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「まさか…お前が俺の足場になるというのか?」
確認せずにはいられないといった表情の梓星に、思わず「出来れば私も遠慮したいのですが…」と本音を洩らしつつ、佐波は部屋の壁端―――四角い潜り戸を指差した。
「そこの扉は外から施錠されているようですし、ご覧の通り、この部屋には他に出入り出来るような場所は…あ、天井以外ですが…ありません」
「施錠?……ああ、そうか、お前はまだ仕置きの途中なのだったか」
「え、ええまぁ…それに、別の場所から出られるのは危険です」
いくらここが皇族御用達の遊郭であっても———この若き皇帝の顔を知っている者がそうそう居るとは思えないが———用心に越したことはない。身分を抜きにしても、梓星は見た目だけでも十二分に高貴な姿をしているのだ。知らぬ場所に出たが最後、物取りや破落戸[ごろつき]の獲物となる可能性が高い。
となると、一番安全かつ最短で元の部屋に戻る道といえば一つしかない。
「ほどなく夜が明けます。その時に梓星様が不在とあっては一大事です。加担した男娼にも、とばっちり…じゃなかった、身代わりとなった兵士にも罪が及ぶのは間違いありません」
その時は、佐波など問答無用でこの場で首を落とされるだろう。思わず小さく笑ってしまったが、笑っている場合ではないなと気を引き締める。それでもここまで連続して死の危機に瀕していると、感覚が麻痺してくるものらしい。なんとも滑稽な人生だ、と開き直る気持ちすら湧いてきている。
そんな薄ら暗い感情が表に出ていたのか、梓星の表情に微かに怯えが見えて、佐波は慌てて心を隠した。
「そのような惨劇を生まぬ為にも、梓星様にはどうやっても元の御部屋へ戻って頂かねばなりません」
「あ、ああ…それは勿論」
「というわけで」
戸惑う梓星の言葉を遮り、今度は頭上にぽっかり開いた暗い天井穴を指差した。
「私を足場にして上ってください」
「……いや、無理だろう!」
一瞬絶句し、直ぐに声を荒げた梓星に、佐波は「大丈夫です」と請け負った。
「私も一度で上れるとは思っていません。体格差もありますし…私が足場として役不足であるのは承知しています。最悪上れない可能性もありますが……ですが、とりあえずやってみる価値はあるかと」
「ち、違う!そういう意味じゃない!」
何故だか酷く狼狽した様子でそう言い、もどかし気に梓星は首を振った。
「そうじゃない…別に上れるかどうかを気にしているんじゃなくて…だから…あれだ」
「あれ?」
「その……だから、お前を…」
「…私を?」
「……踏み台には出来ないと、そう、言っているのだっ」
あとは分かれ!と顔を赤くして怒鳴られて、佐波はぽかんとした。
―――わ、分かれと言われても…
…それは、私が役不足過ぎて不安だと言っているのだろうか。いや、上れるかどうかの話ではないと言っていたな。ならば、ただ単に私が足場なのが不満なのだろうか。ああ、それとも優しい彼のことだ。もしかしたら彼は私の身体のことを気遣ってくれているのか―――
そこまで一気に思考を流して、最後に辿り着いた推測を頼りに言葉を返してみる。
「御気遣いは大変有り難いのですが、私でしたら大丈夫です。確かに多少は怪我に響くでしょうが…」
「だから!怪我のことでもなくて…!いや、怪我ももちろん気になるが!」
「えっ、…違うのですか?」
どうしたことか。梓星の意図が全く読めない。
困って眉を下げると、梓星も同じように眉を下げた。まるで「どうしてお前は分からないんだ?」と言外に言われているようで居たたまれない。案の定、彼はぷいっと横を向いて「もういい!」と一声上げた。正直全然良くはないが、どうやらこの方法が不興を買っていることは間違いないようだ。
―――でもなぁ…
他の方法、といっても、すぐに思い浮かぶものは無い。天井までの高さは、佐波と梓星が肩車してようやく上れる程だ。だが体格差から梓星が佐波を肩車することは出来ても、逆は無理だろう。佐波が先に上って梓星を引っ張り上げるという方法も考えたが、左肩の怪我の所為でそれも無理だとすぐに気付く。せめて梁か何かがあれば、布団を破って綱代わりにするのだが…生憎天井の穴の先は深い闇で、闇雲にしてどうにかなるとは思えない。
―――梯子なんて贅沢は言わないから、せめて足場となる台の一つでもあればいいのだけどなぁ…
分かっていながらも期待を込めて見回した室内には、やはりというか、当たり前のように何もない。あるのは佐波の布団くらいだ。これを折り畳んだとしても到底天井には届かないし…
…やはり説得するしかないか…と心を構え、口を開きかけた佐波は、ふと、疑問を覚えた。
「…あの、梓星様」
「なんだっ?」
噛み付くような勢いで問い返されて口籠りつつ、どうにか疑問を言葉にする。
「…この場所を教えたという男娼は、帰る方法については何も言っていなかったのでしょうか」
切っ掛けを掴んだ所為か、言葉にしている間も、まるで水門を開けられた貯水湖のように疑問がどんどん溢れてくる。
―――そうだ。考えてみれば不審な点は幾つもある。
どうしてその男娼は、皇帝を匿うという大胆な行動をとったのだろう。いくら欲に目が眩もうと、自身にも危険が多い賭けだ。失敗すれば命がないことに、まさか気付いていない理由[わけ]も無い。
ましてや、この部屋への着き方を教えておきながら、帰る方法を何一つ教えていないというのも…
―――いや、そういえば、男娼はここを『空き部屋』だと言っていたらしい。
その男娼が私の存在を知らないのは至極当たり前のことだから、彼の発言自体には不思議はないが……ということは、私がここに入る前は、天井に上る為の台になるようなものが部屋にあったのだろうか。
―――もしや、私が部屋に入る為に撤去された、とか…?
ヒヤリと背中を撫でる推測を慌てて振り払って、佐波はもう一つ別の疑問を提示した。
「それに、梓星様は『中間階』を通ってこられたと仰っていましたが…」
「あ、ああ」
「…天井裏に通じる『中間階』というのは、もしや『隠し通路』だったのではないでしょうか」
「隠し通路?」
きょとんとした梓星は、だがすぐに「ああ」と納得した表情を見せた。
「そうだろうな。道理で妙な道を辿ると思った」
「…お気づきになられませんでしたか?」
「うん。そもそも『中間階』なるもの自体、初めて通ったからな」
皇宮にも『隠し通路』はあるが、このような木造ではないし、と平然と言われて反応に困る。
そうだった。梓星はただの貴族ではなく、皇族なのだ。一般の建物…遊郭がそれに含まれるとは思わないが…の構造についてなど知るはずも無い。
梓星の「そもそも中間階とはなんなんだ?」との問いに、佐波は出来るだけ失礼にならないように言葉を選んで、簡単に解説することにした。
「一階と二階、二階と三階…などの建物上下の間に作られる空間です。普通の一般家屋で『中間階』を持つ建物は滅多にありません。無駄な空間をわざわざ作るような余裕はありませんし、管理も面倒ですから。でも、家格が大きくなりますと、中間階を好んで作る者も多いです」
「なぜだ?」
「防音対策というのもありますが…隠し部屋や物置に使えるからというのが、一番の理由のようです」
佐波の暮らしていた貴族家にも中間階はあった。一族の者と少しの信頼を受けた使用人しか知らない隠し通路兼隠し部屋として使用されていたが、一番利用していたのは恐らく佐波だ。兄妹達の執拗な苛めから逃げるのにはうってつけだったから。
―――あの頃は、よく以織と一緒に隠れ回っていたな…
ふと懐かしい記憶が過って、無意識のうちに頬が緩んだ。
二人でいれば、それだけでどんな苦境も楽しめた。逃げて、隠れて、それでも見つかって、また逃げて。
佐波にとっては有り難い道連れだったが、以織はどうだっただろう。兄妹の側についてさえいれば、彼は他の使用人たちから疎まれることも、大変な仕事を押し付けられる必要も無く、平穏無事に過ごせていたはずなのに。
当時は彼が離れてしまうのが怖くて言い出せなかったが、本当は何度か伝えようとしたのだ。
私の側にいる必要はないと。そこまで尽くしてもらえる程の価値は、私にはないと。
―――もし伝えていたら。
心に冷たい風が吹き込む。雪。あの日の粉雪が目前を覆う。
―――彼が身代わりとなって、遊郭に売られることはなかったのだろうか―――
「―――か?」
「…えっ?」
ハッと我に返ると、腕組みをした梓星が怪訝な表情で見下ろしていた。
いつの間にかぼんやりしていたらしい。未だ霞がかったような頭を少し振って、佐波は「すみません、もう一度…」と聞き返した。
「だから」と梓星は続ける。
「この郭の『中間階』が『隠し通路』だとして、それが何か手がかりになるのか?」
「え、ええ。…手がかりというよりは、その男娼の話が不審であるいうことの証明になるかと」
「不審か?」
佐波は「はい」と答え、気を取り直した。
「『隠し通路』をその男娼が知っていたというのは、少々理屈にあいません」
「…そうか?」
遊郭の者なら誰でも知っていると言っていたぞ、と言って眉根を寄せる梓星に、佐波は首を振った。
「いいえ。そのはずは…多分、ありません。もし遊郭で働く者が皆その存在を知っていたら、遊郭の秩序が崩れてしまいます」
「秩序?…というと?」
「具体的には窃盗や盗聴…手引きもあるかもしれません」
その言葉に、梓星が瞬く。
「手引き…客と逃げ出すということか」
「はい。私も遊郭の事情に明るいわけではありませんが…少なくとも、遊郭を経営する側からすれば、遊女男娼にそのような可能性のある道をわざわざ教えるでしょうか」
思い込みは危険だと思うが…当時布津随一とはいえ、田舎の貴族であった佐波の生家でもそうだったのだから、要人も多く訪れるという皇都の遊郭でその掟がないというのは、逆に不可解だ。
それとも、その『中間階』の入り口は余程見つけ易い場所に――誰でも気付けるような場所にあったのだろうか。と思って問うと、梓星は眉根を寄せたまま「いや」と応えた。
「男娼が床板を開くまで、そこに扉があることにも全く気付かなかった。見事に部屋の景観に融け込んでいたしな」
「ならば、自分で探すことはまず不可能ですね…」
殆ど無意識に呟きながら、今まで伝え聞いた『遊郭』についての情報を頭の中で並べ立て、一つ一つ弾いていく。
遊女男娼の部屋割りについて———確かこれは、何処からか流れの行商人に聞いたのだったか、それとも豪商家の使用人に聞いたのだったか———とにかく多くの遊郭では、遊女男娼は自分の『部屋』を与えられ、そこで寝起きし、夜にはその部屋で客を取るのだと聞いた気がする。そういう遊女男娼は『部屋棲み』と呼ばれ、他の部屋を与えられない者達よりも良い待遇を受けるのだとか…
だが、それがこの遊郭に…皇国随一の遊郭街に当てはまるかどうかは分からない。ここに居る全ての遊女男娼は全州全皇国内最上級で、その意味では全ての者達に部屋が与えられていてもおかしくないのだ。
暫し考え、埒が明かないと気付くと、佐波は自分よりもよっぽど詳しいであろう目前の少年に問った。
「梓星様は、こちらに来られる前は、最上閣にいらしたのでしょうか」
「ああ、そうだが?」
「ということは、その男娼というのは、所謂”大夫[だゆう]”だったというわけでしょうか」
男娼大夫と遊女花魁。どちらも遊郭の一番人気、品も格も全てが最上と認められた者のことだ。
当たり前だが、相応に美しく博識でなければ務まらない。彼らは遊郭の生きる看板であるから、郭主はを挙[こぞ]って飾り立て、贅の限りを与えるそうだ。部屋だって最上級…つまるところの最上閣に逐[お]わすのが自然というもの。そう思っての言葉だったが、何故だか梓星は困惑したように眉根を寄せた。
「大夫だったというか……大夫になった、というか…」
「”なった”?」
「…お前、知らないのか?」
不審気に問われて、ぎくりとする。もしかして、何か常識という名の地雷を踏んでしまったのだろうか。
言葉を探して視線を彷徨わせた佐波をどう思ったのか(恐らくまた勝手に推測を働かせたのだろうが)梓星は「ああ…」と同情の視線を寄越し、
「そうか、お前はまだ遊郭[ここ]に来て日が短いのだったな…」
知らないのも無理は無い、と慈悲深い声で呟かれて、佐波は余計に心拍数が上がるのを痛い程感じながら、こくりと頷いた。ここに来て数日なのは嘘ではないし、彼が思っている通り、遊郭に突き出される日もそう遠くない(らしい)。それでもなんとなく嘘をついている気分になって俯くと、それも梓星は都合良く受け取ってくれた。
「す、すまない…辛いことを思い出させたか…。その怪我も、掟を知らなかったが故なのだろう…惨いことだ…」
「ええっと、ええっと…!そ、それで、”なった”というのは…?」
どのような惨い想像をしているのか、曲解が進み過ぎて涙まで浮かべ始めた梓星に慌てて先を促す。
梓星も我に返ったようで、表情を引き締めて頷いた。
「ああ、そもそも、この遊郭街には”遊女花魁”はいても、”男娼大夫”は常時存在するわけではない」
「…?いつも居るわけではないと?」
「そうだ」
首を傾げる佐波に、梓星は明確に言葉を紡いだ。
「男娼大夫は、全て皇帝の意向次第———皇帝の愛妾を”大夫”と呼ぶのだ」