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溟楼綺譚  作者: 上遠野
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「まぁ、空木[うつぎ]様! こちらへは明日来られるとのお話でしたのに…」


唐突に、部屋の中に女の声が響いた。

佐波のみならず、空木も一瞬その身に緊張を纏わせたのを感じて、女の気配に気付かなかったのは自分だけではなかったのだ佐波は少し安堵した。

空木が振り返る。

途端に開いた視界の隙間から、見覚えのある女性が、部屋の扉を開けて入って来ているのが見えた。


———早音[はやね]、様…


確か、最初の火事の後、怪我をして運ばれた館で世話になった女性だ。

柔らかく穏やかな曲線を描く、女性的な身体。

目映い華はなくとも、凛と咲く花のような美しい貌に、艶やかに長い黒髪を後ろで花の簪で留めている。

彼女は手に器と小さな火種の載った盆を持ち、空木にちらりと視線をやり、次いで事の成り行きに強ばった表情のままの佐波に目をやると、ハッとした様子で目を見開く。


「まぁ佐波様、お目覚めなんですか!? まぁまぁ空木様、何をしていらっしゃったのです! 直ぐに知らせて下さらなければ困ります!」

「仕事のついでに様子を見に来たら、偶々起きていたんだ。…その「お前が叩き起こしたんだろう」って目で見るのは止めてくれないか」


口調に明らかな不満を漂わせて責める早音に、空木が彼にしては珍しく、至極苦々しく呟いた。

先ほど佐波をいたぶっていた彼とは随分異なる態度に、佐波は思わず空木を見上げる。

その視線から逃れるように、空木が緩慢に動いた。


「俺は今から仕事なんで失礼するよ」

「あら、本日はどちらへ?」

「ここだ。だからついでだと云っただろう。今日は”お得意様”が来るんでね」


彼は着物の襟を軽く手で直し、来た時と同様にそれとない動作で立ち上がると、ぼやくように呟いた。


「溟楼庵が焼失して以来、あちらの常連が各軒に分散したものだから、回り番の仕事が増えて困ってるんだ。溟楼庵の常連は問題ありの高官や”御忍おしのび”ばかりだからな」

「おしのび…?」


思わず内心の疑問が口をついて出た佐波に、空木がちらりと視線を向け、皮肉気に小さく笑う。


「高貴な方々の秘密のお遊びさ。溟楼庵が皇府公認の遊郭であるワケが、其れだ」


粋に遊んで帰ってくれる上客ならいいんだがな…、と小さく言って早音の横を通り、通常の半分程の小さな扉を開けると、最後に佐波に振り返った。


「じっくり養生することだ。少なくとも、今は、な」


言外に”治ったら覚えておけよ”とでも言わんばかりの言葉を残して、男はあっという間に去った。

引き際が大変に潔いのは分かったが———それにしても…


あの不遜そうな男が、早音の登場時に発した緊張になんとなく違和感を覚えながら、佐波はどうにか身体を起こそうと身を捩った。


「あ、っつ」


身体の其処彼処に走る激痛につい声を上げると、男が去った扉を見つめていた早音が慌てた様子で佐波の側——数歩の距離だが——に駆け寄る。


「佐波様、動いてはなりませんわ。まだ傷が塞がっていないのです。今痛み止めをお持ちしたところだったのですよ」


言うなり、持って来たお盆を引き寄せ、器を両手で大事そうに持った。


———ああ、どうりで…


意識は割とハッキリしてきているが、それと同等に体中が鈍く痛い。


———薬が、切れたのか…


佐波が使用人の頃に使っていた痛み止めとは比にならない程良く利く薬なのだろう。

眠気に包まれるようにして、痛みも感じずに休む事が出来るなんて。

一体自分の治療にどれほどの金銭が掛けられているのか、と考えて痛みとは別の意味で顔を顰めた佐波に、早音が急須の薬を飲むように促す。


「さぁ、佐波様。もう少しお休み下さい。——ああ、でも…その前に佐波様に、私[わたくし]の謝罪を受けて頂きたいのです」


彼女の言葉に、佐波はこの世のものとは思えない舌が壊死しそうな苦さの薬を苦心して飲み込み、体温の上昇で熱くなった息を吐きながら小さく首を傾げる。

早音はそんな佐波の汗で張り付いた額の髪をそっと払ってやりながら、悲し気に微笑んだ。


「あの日———清州様が、臥龍城に訪れた日のことです。最様はお留守でしたが、私は用あって臥龍城に残っていたのです。でも…」


長い睫毛が伏せられる。


「瀕死の佐波様を、お助けすることが出来なかった。清州様が去った後も、…覚えていらっしゃらないかもしれませんが、私がこうやって佐波様にお会いするのは、あの日から今日で二度目なのですよ」


———そう、なのか…


そういえば、清州が現れる直前に早音の声を聞いた気がする。

より鮮明に蘇り始めた記憶を遮るように、早音はそうっと頭を下げた。

ぎょっとして慌てて彼女の動きを止めようとしたが、激痛に阻まれる。

そうこうしている間に、彼女はまるで佐波を主人とする使用人のように、平伏して言った。


「本当に…申し訳ないことです。貴女様をお守りするようにと、御総主様から託かっていた身にも関わらず、私は何も出来なかった…。どうぞ佐波様の采配で、私を罰して下さいませ」

「は、は、早音様っ!? 何を———」

「私は」


早音が視線を上げる。灯り油がじじ…と燃え、彼女の秀麗な顔を映した。

どきり、とした佐波の心を見透かすように、瞳の奥を覗き込むようにして早音は言う。


「私は、その為に今在[あ]るのです」


———それは、一体…


どういう意味だ、と考えたところで、視界が思考ごと歪んだ。

ああまたこの展開か、と咄嗟に思うものの、いつ何処でだったか思い出すことも出来ない。

ただ強力な睡魔に身体半分引きずられるようにして意識ごと持っていかれそうになるのを、寸でのところで耐えている佐波に、そっと、早音の囁きが落ちた。


「お気をつけなさいませ。回り番は味方ではありません。私どもとは相容れぬ存在。———貴女様を、あの者達の好きにはさせませんわ」


———私、ども…とは…


意識が遠のく。闇が口を広げ、佐波を呑み込む寸前。

建物のの何処かから、場違いに明るい笑い声が聞こえた気がした。


















『以織は、なんでも知ってるね』


夢の中で、佐波はかつての記憶を辿っていた。

まだ佐波の世界が手の平程の大きさしかなく、陽に翳す硝子玉のようにキラキラと輝いていた日々。

何も知らないことの幸せをそれと知らずに享受していたあの頃を、そっと指で辿るように、佐波はその光景を見ていた。


佐波の言葉に、以織は開いていた書物を閉じて振り向いく。

照れた様にはにかむ表情。白磁の頬をほんのり染めて、彼は少し俯いた。


『…そんなことはありません。私は、聞き齧っただけの浅い知識しか持っていない。姫様の方が、余程深く物事の真理を知ろうとするお力があります』

『それこそ考え過ぎだと思うな。私の師は、以織なんだから』


二人がいる部屋は、使用人すら存在を忘れている小さな物置だ。

不義の子とはいえ、さすがに使用人が貴族家子女の部屋に立ち入る事は許されない。

だから二人は協力して家や庭のあちこちを探り、より人気のない場所を探し出していた。


物置は以織の手によって、狭いながらも快適に整えられている。

高い天窓からは明るい日差しが落ち、床に広げた古い敷物の上に、二人は楽な姿勢で腰掛けて様々な話をした。

中でも以織が語ってくれる皇国の歴史や、遠い地にあるという異国の物語を聞くのが、佐波は大好きだった。


佐波の言葉に、以織は驚いたように目を瞬かせ、次いで微笑む。


『姫様には、私よりも博識の師をつけて差し上げたい。貴女様なら、きっとより高みを目指す事が出来る』

『高み?』

『…世の中には、知識だけの人間は星の数ほどいるのです。ですがそれは表面だけのこと。知識と知恵は別物なのです、姫様』


以織は、穏やかに微笑んだまま、両手を広げて佐波を見た。

その意図に気付いて、佐波はぱっと表情を輝かせると、躊躇う事なくその胸に飛び込んだ。

以織は佐波の背中を包むように柔らかく抱きしめて、その耳に囁く。


『姫様は賢い。ただ賢いだけではなく、己の意志を貫く強さがある。それは、とても素晴らしいことなのです。私は、貴女様のお手伝いが出来る事が何より嬉しい。…私にも何かを成し得る力があるのだと、教えて下さったのは姫様です』


服越しに互いの熱が伝わる。

幼い頃から両親はもちろん、兄弟姉妹、使用人に至るまで全員に”無いもの”として扱われてきた佐波は、以織に会うまで誰かに抱きしめられたこともなかった。

凍った氷が春に水に戻るように、ゆっくりと時間をかけて育んだ信頼が二人の間にはある。

そのことが佐波の孤独な生活の唯一の救いだった。

———恐らくそれは、以織にとっても。


『…以織は、優しいね』


佐波はぽつりと呟く。

その声は何かに憧れているようでもあり———何かを諦めているようでもあった。


『私は以織に…何なら想いを返せるかな…?』

『…もう十分、頂いていますよ』


ぎゅっと背中に腕を回して、以織は佐波の髪に頬を寄せた。


『もう十分、…十分です。———これ以上は、溢[あふ]れてしまう』


最初にこうやって抱きしめ合ったのは、いつだっただろう。

いつの間にか、お互いの身分などどうでもいいくらいに、互いを必要としていた。

以織の心音を耳に聴きながら、佐波は目を閉じる。

———どうしてか、とても寂しかった。

こんなに側にいても、まるで独りきりでいるようで。


多分、それが。


———時機[じき]に訪れる、別れの予感。
















———カタ、と物音がした。

夢と現の境を彷徨っていた意識が、急速に浮かび上がる。

名残惜しい気持ちを残しながら薄らと目を開けた佐波は、目前に広がる闇と天窓から零れる一条の光に瞬いた。


———夢…


指の隙間から零れていく砂を掴もうとするも、直ぐに手の平の砂ごと風に流されて消えてしまう。

掴み損ねた夢の切れ端についていつまでも考えていたい気持ちに駆られながら、佐波は目を覚まさせた元凶の存在を思い出して小さく眉をひそめる。


———今、何か音が…


カタカタ、と更に音が鳴った。———天井からだ。

ぎょっとして身を固め、無意識に身体を動かそうとしてまたもや激痛に阻まれる。

いい加減学習した方が良い…と自分で自分にガッカリしつつ、内心焦りで一杯だ。


———鼠…じゃない。この気配は…もしかしたら……多分……いや……恐らく……人間。


その考えを肯定するように、ぎし、ぎし、と天井板を踏みしめる音までしてくる。

こうなれば間違いない。音からして成人の———恐らく男のものだ。


———いいいい今、丸腰…っ


どころか全身創痍で動く事すら侭ならない佐波は、薬のお陰の眠気など吹っ飛んだ頭で必死に”可能性”を探った。


———ここはどこかの遊郭の軒だと、あの男性…空木が言っていた。ならば、客とか…?


いやいや、建物の構造は分からないが、多分この部屋は踏めば音が鳴る様な、そんな薄い板一枚では出来ていまい。

まるで拷問部屋のように四方は堅い木材に囲まれているのだ。

音だって、遊郭の中のどこかという割にはそこまで響いてこない。

だからこの音は間違いなく、”この部屋”の天井を踏んでいるわけで…


———そういえば…空木が私を『囮』に使うと…


辿り着いた発想にさぁっと青くなるが、少し考えて、その可能性はなかったのだと気付いた。

自分が誘拐〈このけん〉に関係ないことは、自分が一番知っている。

本当に何も知らない佐波を追って処分しようとする程、犯人等も暇ではないだろう。


———だけど…


自分が何かしらの大きな事件に巻き込まれていることには違いない。

それに、よく考えれば誰かに恨まれている覚えが…大変…ある。

そういえばここに来ることになった理由が、皇府の高官———清州に正面から噛み付いた結果だったな、と今更になって思い出し、佐波は出来る事なら頭を抱えたくなった。

あの高官がどのような人間かは、この怪我が物語っている。もしかしたら、佐波一人確実に殺す為に刺客を差し出したり…いや、でも空木は私が死んだ事になっていると…


悶々と考えている間にも足音は、恐らくそろりそろりと——下ではぎ、ぎ、と聞こえて来るが——動き回り、やがて何かを見つけたのか、ピタリとその音が止まると———


ガタッ ガタガタッ


「——っ!」


戸板が外れる音。

暗闇の端で一瞬、闇とは別の何かが動き、


———それは穴から這い出るように部屋の中に入り込み———


思い切り、佐波の足の上に着地した。


「いぃっ!!」

「わっ 莫迦者!」


痛い!と上げそうになった声に、何かが——恐らく男の手の平が——凄い勢いで口を塞いでくる。

その間も体中に悪寒のように走り回る激痛から悶える佐波に、降り落ちて来た”誰か”は慌てたように布団越しに佐波を跨ぎ、何かを懐から取り出した。

痛みにガンガン後頭部を殴られながらも視界の端にそれを捕らえた佐波は、一瞬刃物かと身を震わせ…


カカンッ


聞き慣れた音と、嗅ぎ慣れた火薬の匂い。

そしてシュワッと何かが燃え上がる光が本当に目前に見えて、反射的に目を閉じた。


「…っ!」

「…お前———」


知らない男の声が落ちてくる。

その声の意外な若さに、佐波は恐る恐る目を開け、そして燃え上がる簡易発火器の灯りに薄く照らされた男の顔を見た。


この薄暗さの中でも分かる、端正な顔立。黒い髪は後ろで高く、一つに結われている。

男———否、恐らく少年から青年への変わりかけであろう若さのは『彼』は、整った顔で強く佐波を睨みつけながら、用心深く言い放った。


「お前、ここで何をしている」


未だに残る身体の痛みに歯を食いしばりながら、佐波は「それは私の台詞では」と至極まともなことを思った。







本当に降ってわいた新キャラ。

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