痛み、仕方なく断念した。


―――少なくとも、佐波が世話になっている屋敷にある端女用の泊り部屋―――およそ10人が寝起きする―――よりは確実に広そうだ。


ぼんやりした明かりが閉ざされた障子から零れ、まだ新しい新緑色の畳を照らしている。

光の加減か、庭にある池の波紋や魚の姿が時折影となって現れて、佐波を驚かせた。


―――…随分と趣味のいい屋敷にいるらしい。


偶然にしても美しいその光景に、佐波はこの屋敷の持ち主は相当の金と家位を持つ人間だと判断した。


―――私は…


状況を整理しようと、目覚める前の最後の記憶を呼び起こそうとした佐波の耳に、慎ましい足音が聴こえて来る。

思わず身を固くした佐波に構わず、足音の主は障子越しに影を落とし、そして部屋の前でピタリと止まると膝を折った。


「失礼します」


誰に対しての言葉なのかも分からないまま、すっと音も無く障子が開く。

逆光で表情までは伺い知れなかったが、入って来たのが若い女性であることはその柔らかい影で分かっていた。

彼女は固い表情で目を瞬かせている佐波に気付くと、ハッとした様子で側に寄る。


「お目覚めですか?どこか、痛むところはございませんか?」


一介の豪族使用人に向けられるにはあまりに丁寧な女性の態度に、緊張が高まった。

いきなり斬り掛かられるとは考え難いが、それでも見知らぬ屋敷で無防備な、しかも碌に動けない状況では不安にもなる。

佐波の目に浮かんだ戸惑いに気付いたのか、女性は表情を穏やかにして語りかけて来た。


「すぐにお医者様を御呼びしますわ。その後でお着替えをしましょう」


ニッコリと微笑まれて、女性が大層な美人であることに気付いた。

年齢の頃は佐波より少し上…20前後だろうか。

艶やかな長い黒髪を後ろで結い上げ、花の簪を差している。

その女性の慈愛に満ちた笑顔に、思わず頬が熱くなった。

同じ”女”だというのに、自分と彼女のこの差は一体なんだろう。


―――いや、今はそれよりも…


「ここ…」


声を発しようとしたら、喉が鋭く痛んだ。

咳き込もうにも、身体が痛んでそれどころじゃない。

苦痛に悶える佐波に、女性は慌てたように覗き込んできたが、佐波の問わんとするところを汲み取り、


「ここは大皇都内にあります溟楼庵の事務処で、臥龍城がりゅうじょうと呼ばれている屋敷です。先日の火事で怪我をされた従業者はすべてここに運ばれておりますわ。覚えていらっしゃらないかと思いますが、あなた様が運び込まれてから3日ほど経っておりますのよ。あれから丸々二日意識がお戻りになられませんで、随分心配いたしました」


弾む様に言う。その言葉に、記憶がふわりと蘇った。


―――そうだ、私は火事で…………………………あれから…三日!?


愕然とした。

瞬時に浮かんだのは、火事の直前まで一緒にいて雇い主の三男坊を探していたひさめのこと。

突然火の気の方角に向かって走り出した佐波を、彼は後ろから追いかけてきたはずだ。


―――あの後…彼は…ほかの使用人達はどうなっただろう。


火事の混乱はあったが、もし三男坊があの後見つかったなら、直ぐさま彼を連れて宿に引き上げただろうことは容易に想像がつく。

佐波が居ないことに気付いた使用人もいるだろうが、お目付役である本分を全うするのが彼らの役目。わざわざ探しまわったりはしないだろう。

でもそうなると…


さぁっと血の気が引いた。


―――あ、あれから三日って…!!も、もしかして…私、捨て置かれた…!?


佐波の記憶が確かなら、あの宵は皇都滞在の最終日前夜。

あの堅物の長兄が、帰ってこない使用人を待つ為に滞在を延ばしたりなんか絶対にしないだろう。

考えたくはないが、佐波はこの皇都でお役御免となったと考えるのが妥当だ。


―――まさか、ここまできて職を失うなんて…!!


自業自得とはいえあまりに”痛い”。

今更後悔しても遅すぎるが、ここでの失業はつまり、今後の生きる糧を失ったことを意味する。

これといって特技もなければコネもない自分が、これからどのようにして見ず知らずの皇都で一人生きて行けばいいのか…


完全に途方に暮れ、愕然としている佐波に、女性はおろおろと問った。


「如何されました?傷の具合が宜しくないのですか?すぐにさい様を―――お医者様をお呼びしますわ」


「お待ちください」と口早に言って女性が立ち上がると、それとほぼ同時に廊下から軽い複数の足音。

そしてそれを追いかけるように、低い男の声が障子越しに聴こえた。


「こら!お前らは…!ここにはまだ立ち入り禁止だと言っただろう?」


男の声にも足音は止まらない。

たたたたた…と迷いの無い足取りで駆ける二つの小さな影は、佐波のいる部屋の前でぴたりと止まった。


「あら…」


女性が少し困ったような声を上げる。

絶望の縁に辛うじて引っかかっていた佐波も、場の空気が変わったことに気付き、伏せていた顔を上げた。


障子を隔てて、二人の子どもの影が揺らめく。

同じくらいの背丈の二人は、中の様子を伺う為にか、しばしその場に佇み―――


そ、と襖が開かれる。

そこから部屋を覗き込んだ二人の子どもに、佐波が「あ」と小さく声を漏らすのと同時に、女性がため息をついた。


真灯まほ耶灯かほ。まだ来てはダメだと言ったでしょう?」


柔らかな叱責に、まるで鏡に映したかのようによく似た子ども達が、全く同じ仕草で俯いた。





天津国…死した者が昇る、神々の国。現世の業と徳は来世にも持ち越される。



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