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溟楼綺譚  作者: 上遠野
33/35

33



「皇帝の、愛妾を…」


反芻して理解しようと紡いだ声が途絶える。

いや、途絶えたのはうつつに寄せていた意識だ。


瞬き一つ。それだけで、佐波の意識はあの日に飛んでいた。






―――君影は大夫だった―――


陰鬱な声が聴こえる。

薄闇に目を凝らすと、闇に融けるような…いや、闇に浮かび上がる程黒い衣を纏った男の姿が。

佐波も良く知るその男は、何の感情も伺えぬ陰惨な顔で、再び口を開く。


―――最期の顧客は、前皇帝だ―――






「…どうした?」


ぱちん、と泡が弾けた。

もう一度瞬けば、目前の黒い医師は、美しい貴人に姿を変える。

記憶のあわいにいたのは、ほんの数秒のことだったのだろう。

それなのに、まるで数刻は経っているかのような深い疲労感に襲われて、佐波は右手で顔の半分を覆った。


―――まずい…


途端に脳天から一気に血が下がる気配がして、くらりとよろめく。


「な、大丈夫かっ?」


慌てて支えてくれたのは、やはり目前の梓星だ。

怪我をしている肩に出来るだけ触れないようにしている所為か、殆ど抱きしめている形に近い。

それに気付いて瞬時に頬を染めた梓星とは対照的に、佐波の顔は青ざめて、微かに震えている。


「大丈夫、です」


どうにかそれだけ紡ぐも、チカチカと定まらぬ視界に吐き気まで襲ってきて、どうやっても身体に力が入らない。

握力も戻らず、しがみつくことも出来ないで腕の中でぐったりとなった佐波に、梓星は落ち着かない様子で、


「や、やはり無理だ。今のお前の様子では、俺が踏み台にでもしようものなら、命に関わるぞ」

「……で、すが…」

「いいから無理をするな。…酷い顔色だ」


大きな湿布をした佐波の頬を心配そうに撫でて、彼は佐波をゆっくりと布団に座らせた。

本当は横にならせた方がいいのだろうが、布団の上にへた、と座り込んだ佐波は何かに耐えるように目を瞑って、微動だにしない。

そんな佐波の弱々しい姿に動揺していた梓星が、ようやく落ち着きを取り戻す頃。

どうにか目眩から解放された佐波は、詰めた息を吐き出して言った。


「―――…すみません、お手を、煩わせました…」

「そんなことは気にするな。それより、早く横になれ」

「いえ、もう大丈夫です」

「大丈夫じゃないだろう」


怒ったような口調で言う梓星に、佐波は情けないような、眩しそうな笑みを浮かべる。


「梓星様はお優しいですね」

「やさ…っ優しくなど…!」


この期に及んで何故だか必死に否定しようとする少年を微笑ましく思いながら、佐波は「申し訳ありません」と続け、


「話の腰を折ってしまいました。…続けて頂けますか?」

「話?………あ、ああ、大夫の話だったな」


気を取り直した梓星が、思い出すように言葉を続けるのを見つめる。


「皇帝の愛妾を『大夫』と呼ぶ、ということは話したな。つまり皇帝が通えば、それが例え下位の男娼であっても、その者は遊郭の最上位である『大夫』と呼ばれることになる」

「…では、皇帝が通わなければ…」

「ああ。遊郭に男娼大夫は存在しないことになるな」


淡々と続ける梓星に、佐波はそっと俯く。

『男娼大夫』『皇帝』『顧客』―――その意味を、このような機会に知る事になろうとは…

いや、それどころではない。もっと重要なことを見過ごしていたのだと、佐波はようやく気付いたのだ。


―――前皇帝陛下は、梓星様の御身内……確か、御兄上様でいらっしゃったか…


先帝陛下崩御の報せを聞いたのはいつだったろう。確か———そうだ。2年前の、春先だった。

豪族家の下働きの仕事にも慣れ、休み時間に武術を習いながら、凡々と日々を過ごしていた頃。今思えば、佐波の人生の中で一番生活が安定していた時期だ。

最初にその報をもたらしたのは、行商で入ってきた薬売りだった。彼は「まだ御若いのにねぇ。病は気からっていうし、皇帝ってのも気苦労が多いんだろうねぇ」としきりに同情の意を陳べながら、熱心に心が楽になるという香を薦めて帰って行った。

聞く話によれば、若くして賢帝と呼ばれていた皇帝陛下が崩御されたという突然の報せに、皇都は上に下にの大騒動だったらしい。だが遠く離れた田舎州の布津では話題になるのも一瞬で、その後すぐに皇位が代替わりしたという話を聞いて、それで終いだった。

一応、崩御されたまだ若い皇帝陛下に世継ぎの御子がいないという話も上がったが、弟殿下存在が明らかになってからは、噂好きの下女達でさえ興味を無くしたようだった。せめて泥沼の世継ぎ争いでもあったならば、もう少し噂されていたかもしれないが……


———…いや、止そう。


頭の中で考えているだけでも、目の前の少年に対して不誠実だ。

未だに実感がないが、彼は先帝の親族———どころか、その後を継いだ現帝陛下なのだ。

色々な場所に飛躍したくなる思考を押さえ込んで、今は目の前の事に集中すべきだろう。

……すべき、なのに。


心の一部に、青い霧が広がる。


———…そうか…以織は…少なくとも、先帝陛下に愛されていたのか…


それが彼が望むものであれ、望まぬものであれ。少なくとも、居場所に惑うことはなかったのか。


じわじわと心の湖面を覆っていくそれは、喜びだろうか。哀しみだろうか。

苦しいような、切ないような…少しだけ安堵するようなこの感情の名は、なんというのだろう。

迫り来る感情に呼吸が苦しくなるほど胸が詰まって、佐波は意識して深く息を吸った。


———時間が欲しい…


ゆっくりと物思いに耽る時間。過去を整理し、今を正し、未来を探る時間が。

考えた所で、職もなく、充ても無く、女の身で———しかも今現在無実の容疑をかけられている自分に、明るい未来などありはしないだろうが…

思い返した現実はあまりに情けなくて、思わず笑みさえ零れる。


佐波の苦いその笑顔を訝し気に見ていた梓星は、ふと何かに思い至ったらしい。

急に大変慌てた様子で口を開いた。


「い、言っておくが、別に愛、愛などなくたって、大夫を指名することは出来るのだぞ!」

「…えっ?」


再びぱちんと目の前であわいが弾けて現実に引き戻された佐波は、梓星の言葉に驚きの声を上げた。

彼は苦々しい顔で続ける。


「俺だって、選びたくて選んだわけじゃない。ただ、仕方なく———」

「仕方なく…?」

「っ……だから、俺には愛妾など必要なかったのだ!それなのに毎度毎度勧められて迫られてもう自暴自棄というか、なんというか…!だから、その、こうやって逃げ出して……」


言い出したはいいが気まずくなったのか、尻窄みに言葉が消えてゆく。

それでも、何と言葉をかけたらいいのかと黙り込んだ佐波の反応に怯え、無理矢理に口を開いた。


「い、今まで…この一年間、それでもどうにか耐えたのだ。指名など一度もしなかったし、2度同じ男娼が宛てがわれないように先手を打つ事もした。どうにかすれば、家臣の方が諦めてくれるんじゃないかと思って……だがもちろんそんなことは、或るはずもなかった。…今日初めて男娼を指名したが、郭主も家臣達も大層喜んでな…。歴代の皇帝に比べればかなり遅いが、遂に現帝おれにも”愛妾”が出来たと………いや、俺が宣言したわけではないのだぞ!?ただ彼奴らが勝手に騒いで愛妾愛妾と!そもそも俺は全ての男娼達にも一度として指一本触れさせたことはない!いやまぁ高杯を受け取る時に指くらいは触れたかもしれないが…っ だが疾しいことは一切なかったと誓って言える!誓ってな!

…………俺は何で弁解してるんだ!?」

「さ、さぁ…?」


本当になんで弁解されているのか分からないが、とにかく梓星が何かしらの『誤解』を恐れていることはその必死な言い分から理解できる。

興奮で赤くなった顔で乱れた居住まいを正す彼を、佐波は小首を傾げながら見つめ、


「……つまり愛妾というのは名ばかりの関係でも成り立つ、ということでしょうか」

「!そ、そうだ!俺が言いたかったのはそれだ!」


我が意を得たりと顔を輝かせる梓星。

表情がくるくる回る彼はやはり愛らしいが、話の内容は少々不安を抱かせるものだ。


———愛などなくても……


再び意識が青い霧に覆われそうになったところで、痺れを切らしたのか、梓星が「だから」と声を上げて我に返った。


「今日俺が取引をした男娼は、俺の指名を受けて大夫…俺の愛妾・・となったのだ」

「はぁ、なるほど…」

「―――それで?」

「…へ?」


なぜだか問いを投げかけられて、素っ頓狂な声が出た。

梓星の口がムッと歪む。


「お前が言い出したんだろう?ここに来る前に、最上閣にいたのかとか、なんとか」

「え、…ああ、はい、申しました、確かに」


そういえばそんな話だったとオドオドする佐波に、梓星はさらに口を曲げた。


「で、どうなんだ。何か思いついたのか?」

「ええ……ええーっと…」


まさかすっかり忘れそうだったとは言える空気ではない。

確か、どうやってここから脱出するかという話だったはずだ。

慌てて記憶の引き出しをひっくり返し、先ほどの会話の中から糸口を探った。


「…まず、隠し通路ですが…」


どうにか絞り出した言葉に梓星が頷き、佐波はほっとして続けた。


「大夫という存在が不確定なのであれば、最上閣が大夫の部屋と決まっているわけではないのでしょうね。ならば『部屋棲み』ということもないのでしょう。となると、男娼が最初からその通路を知っていた可能性は低い…ではその男娼は誰から隠し通路を教えられたのか……これは、恐らく郭主が有力でしょうか。皇帝陛下御用達ともなれば、逃げ道の一つや二つ用意していてもおかしくありません。もしかしたら、歴代大夫にしか教えない通路なのかもしれませんね。それなら、大夫が知っていたのも納得出来る———……ですが、そうなるとはやり…」

「はやり?」

「…やはり、その男娼が最上閣へ戻る道を教えてくれなかった理由がわかりません」


結局問題はその一点なのだ。

夜が開けて、皇帝が部屋にいなくて困るのは男娼も一緒だろう。

一瞬、やはり欲望に目先が眩んだか?とも思ったが、仮にも皇都随一の遊郭街に身を置く高級男娼に、それくらいの分別も備わっていないというのは大問題だ。

ともすれば、いくら皇帝の愛妾という肩書きがあれど、処刑されてもおかしくない失態なのだから。


———それとも、男娼は最初から梓星を部屋に帰さないつもりだったのか…?だとしたら、なぜ……


ふと、思考を掠めた恐ろしい想像にはっとして、佐波はたじろぐ梓星を無視して強く凝視した。


「……梓星様」

「な、なんだ?」

「もし、この部屋にいたのが私ではなく」

「う、うん?」

「…あなた様を亡き者にしようとしている者であったなら、どうなさったのです」


我ながら低い声だった。

もちろん自分のような使用人崩れが皇帝陛下の行動を咎められるわけもないのだが、この場で彼に進言出来る者は自分しかいないのだから仕方が無い。


言わんとしていることに気付いて、ひく、と頬を引き攣らせた梓星に、佐波は全てを悟って深く息を吐いた。


「……梓星様」

「わ、わかっている!その、軽卒だったと…」

「軽率で済む問題ではありません。梓星様の御命は、梓星様が考えらているよりも、ずっと重いのですよ」

「わかっているっ」

「分かっていらっしゃられない。私は、」


拗ねてそっぽを向こうとする梓星に、佐波は自分でも驚くほど明瞭に言葉を紡いでいた。


「梓星様を、心配しているのです」

「……心配、か?」

「心配です」


ビクッと肩を震わせた梓星が、次いで不思議そうに小首を傾げる。

出過ぎたことを言っていると一応自覚している佐波は、自分を諌めて眉根を下げた。


「申し訳ありません、私のような者が、梓星様にこのようなことを申すのは大変無礼な振る舞いであると承知しています。ですが、もし梓星様が、また次にこのようなことで誰かに嵌められたらと思うと…堪らなく哀しいのです」

「哀しい…?」


頷いて梓星を見ると、彼は瞠目していた。その瞳の中に、夜空の星のような煌めきが幾つも浮かんでいる気がする。

特別なことは言っていないと思うが…と少々疑問に思いながらも、佐波は続けた。


「今回は、結果的には私のような無力極まりない人間でしたが…男娼がここを空き部屋だと偽り、刺客を忍ばせていた可能性もあったはずです。…むしろ、そちらの方があり得たかもしれない。遊郭ここは皇宮とは違うのです。…いえ、例え皇宮であっても…どんなに万全を期した場所であっても死角は生まれます。この遊郭で言えば、まさにこの部屋です。梓星様が今ご無事でいるのは、奇跡的なことなのです。…それに、もしかしたら私がこの部屋に居た為に、刺客が入ってこれなかっただけかも」


脅すように言いながら、…いや、それはないか。と内心でひっそり思う。

佐波の為に計画を変更出来る程、容易に次の機会に恵まれることだとは思えない。

ましてや、梓星が男娼を『愛妾』としたのは今日この日なのだ。これが計画のうちならば、随分と用意周到で手際の良い、連携のとれた組織が関わっているはず。そしてやはり、そんな組織が佐波の為に計画を変更するとは思えない。

佐波の存在は彼らには想定外だったかもしれないが、部屋から逃げる事も出来ない怪我人なのだから、もし始末するにしても、それは赤子を泣かすより容易だっただろう。

ということは、暗殺が目的と考えるのは少し無理があるか…


―――ならば、目的は皇帝の暗殺ではなく、拉致か…?


物騒な方向に佐波の思考が働いている間にも、梓星はそわそわと佐波を見ている。

叱られている真っ最中だというのに、その瞳は期待に満ちて輝き、頬がほんのり染まっていた。


「……どうなさいました?」


場違いささえ感じさせる雰囲気を発する梓星に、一旦考えるのを止めて向き合う。


「…俺がいなくなるのは、哀しい、か?」

「もちろんです」


呟くような声音に強く即答すると、その双眸が…いや、双眸どころか、表情までとろんとけた。

理由が分からずに困惑する佐波に、花に喩えられるだろう美しいかんばせが、朝露を含んだ蕾がそうっと開くような色香を纏わせて、艶やかに微笑んだ。


「…哀しいの反対はなんだ?」

「…へっ?」

「哀しいの、反対は?」

「う、嬉しい…?」


何の問答だろうと身構える佐波に、梓星は満足そうに頷く。


「で、俺がいなくなるのは哀しいんだな?」

「え、ええ、もちろん…」

「なら、俺と共にいるのは?」

「へ、え?」


哀しいの反対なんだろう?と艶やかな顔で微笑まれて、佐波はぽかんと間抜けな顔になった。


———そ、それは今話すべきことなんだろうか…いやいや、それより何だろう、この空気は。


舌に触れる空気が甘い。

経験の薄い佐波でも察するほど、場の空気がおかしな方向に変わってきているのが分かって困惑する。


———わ、話題を変えないと拙いことになりそうだ…


拙い事が具体的に何なのか分からないまでも、本能で危機を察知した佐波は、無理矢理毒気のない笑顔を浮かべた。


「と、ともかくご無事で何よりです。…ところで、この部屋は最上閣からどれくらい離れているのでしょう」

「…どれくらい、というと?」

「ええっと、その、何階、というか…」


自分がいる建物が何階建てなのかも知らない…というより、自分のいる部屋すら建物のどこに位置するのか知らない佐波が、大変苦しい心持ちでそれを口にする。

怪しまれるかと思ってビクビクしていたが、梓星は普通に視線を上に向け、思い出すように呟いた。


「そうだな…確か、階段を3つ…4つは下りたか」

「4つ……え、その前に、階段とは?」


聞き捨てならない言葉に目を瞬かせると、彼は何でも無いことの様に、


「ああ。この部屋に辿り着くまでは、殆ど垂直に階段を下りるだけだったのだ。この部屋の上にきて、急に階段が無くなったんだが、床板の薄さからこの下に部屋があると察して、男娼の言葉の通りに床板を———」

「お、お待ち下さい!男娼の言葉通り…!?」


思わず前のめりになって聞くと、梓星は少し身体を引き、


「あ、ああ。帰る方法は言っていなかったが、最上閣から降りる際に、『行き詰まったら床板を外せ』と…」


そしたらこの部屋に辿り着けたのだ、と彼は事も無げに言ったが———


「『行き詰まったら、床板を———』」


佐波の視線が、梓星の来た真上の穴から、そろりと下り、自身の座りこむ布団に落ちる。

うん?と梓星も同じように上から下へ視線を降ろし、一瞬言葉が途絶え―――次の瞬間。

音のする勢いで同時に互いを見ると、二人は声を揃えて叫んでいた。


『床板!』





まだここか!って自分でも思います。展開が遅くて申し訳ない…

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