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佐波が濛々と立ちこめる煙の中から脱出し、ようやく建物の外に飛び出したその瞬間。
地面が揺れるほどの轟音と共に、建物が拉げるように崩れ落ちた。
爆熱風と飛び散る破片に背中を強打されて、悲鳴を上げる間もなく少し離れた地面まで吹き飛ばされる。
それでも意識が残っていたのが幸いして、腕の中の少年を守る為に辛うじて受け身を取れたが、地面に転がるようにして倒れ込むと、背中に感じる激痛に意識が飛んだ。
「おい、大丈夫か!?誰か手を貸してくれー!」
「水だ!水持ってこい!」
「担架だ!怪我人がいるぞ!」
地面に倒れる佐波の姿に気付いた人々が駆け寄ってくる。
顔に冷たい水をかけられ、気が遠のいていた佐波の意識を浮上させた。
「…っ ぁ…っ」
「あんた、生きてるか!?今運んでやるからな…!…ん?」
男は、あまりの激痛に悶える少女の腕の中に抱え込まれたままの少年の姿を見つけて、仰天したように叫んだ。
「真灯じゃねぇか!なんでここに…!」
その大声に、腕の中の少年は糸が切れた様に泣き出した。
自分を抱えたまま倒れている少女の胸に縋り付き泣きじゃくる。
まるで母を亡くした子どものようなその光景に、事情を知らずに見ていた野次馬は涙を誘われた。
「どうしたの!?」
このクソ忙しい時に一つ箇所に固まっている群衆に苛ついた女性―――サツキが、殴り込む様に輪の中心に入ってくる。
そしてその中心が先ほど自分の制止を聞かずに建物に入って行った少女だと気付くと、周りに鋭く解散を叫びながらも、少女の側にしゃがんだ。
「良かった、生きてたのね!あら、でも死にかけてる?」
「おおおい!女はともかく…!」
男に促されて、サツキはそのキリッとした目を泣きじゃくる少年に向け、やはり仰天したように叫んだ。
「ま、真灯!えっ でも、そンなはずは…!真っ先に助けが向かったはずよ!」
「わからねぇが、生きて助かったのは間違いねぇ…。総主は?」
「今は臥龍城に上がられてイるわ。耶灯も一緒のはず…。でも分からなイわ。真灯がここにイるぐらイだもの…確認して!」
「お、おう!」
鋭く命令を下したサツキは、次いで泣きじゃくる少年に声をかけた。
「真灯、真灯、ここは危険よ。早く総主の元に行かなくちゃ」
優しく言っても、少年は頑にこの場から離れようとしない。
いっそ気絶させて運ぼうかとも思ったが、今すぐに命の危機を感じているわけでもない以上、さすがに今後のことを考えて行動を慎んだ。
それにしても、こんなに感情を爆発させている少年をみるのは、これが初めてだ。
いつもお人形のように、その無機質なまでの美しさでただ飾られていた少年。
子どもらしく泣く事もなければ、心から笑っている姿を見た事も無い。
きっとこの火事に相当のショックを受けているのだ―――
そう思い、もう一度優しく諭そうとしたサツキより早く、血と煤と泥で黒く染まった腕を持ち上げて、倒れたままの少女が胸の上にある少年の頭を撫でた。
―――大丈夫。大丈夫。怖くない。怖くない。
佐波の意識は混沌としており、その瞳はもう何も映していない。
それでも泣き続ける少年の頭を撫でたのは、母性という本能によるものだ。
サツキはその光景にぐっと喉を詰まらせた。
―――いけない、泣くところだった…!
泣いてる場合じゃないのに!と思いながらもやっぱり泣きつつ、サツキは佐波の霞んだ意識に呼びかけた。
「大丈夫よ。あなたも絶対助ける。でも今は少し堪えてちょうだイね」
佐波に頭を撫でられて少し落ち着いたのか、泣きつかれて脱力している少年を後ろから抱え上げると、サツキは自分の相棒を呼んだ。
「ルッカ!ルッカ、イる!?」
未だ砂埃と火の粉が舞っている道上から、大きな影がのそりと動くのが分かった。
彼はその巨体を活かして、先陣を切って鎮火活動に貢献していたのだ。
サツキに呼ばれた大男は、煤に汚れ、もう白とは呼べなくなった布を頭から被った姿で現れると、言葉も無く彼女を見下ろす。
いつものように「汚れたんだし鬱陶しいからその布取ったら?」とでも軽口を叩きたいところだが、今はそれどころではない。
サツキは腕の中の少年をルッカに差し出して、
「大至急、真灯を臥龍城に運んで。総主には後で直接報告するわ」
大男は一つ頷くと、軽く少年を腕に抱え、存外な素早さで未だ騒然としている大通りに消えて行く。
あの巨体で気配を忍ばせるのが得意だというのだから不思議だ。
サツキはその背を見送ってから、ぐったりした佐波の姿を確認する。
煤で汚れて判別し難いが、恐らく火傷も一箇所や二箇所じゃ済まない。
もしかして、と思い、そっと背中側に回ったサツキは思わず息をのんだ。
真っ先に目に飛び込んで来たのは、背中…肩の辺りに刺さった木片。
深さの程も分からないそれは、下手に動かすと命を落としかねないだろう。
焼かれた背は、衣服がボロのように纏わりついているだけの半裸で、血と煤で汚れて赤黒く変色し、全面に血が滲んでいる。
一見しただけで重傷とわかるその傷に、サツキは焦りを抱いた。
―――移動は無理ね…。ここで措置をするしかない…!
それでも助かるかは五分だ。
ここで助かっても後日感染症を発症する可能性を考えれば、生存率は三割を切る。
遊郭界隈の医者は全て集められているが、それでもまだ人の手が足りない状況を考えると、どう考えても自分で措置するのが一番早そうだ。
サツキは盛大に舌打ちすると、それでも受け止めきれない現実を呪うように、火の粉の舞う夜空に向かって吠えた。
『なんだって私、こんなサバイバルな異世界に飛ばされちゃったわけ!?』
早口で捲し立てたその言葉は酷く滑らかだったが、この皇国に―――
否、この世界に、その言語を理解出来る人間はほぼ存在しないのであった。
「”溟楼庵”が火事だと…!?」
その頃、大皇都の中央宮・東塔の一室にて、早馬の知らせを受けた壮年の男がいた。
綺麗に整えられた灰色の髪と髭を持ち、やはり相応に威厳のある召物に身を纏った男の、常ならぬ愕然とした様子に、早馬の使者は息を切らしながらも「は!」と短く答える。
「西館より火の手が上がり、乾いた風に煽られて炎上した模様です。あの勢いですと、恐らく東館も全焼でしょう」
灯油[あかりゆ]を大量に使う遊郭街は火の回りが断然に早い。
歴史上、かつて栄えた遊郭街が客の倒した行灯一つで消炭になったのも、一度や二度のことではないのだ。
「…何が原因だ」
壮年の男の低い問いに、使者が肩を震わせた。
「…未だ不明です。ですが、火事の前に刃物を持った男が溟楼庵に押し入ったとの情報が」
「刃物を持った男だと…!?」
「遊女の手引きがあったようです」
壮年の男は、冷や汗の浮かぶ額をぐっと手のひらで押さえた。
―――まさか…もしそうなら…どこから洩れた…!?
男はしばし苛立ったように窓の外―――溟楼庵のある方角を見据えていたが、やがて重苦しく息をついた。
「…すぐに、皇帝閣下に謁見を申し込め。私が―――左相が大至急お耳に入れたい事がある、と」
「はっ!」
察しのいい使者は、直ぐさま部屋から出て行く。
しん、と静まり返った部屋が、妙に白々しく感じるのは、身の内にある焦り故だろうか。
―――来るべき時にはまだ早い。だがもし、そうだとしたら…
男は眉間に深い皺を刻んだまま、苦渋の表情で謁見の支度にかかった。