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溟楼綺譚  作者: 上遠野
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佐波の父親のつくった借金は、家・土地・その他全てを売り払っても尚補えぬほどの巨額であった。

当の本人はとっくに蒸発していたが、借金取りは引っ切り無しに残された家族の元を訪れ、夫の裏切りに心身ともに疲弊していた母親にこう囁いた。


『借りたものを返さぬがお貴族様の礼儀ではないでしょう。家も土地も何もないこの家に残されたものといえば、”あなた”か、もしくは”子ども”か―――』


没落した貴族の婦人や子どもが遊郭に売られて行くというのは、割とよくある話だった。

だから佐波は、家が傾いた時からその覚悟を決めていた。

けれど母親は違った。名門貴族の出である母は、自分が辱められる存在となることを、決して受け入れられなかった。


『私には無理です。私、には』


母親の視線が他の兄妹を越えて、佐波でピタリと止まったのは、仕方がないことだ。

佐波は、父親の浮気に痺れを切らした母が、母とその愛人の間に作った子どもだった。

その事実は公には伏せられており、佐波は名門貴族の子として育ったが、内情は館の全ての者―――館の主である父でさえ知っていた。

そしてもちろん、佐波もそれを幼くして理解していた。

血を継がぬ子を疎む父親と、一時の気まぐれで作った罪の象徴である子を厭う母親。

兄妹の中で、一番最初に見切られる者が誰であるか、佐波に分からないはずがなかった。


『母様、私が参ります』


母親の視線を受けて、佐波が一歩前に出る。

途端に凍り付いていた室内の温度がにわかに緩んだのは、皮肉なものだった。


『ならば、すぐに準備を』


それで話は決まった。

仲買人である借金取りは、佐波の、貴族とは思えぬ地味な容姿に不満気な息を吐いたが、容姿よりもその幼さに渋々金を払うようだった。

どの時代にも、幼い子どもを好む性癖の金持ちはいる。

特に豊満な美女に飽いた金だけは持つ好色家などには、案外に受けがいい。

支度金として幾ばくかの手付金を貰った母は、だがそのプライドがそれっぽっちの金を喜ぶ事を拒んだのか、つんと澄ました顔で佐波に支度を促した。


『貴方は今から、この家の子ではありません。我が一族から遊女が出たとあらば、末代までの恥。よいですね』


母の言葉に、佐波は子女の礼儀通りに、屈んで頭を下げた。


支度の為一人、自身の部屋に戻ると、何故だか先に使用人の子であり唯一の友人である以織が部屋で待っていた。

もちろん、普段なら使用人が家人の部屋に入るなど、有り得ていいことではない。

しかし状況が状況であるだけに、佐波が驚く事はなかった。


『―――姫様が行かれるのですか』


どうやら、話が筒抜けだったようだ。

きっと少年だけではなく、全ての使用人に伝わってしまったのだろう。

使用人には聞かせられないと、金銭に関わる事は全て家族内で話し合われていたのだったが、そんな虚勢はとっくに見破られていた。

既に事情を察した幾人もの使用人が暇を申し出て家を去っていたし、佐波の記憶が確かなら、使用人であった以織の家族もまた、数日後にはこの家を去るはずだ。

見送るはずの自分が、ここで見送られる立場になるとは。

佐波は、自分よりも幾つか年上の少年に、照れ笑いを浮かべてみせた。


『私が買われるなんて。向こうは美人じゃなくてガッカリしているようだったけど』


請われて買われて行くのではなく、致し方なく買われて行くなんて、情けない気持ちにもなる。

けれど、そんなことを気にしていても仕方が無い。

買われる立場となった少女よりも、更に青ざめた顔の少年の為に、佐波は気丈に振る舞った。


『でも、きっとどうにかなると思う。私、結構力持ちだし、逃げ足も速いし、それに、遊郭なんてちょっと面白そう』


後半は少し本音だ。

都の遊郭は、それはそれは美しい場所だと、昔館に滞在していた行商人が話してくれたのを佐波は覚えていた。


―――遊郭ってのは、この世に存在するありとあらゆる道楽を一堂に介し、大皇都だいこうとに逐わす皇帝すら焦がれる、天人とも見紛う美男美女が麗しき微笑みで夜をも溶かす、まさに夜霧の向こうの黎明郷れいめいきょうでござぁす。あっしも男に産まれたなら、一生に一度はそこで美女とねんごろになりてぇもんで。


かかと笑う行商人の言う”懇ろ”の意味は理解出来ずとも、彼の言う”黎明郷”は幼い佐波の興味を引いた。

佐波は産まれてこの方、布津から出たことがなかった。否、布津どころか、屋敷の周りから出されたこともない。

両親は不義の子である佐波を、周りに知らしめたくなかったのだろう。

だから、遠方から貴族相手に行商をしてまわる人々が館に訪れるのが、佐波にとっては唯一の娯楽であった。


出来るだけ心配させないように、無邪気にそう言った佐波だったが、もちろんその”黎明郷”が実際は腐臭を放つ汚泥の沼のような、恐ろしい場所だとも知っている。


―――遊郭そこに飼われた哀れな雀は、帰りとうて啼いても頬を打たれ、死にとうて啼いても頬を打たれ、蹂躙されるがまま、偽の極彩の羽を涙で濡らし、ただ骨になるまで啼き続けると申します。世にこれほど哀れな生き物がおりましょうか。もしそれが業だというならば、どのように恐ろしい行いを彼らがしてきたというのでしょう。なんの罪があって、あのように惨い仕打ちを受けるのでしょう。


佐波が物事を自分の力で理解出来る様になってきた頃に、館に訪れたやや身なりの良い行商人は、佐波に遊郭の話をせがまれて、哀し気にそう語った。

”黎明郷”とは明らかにかけ離れたその話に、当初佐波は戸惑い、”遊郭”とは二箇所あるのかと考えた程だ。

そしてその考えを正し、遊郭とはどういう場所であるのかを教えてくれたのは、他でもないこの友人の少年だった。


だから、佐波の虚勢を彼が見破らないわけがない。

それでも少年は何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。

ただ、亡霊のような虚ろな瞳で、佐波を眺めていた。


『…ごめん、以織』


そんな少年を見ていたら、ふと泣きそうになって、佐波は慌てて鞄を引っ張りだし衣服を詰めた。

必要なものなんて分からない。だから適当に荷物を詰めて、鞄を閉じ―――


『以織?』


鞄を持ち上げようとした佐波の手を、以織が掴んだ。

年齢の割には小柄だが、佐波よりも幾ばくか大きな手だ。

その手が震えている。震えて、佐波の手を握り、


『姫様』


いつもより低い、静かな声で、以織が言った。


『側を離れることを―――お許しください』




黎明郷れいめいきょう…桃源郷のようなものです。喜びと快楽の郷。”夜霧の向こう”という枕詞は吟遊詩人が広めたものと思われます。


文字ばかりで見難い文章。スミマセン…



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