29
―――夢は夢でも、これは悪夢の類いだ…
ざぁっと体温が急激に下がり、佐波は目眩と吐き気を覚えた。
目を閉じても、視界がチカチカする。吸い込む空気が肺の手前で押し返されるようで、酷く息苦しかった。
それが極度の緊張故だと気付けぬ程に混迷を極める佐波を置き去り、少年…否、皇帝陛下は、胡座に肘をついきむっつりと顔を顰めて、つまらなそうに語り出す。
「一月期(一ヶ月)に一度は、俺の気分転換だとかなんとか言い訳をつけて遊郭〈ここ〉に連れてこられるんだ。無論俺だって暇じゃない。即位してもう2年になるが、まだ全ての執務を把握しているとはいえないからな。―――だというのに家臣〈あいつら〉は、やれ根を詰めるな、やれ陛下はまだお若いのだからと耳障りのいい言葉を並べて、俺から執務を遠ざけようとする」
ふぅ、と疲れたため息をついて、彼は悔し気に唇を噛んだ。
———2年前…
どことなくその言葉に引っかかりを覚えながらも、佐波は黙って彼の話に耳を傾けた。
「理由はわかっている。家臣〈あいつら〉は、皇帝〈おれ〉が無能であって欲しいのだ。自分たちに都合の良い腐政を断行するためにな。可笑しいだろう?皇国〈このくに〉の頂点であるはずの”皇帝”には、実は何の力も在りはしない。もう何代も前から、皇帝家はただのお飾りだ。実質、今行政を把握し、司っているのは皇帝〈おれ〉じゃなく宮廷庁の―――」
「おおおお待ち、ください!」
ぎょっとして、佐波は悲鳴のような声を上げた。
身体が軋んで酷く痛んだが、それどころではない。
未だくらくら定まらない視界に、言葉を遮られた皇帝の不機嫌そうな顔が映ったが、このまま黙って聞いているわけには絶対にいかなかった。
「そ、その、そのような重大な話を、私のような、身元も定かでない、行きずりの人間に、軽々しく伝えては、なりません…っ」
この際、彼が本物の皇帝陛下であるかの真偽などどうでもいい。
後にただからかわれていただけだと解っても、それならそれで構わない。むしろそうであって欲しい。
だが、もし本物だったなら、これは失言を軽く凌駕する大暴露だ。
そんな政界の闇を軽々しく口に出すなど…佐波の立場は元よりだが、彼自身の立場も大変危なくする行為だ。
佐波がそれを息も絶え絶えに訴えると、しかし身も心も若き皇帝陛下は、「はっ」と短く嫌悪の息を吐き、胡座を崩して片膝を立てた。
「なら俺は、誰にならこのような重大な話をしてもいいのだ?」
「そ!………それは」
「俺に自由はない」
戸惑う佐波に構わず、彼はその目を仄暗く光らせる。
「朝も昼も夕も晩も、寝ている間すら、臣下の監視下にある。愚痴を言えば責められ、評論すれば未熟者と影で嗤われる。…弱音など、吐けるはずも無い」
「へ、陛下」
「梓劉〈しりゅう〉だ。―――いや、梓星〈しせい〉の方がいいな」
険しい瞳を瞬時に和らげて、小さく微笑む。
「梓星は俺の幼名だ。”梓劉”は即位の時に与えられた名だが、どうにも未だにしっくりこないんだ。そもそも皇帝の名など誰も呼びはしないのに、なぜ新たに付け直す必要があるのか、俺には不思議でならん」
皇帝家の掟など、意味のわからんものばかりだ―――と呟いて、彼は冷や汗を流し続けている佐波に視線を合わせた。
「俺のことは梓星と呼べ。そろそろ誰かに名を呼ばれないと、俺は”俺”を忘れそうだ」
「……っ で、」
「『出来ない』などと言うつもりか?」
「うぅっ」
「…なら、今ここでだけでいい。俺を陛下と呼ぶな。…呼んでくれるな」
それは哀願だった。
重たい闇を背負った暗い瞳に、揺れる灯りが映り込む。
あまりにも痛々しいその姿は――これも無礼極まりないが――憐憫の情を抱かせる悲壮感に包まれていた。
再び沈んだ室内の空気に、佐波はどうにか動く右腕で額を押さえ、目眩を治める為に深く息を吸い込んだ。
「………どのような字を、書かれるのですか」
もうどうにでもなれ、という気持ちが現れたのか、堅い口調になる佐波を咎めもせずに、若き皇帝陛下―――梓星〈しせい〉は蕾が花開くように、可憐に笑った。
「梓弓に、宙〈そら〉の星だ。父上が直々に下さったのだそうだ。良い名だろう」
「…はい。美しい御名ですね」
字面を思い浮かべると、美しい光景が現れた。
邪気を払う、清き星。そのような意味でつけられたのだろう。
さすが貴い人々の感性は違う、と納得していると、梓星が思わぬ言葉を返してきた。
「”佐波”も良い名だ。水辺という意味だろう」
「…っ、ご、ご存知でしたか」
「莫迦にするな。これでも学問は一通り習得したのだ」
少し気分を害したのかむすりとした顔で言う梓星に、佐波は思わず「ああそうか」と呟きそうになった。
今まで佐波の名からその由来まで瞬時に悟った人間は、以織以外にいなかった。
そもそも、皇国の下々の民にとって『学問』といえば金勘定や文字習いくらいなもので、文学や歴史学などは貴族〈ひまじん〉の勉学と呼ばれ疎まれている。
ちなみに、”佐波”の名が皇国の古典的詩に登場するのだと教えてくれたのは、これもまた以織だ。
―――美しい名ですね。
微笑んでそう言ってくれた以織の姿が一瞬脳裏を掠めて、佐波は目眩とは違う『眩み』を感じた。
「…申し訳ありません。私の周りでは、あまりそういう話をしたことがありませんので…」
眩みを押さえ込んで静かに答えると、今度は梓星の顔に「ああそうか」と言わんばかりの表情が浮かんだ。
「そういえば、市井の臣(庶民)にはあまり教養は普及していないと聞く。数も数えられぬ者が殆どだと…」
「…それは誤りです。確かに先天的なもので数を数えるのが不得手な者もおりますが、殆どの民は親から真っ先に”数”を教え込まれます。そうでなければ、貨幣の国では生きていけませんから」
失礼にあたるだろうかと少し悩んだが、我慢出来ずに佐波は控えめに補足することにした。
「文字も同様です。簡単な読み書きでしたら、皆親や兄弟親類、近所の習い事の師から教わります。確かに最低限の教養ではありますが、数や文字に強い者ほど良い職に就けますから、皆忙しい仕事の合間を割いて学んでいます」
なるほどな、と頷く梓星にはもちろん悪気などないのだろう。
だが、先ほどの言は間違いなく他の上級貴族たちから吹き込まれた偏見に他ならない。
―――いや、偏見というよりも『壁』だろうか。上下を分かち、優越を抱く為の…
過った暗い感情を隠すように、佐波は努めて穏やかな声を出した。
「ですが、数も文字も生活に関わること以上のものは、逆に疎まれるのです」
「? なぜだ?」
「必要ないから、でしょうか。生きていく上で必要なものは、ある程度の計算能力と、ある程度の読み書きです。文学を読み解いたり、詩を唱えたり、歴史を学ぶことなど、生活にはほぼ全く関わりのないことですから」
「…まぁ、そうだな」
納得したように頷いた梓星だったが、ふと何かを思いついたような、訝し気な表情で佐波を見た。
「ならば、お前は…お前の両親は何処で学んだのだ?」
「え?」
「名をつけたということは、その意味も知ってのことだろう。お前の云う通りなら市井では不必要とされる学問を、お前の両親は学んでいたのではないか?」
「それ、は―――」
ぎくりとした。
勿論、それは佐波の両親が貴族であったことの証明だ。
純粋な好奇心以外の何も映さない梓星の目を見つめ返しながら、佐波は観念したようにぽつりと語り出した。
「私は布津の貴族の出自でした。なので両親は二人とも、貴族の教養を持っていたのです」
「……貴族?」
梓星のあからさまに驚いた顔に、佐波は「…わかってます。その様には見えませんよね」とちょっと遠い目で彼の驚きを肯定した。
「私が12の頃に、家は廃れたのです。金銭的なものが原因だったそうで…」
「ああ!そうか、だからお前は遊郭に売られたのだな」
「はぁ、そうなん……ではないです!うう売られてはないのです!あああでも売られかけて、だけどそれを以お、ではなく友人が助けてくれて…っだから私は」
「でも結局逃れられず、遊郭[ここ]で働くことになったのだな…」
「ち、ちが」
違う、と言いかけて、ぽんっと頭に酷く恐ろしい笑みを浮かべた空木の顔が浮かんだ。
彼は、売れる売れないに関わらず、怪我が治れば佐波を遊郭で働かせると言っていた気がする。
いや、多分悲しいことに聞き間違いでも思い違いでもなく、確実に実行されるであろう佐波の未来だ。
イマイチ現実味がない話だが、少し話しただけでも空木のそれが脅しではなく本気の其れだっとわかった。
つまりは、梓星の言っていることは的を得ているわけで…
思わず押し黙った佐波に、勝手な妄想を膨らませ始めたのか、梓星は顔を悲壮感で歪ませた。
「その怪我も折檻されたのだろうな、可哀想に…。遊郭〈ここ〉では厳しい掟があるのだろう?好いた相手とも添えず、皆若くして死んでいくのだとも聞いた」
「…ああ、ええ、はい………そう…みたいです…」
色々と勘違いをされている様だが、これ以上詮索されるのも大変困る。
かなり疲労が出始めた佐波は、とりあえず話の流れに任せることにした。
そんな佐波の表情を、これまた勝手に解釈したらしい梓星は、同調するように苦々しい声を上げた。
「俺も、どうにも遊郭は性に合わない。ここ1年ほどはほぼ毎月期家臣どもに連れられ来てはいるが、楽しんだことなど一度もないしな」
「…そう、なのですか?」
意外だった。
何せ遊郭[ここ]は、囲われた者には地獄だが、訪れる者には黎明郷のような素晴らしい場所だと聞き及んでいる。
しかも皇帝という最上級の身分を持つ彼には、当然遊郭[ここ]で最上級の待遇が約束されているわけで…
不思議そうな顔の佐波に、梓星は気まず気に視線を逸らした。
「そもそも、何故身も知らぬ相手と肌を合わせなければならんのだ。気味が悪いだろう」
「そ、そうです、ね?」
随分純朴なことを言ってのけた皇帝陛下に、佐波は無意識に返答しながらも内心驚きを隠せなかった。
…正直このご時世、年頃の乙女でも家の為家族の為老後の為にと好きでもない相手に嫁いでいくのが常識だ。
勿論梓星の言の方が正論なのだろうが、やはりなんというか…ここまで穢れなく育つとは、さすがに究極の箱入りだと感心してしまう。
変なところで感心してぽかんとしている佐波に、梓星は何故だか居心地悪気に視線を動かし、ほんのりと頬を染めた。
「……それに、俺にも好みというものがある。否応なく寄越されても、どうにも出来ん」
「そ、それは、ええと……」
なんだか退っ引きならない会話に突入しそうな気配を感じて、佐波は慌てて言葉を探した。
「こ、こちらの遊郭街は、皇都随一と伺っています。選りすぐりの美女美男の揃った、浮き世の黎明郷だとも……そのような場所でも、陛下の」
「梓星」
「し、梓星様のお気に召すような遊女は、いらっしゃらないのですか…?」
「…遊女?」
佐波のたどたどしい質問に、何故だか梓星は奇妙なところで反応した。
そして、苦々しさも極まった表情で「ああ…、いや、」と呟く。
「……そこだ。まず、そこなんだ」
「…?」
「お前も幾つかは知っているだろうが……遊郭〈ここ〉に掟があるように、この国にも数々の掟がある」
「はぁ…」
突然話題が変わったことに唖然としながら頷く佐波に、梓星は堪りかねたように深いため息をつきながら語り出した。
「その掟で規制されるのは、何も市井の臣や家臣たちだけではない。中には、皇帝[おれ]の行動を制限するものもあるのだ」
「皇帝、陛下を…?」
「ああ。簡単なもので言うと、即位の時には新たに名を得なければならない、とかだな。食事も、何人以上に毒味をさせるだとか、謁見の儀の時には必ず冠をするだとか…そういうものだ。一つ一つを行うのはそんなに難しいことではないが、このような決まり事が数百あってな」
「数百…」
「正直、息苦しいことこの上ない。…まぁそれらも、我慢しようと思えば出来るのだ。俺だって生半可な覚悟で即位したワケではない。いつまでも物の分からない童では居られないというのも解っている。―――解ってはいるのだ。頭では…」
げんなりと語る梓星に、その苦労のほどが窺えた。
何か慰めの言葉でもかけた方がいいのか、と佐波がオロオロしている間にも、彼の顔色はどんどん悪くなる。
「…だがな、頭で解ってても、どうしても生理的に受け付けないものもある。その中でも俺が取り分け苦りきっているのが、『皇帝の渡〈わた〉り』についての掟だ」
「渡り、ですか…?」
「つまり……子を成すことについて、だ」
重苦しいその言葉の意味を察して、佐波はピキッと固まった。
その反応にもの申すこともなく、梓星は平坦な声で言う。
「『庶子を作るべからず』。……何代か前の皇帝が、それはそれは大層”色”に弱かったらしくてな。貴族豪族、果ては気に入った遊女まで後宮に百人近く召し抱えていたそうだ。その結果、世継ぎ争いが激化した」
「…あ、―――ああ、聞いたことがあります。確か、華栄の悲劇…」
ぎくしゃくしながらも、佐波はどうにか記憶を辿った。
『華栄の悲劇』は割と市井でも知られている、所謂[いわゆる]皇帝家の醜聞だ。
色好きであった皇帝が召し抱えた多くの側室達が、互いに己の子を次期皇帝にすべく企て、生まれた御子を次々に暗殺していったという…恐ろしい話。
その話によると、暗殺された御子の数は、実に100を超えるらしい。噂では、葬り去られた側室の数はその倍だとも。
関係のない市井の者たちも震え上がるほどの事件であったらしいが、ならば当時の後宮に関係する者達はどれほどの恐怖を感じていたことか。
その暗黒の歴史は、恐らく皇帝家にも深く癒えない傷を与えたのだ。
梓星は、力無く頷いた。
「…あれはそう呼ばれているらしいな。悲劇というより、惨劇だが…。その件までは皇帝にも側室を選ぶ権限があったらしいのだが、それ以来、後宮には厳しい制限が付き、皇帝の渡りについても厳しい掟が生まれた」
「…『庶子を作るべからず』…」
「そうだ。正確には、子を成す行為も必ず臣下の立ち会いの元で行うこと。正室は元より、側室も全て臣下の采配に従うこと。市井の者との間に、庶子を作らぬこと、だ。———だから俺は、今日もここに連れてこられたのだ」
「……え?………ええっ?そ、それはどういう…」
急に話が飛躍して、疑問を表情一杯に浮かべる佐波に、梓星は焦れったそうに言った。
「だから、俺は遊女とは交われんのだ」
「へ?———え?」
「この軒は男娼遊郭楼だろう。俺は男色じゃない。どうやったって、男は抱けん!」
これまでの憤りが一気に噴出したのか、梓星は声を張り上げた。
勢いで書き上げたのでどうしようなにかたいへんなみすをしていたら(◎_◎;)
陛下と佐波の修学旅行の夜の会話(違)はもうちょい続きます〜