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溟楼綺譚  作者: 上遠野
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堰を切って流れ出した珠の涙が、白磁の頬に跡を残し、板張りの床に落ちてゆく。

幾筋も、幾筋も、煌めいて佳人の頬を濡らす様は、まるで一枚の美しい絵画のようで。

紙縒りの炎に照らし出されたその光景を、佐波は唖然と見上げた。


―――涙…


涙とは、こんなに美しいものだっただろうか。


―――美しい人が流す涙だから美しいか。それとも、心根の美しさが反映されるのか。


思わずぼんやりと涙についての考察を始めた佐波に対し、当の本人は自分の目から溢れるそれが涙だと気付くまでに、数秒を要したようだ。

零れ落ちた雫を掌に受け止めた彼は、束の間硬直し、


「――…っ み、見るな…!」


炎を宿したように、ぼっとその美しい顔を赤面させた。

慌てた様子で涙を拭う梓星に、すっかり魅入っていた佐波はハッと視線を逸らし、小声で「すみません」と謝る。

正直何に対して謝っているのか自分でも定かではなかったのだが、泣き顔など男子が見られて心良いはずもない。

ましてや相手は皇帝陛下だ。人前で泣くという行為が『弱音』と同等に非奨励されていることは間違いない。


―――ええっと…


逸らした視線を不自然に彷徨わせ、


―――……どうしよう…


佐波は途方に暮れた。


この場合、やはり泣かせたのは自分なのだろうか。

特別傷つけるようなことを言ったつもりはないのだけど、もしかしたら心傷に触れてしまったとか…

或〈あるい〉は、本当に泣く程辛かったのかも…

いやそれよりも、これって一体どれくらいの不敬に当たるのだろうか…


今日一日ですっかり社会的常識を失いつつある佐波は、麻痺した感覚を取り戻そうと、この国で最も高貴とされる御方を盗み見た。

しかし彼〈か〉の皇帝陛下は、懸命に涙を引っ込めようとしているのか、目を拭ったり上を向いたりと、実に愛らしい動きを繰り返している。

確かにこの愛らしさでは、家臣たちがこぞって仕事を取り上げ、ちやほやしたくなる気持ちも分かる気がしてしまう。

本人にしてみれば、己の威厳の無さに悄然としてしまうのだろうけど。


―――もしかしたら、本人が思っている程、周りから邪険にされているわけではないのかもしれない。


肯定的にとれば『可愛がられている』。

敢えて否定的に言うならば『子ども扱いされている』という表現の方がしっくりくるのではないか。

もちろんそれを利用してくる輩もいるのだろうから、やはり見逃せないことだとは思うが…


現実から逃れようとふらふらと思考を漂わせていた佐波だが、いつの間にかすっかり泣き止み、視界の端でちらちらとこちらに視線を寄せ、時折唸り、頭を抱えたかと思うと、真っ赤な顔で髪を掻きむしり始めた梓星の様子に、さすがに見過ごせなくなった。


―――だ、大丈夫だろうか…?


「あの…」


心配になって佐波が声をかけようとした瞬間、梓星は何故だか飛び上がって驚き、掠れた声で叫んだ。


「そ、そろそろ、戻る!」

「え、あ、そう…ですね」


考えてみれば、彼がこの部屋に来てもう数刻は経ったはずだ。

何処からか壁をすり抜けて未だ聴こえてくる賑やかな笑い声からして、夜明けまではもう少しあるだろうが、そろそろ元の部屋に戻っておいた方が無難だろう。

しかし、なんだか最後になってぎくしゃくしたまま別れなければならないのかと思うと、自分勝手にも胸が痛んだ。

しかも、もう二度と直接拝顔することも叶わないのだ。

考えて急速に沸き上がった寂寥を、けれど佐波はゆるりと首を振って押しとどめた。


―――元々、すれ違うはずもない人生だったのだ。


『たった一度の邂逅』ではない。一度でも出逢えたことに意義がある。


―――見誤ってはいけない。勘違いしてはいけない。


互いに生きる場所が違うだけのこと。

朝と共に覚める夢でも、覚えていられるならば…記憶は残る。宝玉のような、記憶が。


無意識に右手を握りしめ―――佐波は、かねてから気になっていた事をようやく口にした。


「………ところで、どうやってお帰りに?」

「うっ」


痛いところを突かれたのか、呻きを上げた梓星に、佐波の頬が引き攣った。

まさか、本当に行き当たりばったりで来たのか…。

その行動力には感心するが、これが一国の皇帝ともなると少し不安にもなる。

目に見えて動揺している彼に、佐波は少し考え、これしかないか…と覚悟を決めた。―――痛みに耐える覚悟だ。


「……少し、御手を拝借しても?」


布団から動く右手を出してそう言うと、その意味を瞬時に解した梓星は目を見張った。


「お前、起きられるのか?」

「いえ…どうでしょう。でも足の怪我は大したことないと思うので…」

「足?…まさか、立ち上がるつもりか?」

「はい」


自力では無理だが、誰かに手を借りればどうにかなる…ような気がする。

試してみないことには分からないけれど、固定されて全く動かせない左腕はともかく、両足は骨折もしていないようだから、痛みに耐えさえすれば立ち上がれるだろう。

と、無理矢理楽観視して半ば自棄で伸ばした佐波の手を、梓星が恐る恐る掴んだ。


「腕を…どうすればいいんだ?」

「あの、ゆっくり上にひっぱ痛たたたたたっ」

「す、すまん!」


怪我人など触ったこともないであろう彼は、やっぱりというか、力加減を知らなかった。

腕をいきなりぐーんと引っ張られ背中の傷が嫌な音を立て、直後脳みそにがつんときた激痛に目から火花が飛んだ。

あまりの痛さに言葉もなく悶絶する佐波を、梓星がオロオロと見下ろし、


「む、無理に起き上がる事はないぞ?」

「~~……っ い、いえ、起きます」


喘ぐような激しい痛みをぐっと堪えて力強く言い切り、もう一度腕を伸ばす。


―――今度は自分の方からも力を入れて、身体に負担をかけないようにして…


ここで起き上がることが出来れば、自分にとっても良いことだ。

いつまでも寝たきりでは、面倒をかけている早音様にも迷惑をかけることになる。

そう奮起して伸ばした腕を、今度は先ほどよりももっと恐る恐る、そして優しく掴んだ梓星は、そっと身を屈めて佐波の脇に手を入れると、腕全体で背中を支えてゆっくりと佐波の半身を起こした。

そのあまりにも自然で献身的な動作に、佐波は心底驚いた。


「あ、ありがとうございます…」

「いや…」


照れたのか、頬を赤らめて少し距離を取るように身を離したが、掌で佐波の背中を支えることは忘れていない。


―――凄いな…


今まで殆ど経験がないことでさえ、彼は本来の優しさと相手の立場を想像することで簡単に実行してしまった。

誰にでも出来ることではない。普段優しさに触れている人間でさえ、相手を慮〈おもんばか〉る立場になれば、直ぐにとはいかないものだ。

改めて目の前の彼の才能に敬意を表しつつ、佐波はもう一度、今度は立ち上がる為に尽力を願った。

端から見れば使用人風情が高貴な御方に世話をされるという、特に彼の家臣が見れば卒倒ものの光景であるが、当の本人達は至って真剣だ。

互いに意志を通わせ、途中軸を歪ませながらもどうにか立ち上がることが出来た佐波は、体中を駆け巡る鈍痛に堪えながら「お手を煩わせました」と笑顔で礼を述べた。

礼を受けながらも注意深く佐波の脇を支えていた梓星は、並び立ったことで下に離れた視線に驚いたのか、目を見開いて言う。


「……お前、随分小柄なのだな」

「そ、そうですか?」


並んでみれば、確かに梓星とは頭一つ分ほどの差が出来た。

座っている時はどこか少女のようにも見受けられた梓星の容貌も、こうして下から見ると、若竹のようにすっくと伸ばされた背が如何にも青年らしい。

それでも、同年代の身体を酷使する仕事を持つ者よりもずっと華奢だし、労働の為の筋肉がついてない所為か嫋〈たお〉やかにも見える。


―――でも性別の違いもあるわけだし、私が特別小柄ということもないはずだけど…

 

小首を傾げると、梓星は鷹揚に頷き、


「ああ、お前くらいなら俺でもすっぽり―――…そ、そそそそういえば、歳は幾つだ?」


不自然に話題を変えた。

それに内心戸惑いつつ、答える。


「17です」

「17っ?………見えんな。14、5かと思っていた」

「14、5…ですか?」


これもまた小首を傾げる。年相応だと思うのだけど…


―――……いや、もしかしたら、何か多大な勘違いをされているのでは…


何となく嫌な予感を覚えながらも、あまり言及したくない話題だったので、ここは敢えて触れずにおくことにした。


「…梓星様はお幾つですか?」


気を取り直して問うと、彼はなんとなくそわそわした様子で答えた。


「俺か?俺も17だ」

「同い年なのですね」


やはりそうか、と笑みを零す佐波に、梓星は一瞬動きを止め、


「そうだな……」


ぽやんとした顔で呟く。

心此処にあらずなその表情に不安になってそっと袖を引けば、再び飛び上がらんばかりに驚かれた。


「ななななんだ!?」

「い、いえ…急ぎましょうか」

「そ、そうだな!」


こちらも状況を思い出したのか、気を取り直した表情で、


「それで、立ち上がってお前は何をするつもりだ?」

「梓星様の足場になります」

「あしば?」

「お戻りになられるのでしょう?」


何故だか要領を得ない顔の梓星に、天井を指差してみせる。

布団の敷かれた場所のほぼ真上。ぽっかりと一部分だけの闇がこちらを覗いている。

説明するまでもなく彼が降って来たその穴を、当事者である梓星はぽかんと見上げ———盛大に頬を引き攣らせた。





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