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溟楼綺譚  作者: 上遠野
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「火事だ!」

「鎮火砂を運べ!」

「火に回られるぞ!早く逃げろ!」


溟楼庵に近づくにつれてキツくなる物が焦げる匂いと、人々が逃げ惑う喧噪。

それらを掻く様にして、佐波は走っていた。


―――以織、以織!


心の中には、友の姿しか浮かばない。

もし溟楼庵の西館にまだ取り残されていたらと思うと、居ても立ってもいられなかった。


―――守らなきゃ、私が、今度は…今度こそ、私が!


体裁も、三男坊のことも、身分さえ今の佐波には関係ない。

ただ心配だった。不安で、消えそうだった。


佐波が今ここに生きているのは、友との約束があったからだ。

それがもし無くなってしまったら。


無くなって、しまったら。


―――本当は気付いていた。

これは以織の為じゃない。

以織への罪悪感をどうにかして消したいが故の、愚かな自己満足だ。

でも、そうでもしなければ、生きて行けなかった。

一番の友を、家族よりも愛した人を身代わりにした自分を、どうして許す事ができるだろう。

佐波が自分にそれでも生きる事を許したのは、優しい以織が最後に言った、あの優しい約束があったからだ。

側から居なくなっても、まだ彼の幻影に支えられている。その事実に打ちのめされる。

だから。―――だから。


佐波は、人ごみをかき分け、やがて視界に炎の切れ端を捉えた。


―――”めいろうあん”の西館!


既に幾人もの火消が屋根を伝い、大きな槌で燃え盛る炎と戦っている。

下からは流れ作業で鎮火砂を火元に投げ込み、遊女や陰間達を避難させる為の下男達が必死に立ち回っていた。

その中に知った顔を見つけて、佐波は躊躇わず駆け寄った。


「あの!」

「うるさイ!今取り込ンでンのよ!」

「あの!!」

「もう何、よ…?あれ、あなた―――」


鬼のような形相で振り返った女性は、あの時の黒髪の女性―――サツキで。

驚く彼女に、佐波は負けないくらい鬼気迫った顔で、叫んだ。


「これで全部ですか!?」

「な、なに!?」

「これで、全員ですか!?」


館から逃げ出た彼らを、下男達が素早く誘導していくのを指差しながら問うと、女性は怪訝な顔をしながらも答えてくれた。


「イイえ!まだ中にイるわ!火の回りが早イの!奥の方は――」


助からないかもしれない、そう唇を動かしたサツキの瞳が陰る。


―――以織。


焼け出された遊女や男娼、野次馬の中に友の姿を探す。

誰もが逃げ惑うこの喧騒の中では、一人一人の顔を判別することなど不可能だ。


―――もし、ここに居ないのなら…。


ぐっと顎を引いて、黒煙と炎の上がる遊郭を見据える。

火の粉が宵の闇に舞い上がり、恐ろしくも幻想的なまでに美しいその姿は、夜に羽撃はばたく巨大な蝶の様であった。


―――以織。


佐波の心臓が大きく鳴った。


「え、ちょっと!あなた!?」


サツキが静止するのも待たずに、佐波は消火用にあった水桶をそのまま被り、袖を破いて口と鼻に巻き付ける。

そして周りの静止を一切無視して、煙の充満する館の中へと飛び込んだ。


熱風に皮膚を嬲られ、煙にやられた目から涙が溢れる。

奥から逃げてくる人々に押し戻されそうになりながらも、佐波は一人奥へと進んだ。


―――以織…!


脳裏に友の姿を描く。


以織は色が白く、線の細い少年だった。

黒髪は女の佐波よりずっと艶やかで、長い睫毛に縁取られた濡れたような黒い瞳は、いつも真っ直ぐに佐波を見つめてくれた。

周りの大人は不思議と彼の容姿に気を止めていないようだったが、佐波は彼ほど美しい人を見た事が無い。

それはあれから5年経った今でも。


―――5年。5年間。


最後にその姿を見たとき、彼は15歳だった。

でも今は、二十歳の青年になっているはずだ。

あのまま成長しているなら、きっと美しい青年になっていることだろう。

ここ何年もまともに鏡を見ず、髪は適当に結べる長さに切り、剣ダコとあかぎれだらけの固い手のひらをもつ自分とはかけ離れた姿。

それを惨めと思う気持ちは、とうに捨てた。

もし彼を見つけ出し、いつか身請けできるほどの金が貯まったら、自分の全てをかけて彼を自由にすると決めている。

その為の犠牲ならば、どんなものでも差し出してみせる。


下男に肩を担がれながら、幾人もの男娼とみられる若い男たちが運ばれて行く。

その顔を逐一確認しながら、佐波は頭の中に描いた二十歳の以織を探し求めていた。

どの男も美しいが、煤で汚れぐったりした様子の彼らの中には、佐波の知る友の姿はないように思えた。


―――以織、無事でいて…!


佐波は、口元を布で覆っても尚息苦しい煙の中を、もがく様にして進む。

あまりの苦しさに立ち止まると、肺がゼィゼィと嫌な音をたてた。

立ちこめる煙の向こうに、赤い火種がちろちろと燃えているのが見える。

どこかで柱が崩れたのか、轟音が響き、天井から木片が飛び散ってきた。


入った事も無い炎上中の建物に、居るかどうかもわからない人間を捜す為に入るだなんて、酔狂の極みだ。

それでも探さずにはいられないのだから、もしかしたら自分はこの5年で狂ってしまったのかもしれない。

自嘲の笑みを布の下で浮かべながら、佐波はそろそろすれ違う人も居なくなった廊下で息を整えると、


「誰かいないか!!」


ごうごうと燃え盛る火の音に消されないように、一声大きく叫ぶ。

叫びながら襖を開け、中に人の姿がないか確認しながら進む。


「誰かいないか!!」


喉が焼ける様に痛い。息を吸い込むと煙で咽せてしまう。

これより奥に行けば引き返せないかもしれないというところまで来て、佐波はようやく足を止めた。


ゼィゼィと荒く息をつく。流れる額の汗を拭ったら、べっとりと黒い煤がついていた。


―――…潮時か。


頭ではここまでだと分かっているのに、心の中の自分が引き返そうとしている自分を口汚く罵っている。


―――もしこの先に以織がいたら。もし助けを求めていたら。もし。もし。


考えすぎて、頭が割れそうだった。

やり場の無い感情が弱っている心を強く叩いて、涙が出て来る。


―――ダメだ。これ以上は進めない。でも、引き返すことも出来ない。もう、どうしたらいいのか分からない…!


脆くなった心が瓦解する寸前。



どこからか、子猫の鳴き声が聞こえた。



それはか細い、ともすれば聞き逃してしまってもおかしくないほどの小さな音。

だが佐波の耳には、確かに聴こえたのだ。


―――…猫?


壊れかけた意識をもう一度積み上げる。

痛む頭を抑えて耳に意識を集中すると、また聴こえてきた。


子猫のような、甘い鳴き声。―――否、悲鳴だ!


「だっ、誰か…!」


いるのか、と叫ぼうとして咽せる。

煙が充満して来て、もう声を上げる事は不可能のようだった。

佐波はしゃがみ込み、煙が少ない床付近を這う様にして声の主を探す。

二つ目の襖を開けたところで、もう一度か細い悲鳴が上がって、佐波はようやくその声が廊下の少し奥、崩れた柱の辺りから上がっていることを知った。

慌てて這って行くと、壊れた柱の下から男の手がだらりと伸びているのが見えた。

逃げる途中で柱の下敷きになったのだろう。

もしや以織では、と一瞬で青ざめた佐波は、懸命に立ち上がると柱を必死で持ち上げた。

その途端、悲鳴が大きくなる。

ハッとして見ると、柱の下に、小さな少年が身を縮めていた。

質の良さそうな着物を来ているが、その幼すぎる姿からして男娼ではないだろう。


―――禿かむろか。


遊郭には遊女や男娼、下男下女の他に、いずれはお座敷に上がる幼い美童たちがいると聞いた事がある。

彼らは”姐や”、”兄や”の小間使いとして働いているというし、恐らくこの少年もそうなのだろう。

佐波は持ち上げた柱を苦労して脇に退かすと、まず少年を引っ張り上げる様にして抱えた。

震えながらしがみついてきたその小さな身体に労りの言葉をかけたかったが、すっかり煙でやられてしまった喉からは掠れた息しか出てこない。

変わりに小さな背中を何度も撫で、佐波の首に手を回してしがみつく少年の頭に頬擦りをする。

そして煙の届かない床に彼をそっと下ろすと、涙で濡れた少年の目を見つめて「待ってて」と目で合図をした。

年齢よりも賢いのか、少年は佐波の意図を解して泣きながら小さく頷いたが、その手はしっかりと佐波の服の裾を掴んで離そうとしない。

仕方なく、そのまま身を低くして瓦礫の下にあった男の手の脈を確認する。


―――…途絶えている。


男の腕より先は瓦礫にすっかり埋まってしまっていて、掘り出すことは困難に思えた。

もしこれが以織だったら、と背筋が寒くなったが、男の手に古い刀傷を見つけてその可能性の薄さに気付く。

よく見れば、鍛えられた浅黒い腕だ。

男娼のものには思えない。

かといって下男の腕にしては逞しすぎる。

用心棒の誰かだろうか、と検討を付けていた佐波の袖を、少年が引いた。


―――そうだ、早くここから出なくては。


埋まっている男には悪いが、自分は生きてこの少年を外に連れ出さなければならない。

頭の端にちらりと浮かんだ”以織”の文字を振り切る様に、佐波は震えながら再度しがみついて来た少年を前に抱え、破いた袖で彼の鼻と口を塞ぐと、ぎゅっと抱きしめる。


―――苦しいだろうけど、我慢して。


めきめきと音を立てて崩れようとしている廊下を、佐波は引き返す為に猛然と走り出した。




サツキは『イ』『オ』『ン』の発音が苦手です。


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