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溟楼綺譚  作者: 上遠野
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佐波がどんな相づちを打つべきか―――相づちを必要とされているのかも分からず悩んでいる間にも、少年は苦々しく言葉を続ける。


「…家臣〈あいつら〉は、そもそも俺のことなど、主とは認めておらぬのだろう。…確かに俺は、元々代を継げるような生まれではない。何事もなければ、俺が家督を継ぐなど、あり得るはずもなかった。だから家臣〈あいつら〉は、いつまでも先代を偲んで、俺を見ようともしない。俺が…主上には相応しくない器だから…」


言葉を尖らせ渋面を作っているのに、その目は哀し気だ。

恐らく心の内で育まれた激しい憤りが、それを表に出すことも叶わず、次第に置き場の無い哀しみへと変化していったのだろう。

じわり、じわりと寄せる波が、ささやかに、けれど止〈とど〉める事も出来ずに浜辺を濡らすように。

少年の言葉が、薄明かりの部屋に深く沈み込む。


「解っては、いるのだ。俺が…この身が、不相応な立場にあることくらい…誰に言われずとも、解っている。未だに家臣の助言なくては采配の一つも揮えぬ小物であると、周りに思われていることも…」


そこまで言って少年はふと言葉を止め、そして表情を強ばらせた。

この薄明かりではその顔色までは分からないが、少年が歯を食いしばる勢いで口を閉じ、俯いた姿が見て取れる。

どうしたのだろう、と一瞬思案した佐波は、すぐその理由に気付いた。


――彼は、今しがた呟いた”弱音”を恥じているのだ。


格下の者に対してどのような振る舞いも許された貴族にも、たった一つだけ、下の者に対し『してはならない』行いがある。

それが”弱音”だ。

弱音は即ち弱点だ。日頃より抑圧された下の者は、上の者の弱音を好機と捉え、機を逃すまいと猛烈に引き落としにかかってくる。

そうなればいくら格式に拘ろうと、立場など簡単に裏返されてしまうのもまた、貴族の常識。

気高い彼らにとって、それが何よりの屈辱であるのは間違いない。


―――市井に堕ちる事を拒み、命を絶った母のように。


思考の隙間に、一瞬思い出した母の顔。

不思議なことに、その顔は佐波に向けて穏やかに笑っている。

あの日、人買いに名乗りを上げた佐波に「お前はもうこの家の子ではない」と告げた、痩せて生気のない、暗く光る瞳を持つ顔ではなく。

それはまるで、愛し子を抱き上げる女神のような、慈愛に満ちた笑顔で―――


―――そうだ、母も、いつかは私に笑いかけてくれたこともあった。


唐突に、佐波はそのことを思い出した。

物心つくかつかないかの、ほんの僅かな間だが、母が他の子と同じくらい、自分に笑顔を向けて、声をかけてくれていた時があった。

その頃には、兄弟だって、使用人だって、父ですら優しく接してくれていた…ような気がする。

あの頃のことはとにかく悲しくて、寂しくて、辛くて、今でもすんなりとは思い起こせないから、この記憶が孤独に苛まれた自分が作り上げた偽りのものであったとしても、不思議はない。

でも、もし記憶が…頭に浮かぶ心象が正しいとすれば…


―——不義の子である自分も、一度は家族に愛されていたことになるのだろうか…


あり得ない、それでも縋り付きたいような想像を巡らせた佐波は、けれど次の瞬間、ざわ、と首筋が疼くような違和感を覚えた。


―――…あれ…?


何かがおかしい。

何かが違う。

何かが掛け違っている。


そういう警鐘めいた焦燥が胃の奥からこみ上げてくるのに、頭の中では一向にまとまりを得ない。

佐波は早くなる心音に意識を寄せ、混乱の中から浮き上がってくる疑問を見逃すまいと集中した。


―――…そういえば、いつ頃からだっただろう。


佐波の周囲が一変したのは。

父も、母も、兄弟たちも、まるで他を排除しようとするように、冷たい激情の表情を多く見せるようになったのは。

穏やかな日差しが、とたんに真冬の嵐のように変化し、佐波を―――佐波の家を襲ったのは。




―――いつから、だっただろう?―――




「…か…」


すっかり己の回想に沈んで、束の間自分の傍らに座る少年のことを忘れていた佐波は、微かに聞こえた音にハッと我に返った。


「何か話せ」


まだ身体半分を回想の中にどっぷり浸らせていた佐波は、押し殺した少年の言葉をあやうく聞き逃しそうになったが、どうにか意識の端に引っかかったそれを回収して再生させた結果、思わず「えっ」と呻いた。

その反応が気に入らなかったのか、少年は秀麗な眉をぴくりと動かし、


「暇だ。実に退屈だ。お前もどうせ寝付けないのだろう。ならば、何か話せ」


急かすように言った。

先ほどの失言を引きずっているのか、言葉の内容はどうであれ、態度だけは立派に理不尽な貴族のそれだった。

佐波は何度か瞬き、状況を整理し、考え、―――結局何の考えも浮かばなかったので、とりあえずオドオドと口を開いた。


「な、何を話せば…」

「お前の話でいい」

「私の…?」

「ああ」


早くしろ、と膝を揺らして忙しなく言い放つ少年に、佐波はともすれば真っ白になりそうな思考をどうにか繋いで、当たり障りのない記憶を呼び起こそうとした。

…が、そう簡単に出てくるはずも無い。特に今のような横になった姿勢のままでは意識が常に定まらず、自分でも嫌気がさしているというのに。

それでも、態度の割に意外と辛抱強く佐波の言葉を待つ少年の姿を見ていると、何かを語らねばという焦燥に駆られてしまう。

色々悩み、考え―――暫しの沈黙後、なけなしの根性を引っ張り出して、佐波は重たい口を開いた。


「―――私は布津の生まれで、12の時からつい先立〈さきだ〉てまで、豪族家の使用人として勤めておりました」

「…ふぅん。使用人とは、何をするのだ?」


貴族の人間らしく、少年も今まで『使用人』という存在を意識したことなどなかったのだろう。

思ったよりもすんなり話題を呑み込んでくれた少年の、その厭味なく純粋な好奇心で輝く瞳に、佐波は少しだけ緊張を解いた。


「なんでも致します。水汲み、薪割り、掃除、洗濯、炊事、馬舎での馬番、時にはお出かけになる主上に付き従い、御身を守ることもまた仕事です」

「随分と多岐に渡るのだな。お前一人でか?」

「豪族家は広いですし、お使えする一族の方々も多く暮らしておいでですから、さすがに私一人というわけにはいきません。常時数十名の使用人が屋敷に駐在しておりました」

「ほう」


興味を持ってくれたのか、少年は少し身を乗り出すようにして聞く体勢になった。

今まで滅多に自分の話をしてこなかった佐波は、彼のその姿に少々照れながら続ける。


「私は12で其処にお勤めするまで、随分物を知らない…世間ずれした生活をしてきました。だから当初は、本当に周りの者に呆れられるやら、馬鹿にされるやらで…。夕餉を頂くまでに、半年もかかってしまいました」

「夕餉を?…どういう意味だ?」

「…『小僧の空皿』という言葉がありますように…その、私の働きが、食事を得るに至らなかったと申しますか…」

「つまり、未熟だったと申すのか」

「…そういうことです」


自分の至らなかった過去を語るのは、こんなに恥ずかしいことなのか…と奇妙な新鮮さを感じながら、佐波は小声で続けた。


「その間も、仕事は山のようにあるわけでして―――お腹も、もちろん空くわけでして………我慢出来なくなった私はある日、仕事が終わってからこっそり屋敷を抜け出て、食料を調達しに出掛けていたのです」

「調達?…買いに行ったということか?」

「いえ、雇い始めの半人前の使用人に払われる賃金など、無いようなものです。それでも屋根のある部屋で寝泊まりでき、いずれきちんと仕事を覚えればまとまった給金も貰えるようになるのですから、悪い仕事ではありません」

「…そう、か?」


どことなく不思議そうな顔の少年に、佐波は小さく微笑んだ。


「はい。着の身着のまま、転がり込むようにお世話になったお屋敷でしたから、当時私には持ち合わせが一切ありませんでした。だから、背に腹は代えられぬ覚悟で」

「盗みにでも行ったのか?」

「いいえ、山に狩りに向かったのです」

「狩り?」


予想外だったのか、少年が瞠目した。


「はい。…確かに”盗み”が過った時も少なからずありました。時々人里の畑に実る美しい野菜や、のびのび育っている家畜を見ていると、どうにかあれが自分のものになる手だては無いかと真面目に考えたものです。ですが、布津の法令では使用人の盗みには相当厳しいお咎めがあります。下手をすれば、その場で首を打たれてしまうかもしれない。それくらいなら、自分で獲った方が良いと思って…」


無知で浅はかで、今考えれば呑気にも程がある当時の佐波は、空腹を引きずって山に入った。

鳥か小さな獣くらいなら、きっと自分にも捕まえられるだろうと過信したまま。


「それで、何が獲れたんだ?」

「何も獲れませんでした」

「は?」


面立ちを幼くさせるぽかんとした顔で見つめられて、佐波は余計に気恥ずかしくなった。


「考えれば明白だったのですが、私はそれまで、一度も狩りをしたことがありませんでした。生き物がどこでどうやって暮らしているのか、何が好物で、何が弱点なのか、何処が塒[ねぐら]で、活動範囲はどれほどなのか……何一つ知らなかったのです」


今思い出しても恥ずかしい。

仕事の合間にこっそり、見よう見まねで作った松明を掲げて山に入った佐波は、歩けど歩けど小さな獣一匹すら目にすることも出来ずに、ただオロオロしながら一夜を過ごした。

夜明け前には、他の使用人達が起き出してくる。それまでに絶対に帰らなければならない。

白々夜が開け始めた山道を、疲労困憊の身体で本当に転がりながら帰ったのが、つい先日のことのようだ。


「結局、その後何度も山に入ったのですが、何も獲れず…ただ疲労と空腹と眠気に翻弄される日々が続きました」

「…上手くはいかないものだな」


貴族の出自である少年にはきっと想像し難かろうと思っていたが、意外にも彼は同情の色をした瞳で頷いている。

共感する能力も高いのだろう。生まれもっての性格の優しさが滲み出るその表情に、佐波はほわりと胸が温かくなるのを感じた。


「はい。どのようなことも、最初は上手くいかないものです。それから一時は、盗みも考えたことがありました。空腹とは恐ろしいもので、明らかに間違った方向であっても、思考や判断をねじ曲げて行動を起こさせてしまう力があるのです。…多分、それが生き物の『生きようとする』本能というものなのでしょう」


今になれば冷静に思い起こせるが、当時は真剣に、ただ飢えていた。

夕餉を美味しそうに喰らう他の使用人たちが憎くてたまらず、残飯をあさりに厨房に潜り込み、叩き出されたこともある。

特にその時期、隣州である九土[くど]では大きな飢饉があり、その波は布津にまで押し寄せていた。

人々は命の次に大事な食料を囲い、他人に奪われてなるものかと目を光らせていたのだから、佐波に食べ物を恵んでくれるような人間もいないのは当然だった。


「…それで、どうしたのだ」


不安そうな顔で問われて、佐波は当時を思い起こしながら情けなく笑った。


「色々考えたのですが、やはり自分で獲ろうと…。ですが、今までのように闇雲に山に入っても駄目なことはわかっていましたから」


考えた。空腹と疲労で凶悪になりそうな思考を、どうにか保たせて、ただ必死に。

そうして暫く、根気づよく考え続けたら、ふと思いついたことがあった。

貴族の子女だった頃、兄弟たちが先回りして隙をつき、網をかけられた事があった。

もちろんそれはただの虐めに他ならないが、もしかしたらあれも”狩り”の一種かもしれない。

そう気付いたらいてもたっても居られず、佐波は仕事の合間をみては、ひたすらに計画を練った。


「限られた時間で、己一人で野生の獣を狩ろうとしても、どうしても無理があります。ならば、最初から”仕掛け”を作り、それを幾つも山の中に仕掛ければ、私が山に入っていない間であっても或[あるい]は何かが掛かってくれるのではないかと」

「『罠』か」


合点がいったのか、少年が口角をあげて笑った。

それにつられて笑いながら、頷く。


「はい。今思えばただそれだけのことです。でも、何も知らなかった私は、己がかつてない大発見をしたように思えて、とても興奮しました」


空いた時間に地面に設計図を描き、山から持って下りた枝で、これも見よう見まねで篭を編んだ。

篭の下に突っ張り棒を置き、さらにその棒の下に餌となるものを置く。餌を獣が引き抜けば、篭が被さる仕組みの罠だ。

獣が撥ね除けられないように、石を詰めた袋をあらかじめ篭に乗せたり、篭の大きさを調整したり、様々な問題点を一つ一つ解決していくのは楽しく、日々の辛い労働の糧にもなった。

一番の問題であった餌だが、これは屋敷に大量発生した鼠を充てることにした。

害獣である鼠なら、いくら屋敷のものでも使って差し支えない。

こちらも小さな罠にかけて獲った鼠を使って、ようやく山に幾つかの罠を仕掛けるに至った。


「暫くは人間の匂いがついていたのか、罠に何も掛からない日が続きました。正直とても消沈しましたが、それでもこれ以上の手が今思い浮かばない以上、続けるしかないと思って」


罠を作り、山に仕掛け続けた。

すると、暫くして幾つかの罠に獣が近寄った後があることに気付いた。

夢中で罠を改良し、また暫くすると、今度は罠から餌だけが抜き取られてる。

―――好機だと思った。


「餌に興味を持ってくれているなら、あとは罠を頑丈に、確実にするだけでした。何度も作り直して、そしてそのうちにようやく小さな獣が罠に掛かってくれるようになりました」


最初に掛かったのは、茶色い、両掌程の大きさの獣だった。

佐波が見つけたとき、名前も知らないその獣は、罠の篭の中でしきりに啼いていた。

興奮して思わずその場で罠を解体しようとしたが、逃げられてしまう可能性が高いことに気付いて、そのまま背中に担いで急ぎ山から下りた。


「そうか。じゃあ、上手くいったのだな」


安堵したように言う少年に、佐波は申し訳ない気持ちになりながら、小さく首を振った。


「いえ。本当の問題はここからでした」

「問題?まだ何かあるのか」

「はい。…私は急いで屋敷に戻って、人の来ない屋敷裏の河原で、その獣を殺そうと罠から出したのです。獣は、子どものようでした。キュイキュイと啼いて、まるで母親を呼んでいるように健気に暴れていました」


あの温もりを、佐波はきっと忘れない。

手で掴めば、毛皮の下の鼓動がわかった。

自分と同じ、生き物の鼓動が。


「殺そうと力を込めましたが、駄目でした。震えて、手に力が入らなかったのです。私はその時になってようやく、自分が自分の手で直接生き物を殺したことが一度もなかったことに気付いて…愕然としました」


今まで誰かが獲ったものを、何も知らずに口に運んでいた。

知識では、それが元は命あるものであったことを知っている。

けれど、その命あるものにも存在する家族や、死ぬ瞬間に感じるであろう苦痛、恐怖まで想像したことはなかった。


怖かったのです、と佐波は小さく呟いた。


「思えば、家畜を屠殺したこともありませんでした。それなのに、どうして安易に『狩ればいい』などと思っていたのか…本当に、自分のことながら呆れてしまいます」

「……逃がしたのか」


少年がじっとこちらを窺っているのに勿論気付いていたが、佐波はため息を止められなかった。


「…いいえ」

「…? じゃあ、殺したのか」

「……………いいえ」


もう一度息を吐いて、佐波はぽつぽつと続けた。


「…逃がす事も、殺す事も出来ませんでした。逃がそうかと考えても、空腹がそれを拒否するのです。かといって怖じ気づいた心では、殺す事も侭ならず」


二進[にっち]も三進[さっち]もいかなかった。

しかも気付けば空も少しずつ白み始めていて、時間も残されていない。

迷い移ろう心が時とともに止めどなく肥大し、ついに佐波は河原に踞[うずくま]り、暴れる小さな獣を抱いて泣いた。

己が不甲斐なくて、情けなくて仕方が無かった。

生きようともがくこの小さな命の前で、生きる為の殺生すら出来ない自分は、比べるまでもなく惨めだった。






大変永らくお待たせしております…!今年初更新ですがもう2月とか…orz

今週中にもう一話UPします。今見直し中ですのでもちょっとお待ち下され〜!


ちなみに『小僧の空皿』なる言葉は存在しません(汗)

異世界設定だから格言にも気を使います…細かいところは面倒なのとわかり易いようにそのまま使ってしまいますが(^_^;)


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*溟楼綺譚・登場人物紹介*
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