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溟楼綺譚  作者: 上遠野
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ハッと顔を上げた。

遊郭街の中でも一際大きく絢爛な軒。

その極彩色の提灯に描かれた印。

確か、ここにくる前に確認していた。

この遊郭街では、どの軒にも屋号の看板は掲げられていない。

代わりに、飾られた提灯に描かれた屋号代わりの”印”を目印に、馴染みの店へと向かうのが常識とされている。


―――”めいろうあん”


どのように書くのかは知らないが、その印の形だけは、以前この遊郭街に訪れた事があるという年長の使用人に聞いて知っていた。

丸の中に、一羽の双頭のからす

多分、この軒がその”めいろんあん”なのだろうが―――


「お、大きい…」


思わず独白してしまったが、この喧噪では誰の耳にも届かなかっただろう。

確かに有名な老舗だとは聞いていたが、ここまで大きいとは…。

この位置では全容は見えないが、もしかしたら、佐波のお世話になっている館よりも大きいかもしれない。

何処まで続くのかと不安になるような、軒下の提灯。その下の赤い格子の奥には、優艶な蝋燭の灯りと時折人が通るような影が浮かび上がっている。

入り口すら、まだ随分先のようで―――佐波は逸る心と、牽制する心の板挟みにあっていた。


いくら自由にしていいと言われても、三男坊がいつ”お帰り”になるとも限らないのだから、あまりうろうろするべきではないのだろう。それに、これっぽっちの給金では、きっとこのような老舗の遊郭では門前払いを食らうことになるだろうことは知れている。


でも、ただ一目確認出来るだけでいい。この目で、以織が生きていると。


―――私が彼を諦めていないと、知ってほしい。


それでどうなる、と心の中の自分が嘲る。

約束した。必ず迎えにいくと。

けれど、あれからもう5年。

佐波が必死に生きて来た様に、以織もこの世界で、もし生きているならばきっと、多大な苦労と辛酸を嘗めてきたことだろう。

彼は、自分を恨んでいるのではないだろうか。

佐波の代わりに売られて行ったことを、後悔しているのではないか―――









『私が代わりに行きます』


佐波の身代わりとして名乗りを上げた以織に、佐波を含め全員が驚いた。

佐波が止める間もなく、仲買人が以織の体をじろじろと物色し、そしてにやりと下卑た笑みを浮かべた。


『そっちのお嬢ちゃんよりは”売れそう”な顔だな。歳は』

『15』

『ふうん、細いな…。女みたいな面で、そのなりならいけるだろ。よし、商談成立だ』


以織は、佐波よりも高く買われた。その金の半分は佐波の家に、もう半分は以織の家族へと渡された。

荷物を持たない少年はすぐに馬車へ連れ込まれ、どこかへと売られて行った。

雪の降る、寒い日。

少女は何より大切な、大切にしなければならなかった友を”身代わりに”してしまった。

あんなに優しい友を、誠実な人を、佐波が穢した。闇に落とした。

その罪深さに何度絶望しただろう。己の力のなさを嘆いただろう。

けれど、どんなに嘆いても、その事実が変わる事は決して無い。

だから佐波は決意した。必ず、必ず以織を迎えに行くと。いつになるかは分からない。

佐波のような端女では、到底手に入れられないような大金が必要だと分かっている。

それでも、佐波は決意したのだ。


―――約束を、守る。


例え既に少年がこの世にいなくとも、恨まれていようと―――その約束だけが、今の佐波を支えている。









「お客さん、こっちの軒に用かい?」


唐突に話しかけられて、咄嗟には自分に向けられた言葉とは気付かなかった。

ようやく入り口の絢爛な灯りが見え始めた頃だった。ぼんやりと振り向いた先には、小柄な男が一人。

衣服から見ると、どこかの軒の下男かあるいは―――

佐波は男を警戒しつつ答えた。


「用というほどではありませんが…。何か」

「いえね、お客さんのような人が”ここ”を目指してるみてぇに歩いてっから、少し心配になってね。まぁ、こっちの早とちりでしたら、許してくだんせぇ」


ニコリ、というよりニヤリ、とした笑みを浮かべて言う男。一見すると年寄りのようにも見えるが、声は意外に若い。

なんとなく身構えて、佐波はさらに問った。


「私がここを目指すと、どうしてあなたの心配になるのでしょう」


佐波の格好は、女と侮られない為でもあるし利便性の関係もあって、男装と言える姿だ。

女の下働きがこのような格好をすることは、この国では珍しくない。

確かに、どう見ても金を持っていそうには見えない貧相な姿だろうが、その分軒下から遊女や陰間に袖を引かれることもないから、楽と言えば楽だ。

だからこそ、なぜ今こうして見知らぬ男に声をかけられているのかが分からず、酷く不気味に思った。

佐波の言葉に、男はニヤニヤしつつ、


「いやね、実は先日、”手引き”があったばかりなんですよ。丁度お客さんみたいな目立たない格好でね、そっと遊郭に忍び込んで、お目当ての遊女と手と手を取り合って逃げ出してねぇ。いやぁ、あれは大捕り物だった」


思い出すように顎を撫でる。

佐波は更に眉をひそめた。


「それと私と、どう関係があるのです?」

「関係というほどじゃございやせんよ。ただあっしは、ここを”監視している”端くれでしてね。一応確認をしておきたかっただけで。すみませんね、用心深くて」

「いえ…」


手引き、とは足抜けのことなのか。

遊郭がどうして高い塀と門に囲まれているのかは、語るべくもないだろう。

塀の向こうは深くて流れの速い川。ここを出るには、門を通る以外にない。

所詮は恋の真似事。そうと分かっていても、叶わぬ恋に身を焦がす輩は大勢いる。

中には、真実の想いを交わし合う仲になった者もいる。

そうなれば、ここを出たいと願うのも当たり前のことで、もちろんそれを止める者がいる事も、至極当たり前のこと。

佐波の世界にも常識とされる掟があるように、この遊郭の世界にも絶対の掟があるのだ。

つまり、男はここのお目付役で、佐波はその男に疑われているというわけだ。

男の視線が未だに自分に向けられているところを見ると、多分そうなのだろう。

確かに、佐波のここまでの動きは慣れた者にとっては少し妙に映るかもしれない。

思い詰めた者の空気を纏った佐波が、何か一計を案じているのではないかと疑われるのは、むしろ当然なのかもしれなかった。

佐波は、ため息をつきつつ頭を振った。


「こちらこそ、疑われるような行動をとっていたならすみません。主が私たち使用人を置いて、どこかへ行ってしまったものですから…」

「ほお。どちらかにお仕えしていらっしゃる方でしたか。道理で丁寧な物腰だ。しかしその口ぶりからすると、随分やんちゃな主さんで?」

「ええっと…まぁ…。あ、もし、赤い羽織に黒い帯の、24、5の男が暴れているようでしたら、私までご一報頂けますか。主に何かあったら私たちの首が飛びますから」


情けなく笑って言うと、男はようやく砕けた笑みを浮かべた。


「はは、そいつは大事だ。約束しやしょう。お客さんも気をつけなさいな。ここいらは”外”と違って、あっしらの目が行き届いていやすから、派手なもめ事は少ねぇが、それでも何も無ぇとは言い切れねぇ。お客さんみてぇな若い女子を鴨にしてやろうってな軒もありますからねぇ。何かありやしたら、大声で叫んでくだせぇ。あっしらの誰かが”正しに”向かいやすんで。」


言うなり軽やかに背を向けた男に、ふと思い立って、佐波は慌てて問いかけた。


「あの!そういえば、一つお伺いしたいことがあります」

「あっしにですかい?」


不思議そうに振り返った男に、佐波は頷く。


「はい。あの、実は探している人がいて―――名前が」


その時。


佐波の真後ろにあった格子が、轟音と共に吹き飛んだ。





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