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溟楼綺譚  作者: 上遠野
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若き皇帝陛下———梓星〈しせい〉のあまりにも悲壮な叫びに、佐波も衝撃を受けた。


———こ、ここは『男娼遊郭楼』だったのか…!


佐波が尋ねた時、空木はここを「溟楼庵の姉妹楼の一軒」と言った。

だからてっきり、自分は遊郭街の何処かの『遊女楼』の空き部屋にいるのだろうと思い込んでいたのだが、でも確かに溟楼庵では遊女・男娼の両方を置いている。男娼楼が姉妹楼でも間違いはないのだろう。

空木がそれを敢えて教えなかったのかどうかは…少々邪推してしまうところだが。

脳裏でにやりと笑う痩せた若い男の面影を必死に端に押しやって、佐波は思考を切り替えた。


―――…なるほど。それで陛下がこの男娼楼の何処かから『逃げて』こられた凡〈おおよ〉その理由はわかった。


もう一つ、なぜ歴代の皇帝たちが、多少の不自由を圧してまでも遊郭に通っていたのか…その理由も。


恐らく、『華栄の悲劇』の後、郭関係者の皇宮への出入りも禁止となったのだろう。

あの惨劇の影には、大量の遊女を皇帝に売り込んだ遊郭主たちの思惑も大いに関係していると聞く。

再び悲劇を繰り返さぬ為にと定められた新しい掟は、以来遊女との交わりを禁じ、郭関係者の登城も堅く禁じたが、しかし皇帝が遊郭に通うことは許した。…否、許さざるを得なかったのではないか。

義務で凝り固められた皇帝という生は、きっと市井の民が思うよりもずっと不自由なものだ。

飢える事も、身分に泣く事も、格差により暴力に震えることもない。しかしだからといって、幸福とも限らない。

その境遇は丁度、『籠の鳥』に喩えられる遊郭に囲われた美しい娼婦たちと重なる。

彼女たちと逢い、語らい、身体を重ねる事は、きっと皇帝という孤高の殿上人にとって何よりの癒しであり、唯一寛げる時間。それを取り上げる事は、家臣たちにも到底出来はしなかった。

だからといって遊女を抱かせることも出来ず…。

その煩悶の中から生まれた掟は、皇帝に男娼を宛てがう事で歪にも収めることと相成ったわけだ。


―――その気遣いが逆に、この若き皇帝陛下を苦しめているという、なんとも本末転倒な現象を起こしてはいるのだが…


同情とも感心ともとれる奇妙な表情で頷く佐波に、梓星はここぞとばかりに言葉を重ねる。


「家臣〈あいつら〉は、俺をダシに遊郭に通いつめているんだ。皇帝の御付きといえば体裁も良いからな。しかも遊郭への支払いは国庫で、時間外の公務手当も付く。信じられるか?あいつらからすればこれも『公務』なのだと。莫迦らしい。何が公務であるものか!あいつらが従うべきはずの皇帝〈おれ〉は執務を邪魔されて、あげく望んでもいない男娼を宛てがわれるんだぞ!」

「お、お声が…」


大きいのでは、と焦って注意する間もなく、憤りも露〈あらわ〉に据わった暗い目で佐波を見据えた梓星は「想像してみろ」と低く呟いた。


「一晩中。一晩中だ。皇帝〈おれ〉に気に入られようとあれやこれやと手を尽くす男娼を前に、横になることも叶わず、部屋の隅で身を堅くして過ごす気まずさといったら、相当なものだぞ」


あまりの剣幕に押されながらも、佐波は素直にその姿を想像した。

この、花の顔〈かんばせ〉のような麗しい皇帝が、一晩中部屋の片隅で両膝を抱えて硬直している姿を。


「……」


確かに、不憫だ。不憫を通り越して、なんだか愛らしささえ感じる。

思わず緩みそうになった頬を引き締めて、佐波は精一杯沈痛な声で言った。


「それは…お気の毒です」

「そうであろう!?しかもこれが、かれこれ一陽期(一年間)以上も続いているんだぞ!?俺の我慢にも限度がある!」


同調されたことが嬉しかったのか勢いを増す梓星に、佐波は「はぁ」と力無く相槌を打ち、ふと浮かんだ疑問を素直に口にした。


「あの…例えば、宛てがわれた男娼を下げてもらうことは…」

「もちろん、出来る。直ぐに次の男娼が宛てがわれるだけだがな…!」

「さ、左様ですか…」


麗しい顔から地を這うような声が発せられて、さすがに愛らしいなどと思っている場合ではなさそうだと気付く。

本気の悩みには、本気で向き合わねば不誠実というものだ。

佐波は悶々と暗い気を降り撒く皇帝陛下から目を逸らせ、天井を見上げながら唸った。


「…遊郭側が男娼を推してくるのも必須。御家臣様らが男娼を奨めるのもまた必須…。男娼を下がらせても次が来て……ならば、話の分かる男娼に口裏を合わせてもらう以外には、他に方法がないような…」

「その通りだ!」


その大声に思わずビクッとなった佐波に構わず、梓星は至極真面目な顔で、


「だから俺は、取引をした」

「えっ? ど、どなたと…」

「この遊郭楼の或る男娼とだ。二月期(二ヶ月)ほど前に宛てがわれた男娼だがな、この者が中々に聞き分けが良い。他の者たちが何をどう断ろうと隙あれば褥に引きずり込もうとするところを、この者だけは、俺の機嫌を取りはするが、特別手を出してはこなかった。…それで今日は、その者を指名したのだ」


苦々しいその表情から、それがどれほど家臣達を喜ばせる結果になったかありありと窺える。

彼にとってみればそれも苦肉の策だったのだろう。二度目、今日もまた何もありはしないという確信は無いのだから。

徐々に見えてきたこれまでの経緯に、佐波は「それで」と先を促した。


「その男娼と、どのような取引を?」

「…ああ。部屋に入ってな、その者に言ったのだ。「今日も俺に触れず、何もせずに一晩過ごさせよ」と」

「…率直ですね」

「遊郭の者にこれくらいの”率直”で効くものか。はぐらかされて終いだ。お前もよく知っているだろう」

「え?あ、えっと、そ、それで?」


慌てて促すと、梓星は苦い表情で続けた。


「男は了承した。だがな、了承する代わりに、条件を出してきた」

「条件?」


佐波は眉を寄せた。

皇帝陛下と、まるで対等であるかのように振る舞うとは…中々に度胸の据わった男娼だ。


「条件というと…金銭的なもの、でしょうか?」


他に思いつかずにそう言うと、彼は首を横に振った。


「いや。もっと面倒で…気の毒なものだ」

「き、気の毒、ですか?」


意外な単語にきょとんとする佐波に、梓星も非常に苦りきった顔で言った。


「ああ…気の毒だ。…その男娼にとってはな、俺は全く好みの容姿でないらしい」

「へ?」


更に思わぬ言葉に目を丸くする。

皇帝陛下と知って尚「好みでない」と断言するなど、いくら梓星にその気が無いとはいえ、その男娼は度胸と無謀をはき違えているように思うのだが…


いや、それよりも梓星はどこからどう見ても遊郭の者に勝るとも劣らない麗しい容姿。

今は幼さが勝ってやや少女のようにも見受けられるが、あと1、2年もすればそれはそれは美しい美青年になること請け合いだ。

本人には甚だ迷惑だろうが、隙あらばと狙う他の男娼達の気持ちも分からなくもない。


―――そんな彼が好みでないというなら―――


佐波がその具体例を思いつく前に、梓星の暗い言葉が落ちてきた。


「もっと男らしく逞しい、筋骨隆々の男―――詰まる所、俺の警護をしている特別に鍛え上げられた兵士たちの方が”そそる”そうだ。だから」

「…まさか、き、気の毒というのは…っ」


そこまで聞けば、さすがに想像がつく。

思わずごくりと唾を飲めば、弱り切った形相の梓星も、言葉を紡ぐ為に喉を鳴らした。


「そうだ。一人、犠牲にしてきた。大変不本意だが、皇帝陛下の権限をこんな仕様も無いことで行使して、な」

「………」


恐ろしい話を聞いてしまった。

正直、話を促してしまったことを今かなり後悔している。

いっそ心を無にして聞かなかったことにしてしまおう…と遠い目で天井を見上げる佐波に、きっと佐波よりもよっぽど深く思い悩んでいるであろう皇帝陛下は、その心根がよく現れる沈んだ声で続けた。


「…常に屈強で無表情な兵士の、あんな悲壮な”皇帝への誓い”は初めて見た。まさかこんなこと、自分から口外してまわるはずもないが…一応釘は差しておいたから、家臣たちにバレることはないだろう」

「………」


言葉が紡げないでいる佐波。そんな佐波を同じくどこか遠い目で見ながら、梓星は尚も続ける。


「この部屋を『空き部屋』だと俺に教えたのも、その男娼だ。まさか部屋まで変えたらさすがに家臣に怪しまれるからな。それに俺のいる前で”行われても”大変困る……ということで、教えられた通りに部屋の床から、遊郭の者しか知らないという中間階を渡り、この部屋の天井裏まで辿り着いたというわけだ。まぁ、辿り着いたここは空き部屋ではなかったが…」

「………」

「………」

「………」

「……………何か言え…!」


沈黙が呼ぶ罪悪感に堪えられなくなったらしい梓星がガックリと肩を落として嘆く。

だがそんな彼を前にしても、佐波の頭の中は可哀想な兵士へのお悔やみで大変混雑していて、とても言葉を発せられる状態ではなかった。


確かに、なぜ皇帝陛下ともあろう御方がこんな夜更けに天井から降ってきたのか、その理由と経緯はよく分かったが……


———……なんて後味の悪い……


最初から訳ありだとは思っていたが、まさか己の貞操を守る為に部下を犠牲にするという業まで背負っていたとは…道理で部屋に入ってきた時から深刻に思い悩んだ顔をしていたわけだ。

…まぁ、部下を斬り殺しても平然としている為政者など沢山いるわけだから、彼のこの反省具合はある意味好感が持てるといえなくもない。…さすがに擁護する気にも、どうしてもなれないのだけど…。


怪我や薬の所為だけとは思えない顳〈こめ〉かみの鈍痛を右手で揉みながら、佐波は無意識に唸っていた。


「…陛下」

「うぅっ」


佐波が低く敬称で呼ぶと、梓星はそれを咎めることなくただ小さく呻いた。

声が低くなったのは、ただ何を言えばいいかと思いあぐねているだけで、別段怒っているわけではないのだが(そもそも佐波に怒る権利などあるはずもない)梓星はどういうわけか、この明らかに格下の使用人風情に怒られると思っているようだ。

身を固めて、心なしか涙目で俯く仕草の梓星を唖然と見上げながら、もしかしたら彼は叱って貰いたいのかも知れないと思い至る。


邪気を払う、清き星。その名の通り清廉な少年だ。

他人を思いやる賢さもあれば、相手の痛みを自分のものと感じる共感能力にも長ける。

そんな彼が、己の行いの非道さに気付かないわけがない。

それでもどうしても逃れたかった。誰かに押し付けてでも。それほどまでに、切羽詰まっていたのだ。


目の前で身を縮めて震えているこの国の若き最高権力者の痛ましい境遇を想って、佐波は、小さな吐息と共に呟いた。


「お辛かったのですね」


優しい彼には、どの選択もきっと辛かったに違いない。

ここに来るまでの間も、来てからの間も、ずっと『逃げてきた』己を責め続けてきた。

だからこそ今、誰かに断罪して欲しくなったのだろう。佐波のような身元も確かではない格下の身分の者でも構わない程に、追いつめられて。

そんな彼を、どうして佐波が叱る必要があるのか。

彼に一番必要なことは、第三者による断罪ではなく、”償い”であると、当人でさえとっくに気付いているというのに。


―――…その可哀想な兵士の話は、自分の胸の中に生涯留めて、決して口外すまい…


と決意を固め、遠い目で一人頷く佐波。

そんな佐波の様子を、梓星は暫しぽかんと眺め―――


ぽろ、とその磨かれた黒曜石のように美しい瞳から、涙を零した。






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