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「!?」
「こりゃあ…」
危機一髪、その場を飛び退いて無事だった佐波と男だったが、目の前にバラバラと落ちる木片や、辺りに広がっていく混乱に、なす術も無くその場に立ち尽くした。
壁に空いた穴から立ち上る粉塵と、そしてその穴から流れ出る甘い”香”。
怒声、罵声、そのさらに奥から上がる女の金切り声。
どうやら内部で何かが起こっているようだが―――
「ルッカか…」
側で小さく呟いた男は、佐波に問う隙を与えずにカラリと笑った。
「すみませんね。どうやらあっしらの仲間の仕出かしたことのようだ。たまにあるんで。まぁ、言った先から今回はその派手なやつみてぇですがね」
言うなり、今度こそ身を翻す。
「お気をつけ下せえ。ここにはここの掟がありやす。素人さんが知らずに首を出したら、たちまちちょん斬られちまうような恐ろしい掟がね。どうぞご自愛くだせぇ。―――では、よい宵を」
「あ、」
男は、集まってくる野次馬を上手く避けながら、悠々と人ごみに消えていった。
”以織”の情報を聞き出そうとしたのだけど、どうやら機会を逃したようだ。
佐波は嘆息し、集まりだした野次馬に、ここにいては何かと厄介だと、とりあえずこの場を離れようと歩き出し―――
「誰か!そイつ捕まえて!!」
後方、壁の穴の奥から響いた女性の声に咄嗟に振り返り、そしてすぐ背後に迫っていた男に思わず―――蹴りを見舞った。
「ぎゃっ」
見事に腹部を直撃した佐波の蹴りに、二つ折りになって男が地面に転がる。
周りからどよめきと歓声が上がって、佐波はようやく自分が面倒なことに立ち会っているという実感が沸いて来た。
一通り苦悶しつつも、それでもすぐに立ち上がり逃げようとする男に、これはもう一度蹴りを叩き込んだ方がいいのかと一瞬思案した、次の瞬間。
素早く身を翻した佐波の頬を、白刃の巻き起こした風が撫でる。
その鋭利な煌めきを目の端に捉えて、舌打ちした。
―――二人いたのか。
佐波は動きを止めずに、男が白刃を繰り出す為に伸ばした腕をすり抜け、その胸元に飛び込む。
間合いを詰められた男は一瞬鼻白んだが、すぐに手首を返して剣を横に払う様に薙いだ。
———今!
がくん、と重心を一気に落とす。そして腕を軸にして男の足に一撃、鋭い蹴りを入れた。
ぐぅっと唸ってバランスを崩した男。だが、屈強なその身体を倒すには至らない。
「…!」
今の機会を逃したのは痛い。なにせこちらは丸腰。相手に刃物がある限り、どうしてもこちらが圧倒的に不利となる。
屈んだ勢いで後方へ飛び、地面の砂を一握り掴んで投げつけるが、それでも白刃の男は揺るがない。
すぐに体制を整えると、真っ直ぐ切っ先をこちらに向けて飛び込んでくる男。
この間合いでは、初太刀はどうにか避けられても二太刀目はどう考えても避けられそうにない。
ぐっと顎を下げた佐波の目は、それでも男から外される事はなく。
だから向かい来る男が、ドンッという重たい音と共に視界から消えた瞬間も目撃していた。
戸惑う暇もない。
集まっていた野次馬から悲鳴が上がり、見れば、白刃の男は群衆の方まで吹き飛ばされていた。
「…!?」
何があったのか頭で理解できず、周りの状況を確認しようと視線を動かし―――
「ぎゃっ!?」
目の前にすっと差し出された巨大な手に、佐波は間抜けな悲鳴を上げた。
「あ、ごめンねー。ルッカ、あンた怖がられてるじゃなイ」
巨大な手の向こうから、ひょいっと黒髪の女性が顔を出す。
訛りのきつい皇国語。
この国の妙齢の女性には珍しく、髪を顎に添うくらいの長さで揃え、前髪は短めだ。
少女のようなあどけない表情をしているが、キリッとした目元に彼女の聡明さが現れている。
彼女がフォローを入れてくれてようやく、佐波は手の主の姿を視界に捉えた。
―――というか、視界がこれは”人”だと認識した。
だが。
———に、人間…?
男の身の丈は、遊郭の軒一階部分程の高さがあった。
体格はそれに似合って逞しく、恐らく実践で鍛え抜かれたであろう見事な筋肉をしている。
滅多に見ない大男なのは間違いないが、しかし男の特徴はそれだけではない。
男は頭部から肩まで、不思議な模様の入った白い布を被っていた。
目のところだけは辛うじて見える様になっているが、それ以外の部分は徹底的に隠され、ただでさえ威圧感のある外観に凄みを加えている。
唖然として見上げる佐波の視線にも頓着した様子も無く、彼はただじっと、半分尻餅をついていた佐波に手を差し伸べていた。
———どうやら、彼女達が助けてくれたらしい。
だが、そもそもこれはなんの騒ぎなのだろうか?
佐波は内心ドキドキしながらも、男の差し出している手を有り難く掴み、立ち上がった。
「あの、ありがとうございました。助かりました」
「イーのイーの。とイうか私たちの方がオ礼を言わなきゃなンだから。オ陰でしっぽは掴ンだわ」
「しっぽ?」
「こっちの話。ともかく、オ手柄ね。もしかしてどこかの用心棒さんだったりするの?」
「え、いや…ただの使用人です」
「勿体なイわねー。あ、それともわざと隠してるの?オ忍び?」
「い、いいえ!本当に一介の使用人です。それに言われる程強くはありませんし」
佐波の世話になっている屋敷は、仕事の内容で給金が格段に変わる。
端女と住み込みの用心棒とではだいたい三倍くらいの差が出るのだ。
佐波はどうしても金が入り用だったこともあり、空いている僅かな時間で独学し、時間を持て余している気の良い用心棒に相手をしてもらって、どうにか多少の武術の心得を得るようになった。
そして世の中には学問に秀でた頭を持つ者がいるように、佐波の体は武術に向いていた。
これは貴族の子女として生きていては決して見出されなかっただろう能力であるから、開発された時の複雑な心境といったらなかった。
今までは給金の為にと、ただそれだけの為に鍛錬をしてきたが、こうした状況に置かれてみると、あの頃体中に痣と傷を作り、地を這いながらでも学んでおいてよかったと本気で思う。
それはともかく、佐波としては一刻も早くここを離れたい心境だった。
大男が吹っ飛ばした白刃の男と、これまたいつの間にか昏倒していた佐波が蹴り飛ばした男は、他の男達に縛り上げられ、どこかへ運ばれて行った。
色々気になることはあるとしても、ここは佐波の世界ではない。
佐波には知らない事情があり、常識がある。
先ほどの小柄な男が言った様に、素人が首を突っ込んでは怪我ですまないだろう。
佐波は、一先ず大男と女性に頭を下げ、
「では私はこれで」
「え、もう行くの?オ茶くらイごちそうするわよ。ルッカが」
「……」
大男がもの言いたげな空気を発したのでビクリとしたが、結局彼は何も言わず、ただ渋る女性をひょいと肩に担ぎ上げた。
「あ、ちょっと!全く、あンたは力加減をしらなインだから。どうすンのよこんなに壊しちゃって。またオ給料減るわよ!しかもなぜか私の!」
どうやら、彼女達は二人で一組のようだ。
語彙は豊富のようだが不思議な訛りの皇国語を繰る女性と、”ルッカ”と呼ばれる大男。
———皇国の生まれではないのか…
と、そんなことを考えながらそのやりとりを眺めていると、大男の肩に乗った女性が、佐波を見下ろして言った。
「ごめンなさイね。色々迷惑かけちゃって。貴方が女用心棒だったら、ここで雇イたイくらイなンだけど、どうやらそれも出来なイみたイだし…。惜しイなあ」
「ええっと、すみません…」
思わず謝った佐波に、女性は可笑しそうに笑った。
「謝る事じゃなイわ。そうね、まぁでも、多分またすぐに会えるわね。そンな気がする」
そんな物騒な予言しないで欲しい。と本気で思った佐波だったが、とりあえず頷いた。
「またどこかで」
それを別れの挨拶代わりに口にし―――ふと、今度も危うく忘れそうになった質問を思い出した。
「あの、そういえば私、人を捜してるんです」
「人?あなたの主?」
「いえ、あ、それも一応目をつけとかなきゃいけないんですが、私の探し人はまた別にいて―――」
ようやく佐波がそれを口にしようとした時、開いた壁の中が俄に騒がしくなった。
「おい!誰か手を貸せ!遊女が…!」
壁の穴から顔を出した下男風の男が叫び、それにいち早く動いたのは、大男の肩から飛びおりた女性だった。
「どうしたの!?」
「サツキか!遊女が敬麻邢を飲みやがった!今吐き出させてるが、意識がねぇ!」
敬麻邢とは猛毒だ。敬麻と呼ばれる薬草の葉は病に効くが、邢と呼ばれる根には猛毒がある。
何処にでも自生しているワケではないが、栽培は比較的簡単なので、近頃では軒先で育てる家庭も増えているという。
その毒を自ら飲んだというのは一体?
「っ!手引きか!」
険しい声で女性が短く叫ぶ。
その言葉で、大体の事情は察せられた。
先ほど大男———ルッカに成敗された男達を手引きし、この遊郭に忍び込ませた者が、内部にいたということか。
確かに武器になるようなものは一切携帯できないよう、関所で厳しく検査されるはずであるのに、男は一振りの刀を持っていた。
内部の手引きでもないかぎり不可能なことだろう。
だがそれが遊女となると―――
「客は?」
「東棟に避難させてる。遊女も…だが、こうなちゃぁ…」
「…仕方なイ。番台はなんて?」
「とりあえず総主の指示を仰ぐと」
「ふン、まぁ、妥当ね」
女性は佐波と話していた時とは打って変わった剣呑な雰囲気を放ちながら、男にテキパキと指示を出した。
「その遊女の交友を辿って。中で何か洩らしてるかもしれなイ。男二人は生け捕ってるけど、情報は多方面からあったほうがイイ。それと当面の間、館内の東と西の行き来を断絶させるよう、番台から総主に進言させて」
「うげぇ!そういう心臓に悪い役を押し付けんなよなぁ」
「文句言わなイ!ほらルッカも、行くわよ!」
女性の呼びかけに、大男は素直に付き従う。
―――もしかしてこの女性、ここでは結構な肩書きがあるのかもしれない。
ぽかんとその様子を見ていた佐波に、一旦は壁の向こうに消えた女性が再び顔を出して、笑顔で手を振った。
「ごめンね煩くて。楽しンで行ってねー」
それきり、女性は辺りの喧噪まで引き連れて颯爽と消えて行った。
残されたのは遅れて騒ぎを聞きつけた野次馬が少しと、展開に取り残された佐波のみ。
”めいろうあん”の壁に空いた穴とその中で慌ただしく揺れ動く影を少しの間眺めた佐波は、やがて嘆息すると、くるりと踵を返した。
この様子では、金の有る無しに関わらず、”めいろうあん”の中に入る事ことも、ましてや内部を探ることなど到底出来ないだろう。
変に動いて、今の主に迷惑がかかるようなことがあれば、切り捨てられても仕方が無い身の上だ。
再びこのような機会が佐波のような使用人に巡ってくるとは思えないが、それでも、今回は日が悪過ぎたようだ。
―――せめて…
人垣をすり抜けて、来た道を戻る佐波の胸に、じんわりと寂寥が滲む。
―――せめて、無事だけでも、知りたかった。
脳裏に浮かんだいつかの友の姿に、やるせない気持ちだけを抱いて、佐波はただ俯いて歩いた。