18
「ありゃあ、魔性だな」
臥龍城の地下牢への入り口は、母屋から離れ、風情のある雅な庭の一隅に、静かに口を開けている。
石畳の階段を暫く下り、さらに知っている者ですら迷いそうな入り組んだ地下道を進むと、形状からして凶悪な用具や器具が確かに使用されているとわかる、実用的に配置された拷問部屋に行き当たり、そのすぐ側に、冷たい石床のむき出しになった牢が姿を現す。
溟楼庵で約2年勤めているサツキも、臥龍城の地下牢に来るのはこれが初めてだった。
そもそも、臥龍城は総主の為の建物であって、一介の使用人が軽々しく来れる建物ではない。
皇帝陛下が逐わす、皇都の中の更に中核である”大皇都”の中に存在するだけに、ここに来るまでに幾つもの関所を通り、身分を示さなくてはならないのだ。
2年間でサツキが臥龍城を訪れたのは、今日が2度目。
あの時はもう二度とここを訪ねる事は無いと思っていたものだが、得てして期待を裏切ってくれるのが社会というものらしい。
もっと言うなれば2年後の自分が再びここを訪れた際に、17の少女を地下牢に投げ込み、見殺しにすることになろうとは、想像するべくもなかった。
―――知っていたら、早々に辞めていた?
答えはきっと是だろう。だが、考えても詮方ない事だ。
事実、事は起こった。そしてサツキは、佐波を見殺しにしている。
現在進行形で、最悪な形の未来を進んでいるのは間違いない。
束の間閉じた瞼の裏に、今しがた見た佐波の姿が浮かんだ。
結局手を貸す事になった空木[うつぎ]が、背負っていた佐波を地下牢に横たえると、彼女は微かに身じろぎ、薄らと瞼を腫らした目を開けた。
痛みに耐える様な荒い呼吸。唇も、瞼も切れ、顔は痣と血に染まっていた。
火事で怪我していた方の背中に繋がる左腕は、完全に折れてしまったのか歪な方角を向き、開いた傷からの出血で、その背中を滴る程に赤く濡らしていた彼女は、呻きながら、辛うじて言葉を発した。
『……ご………な、さ……』
それが自分たちに向けられた謝罪の言葉だとすぐに理解し、応えを返す間もなく、サツキは空木に引っ張られる様にして牢から出された。
抗議の視線を向ければ、問答無用の視線で返される。
空木は牢の監視に据えた数名の用心棒と、苦い顔で佇む警吏の深に黙礼をすると、さっさと踵を返して元来た道を辿り、アッサリ地表に舞い戻った。
いつの間にか日は暮れていた。頬を撫でる晩秋の風は、柔らかく乾いている。
そして茜色の西日に照らされる空木の背中を渋々追いかけていたサツキに、彼は開口一番、冒頭の台詞を呟いたのだ。
「…ましょう?」
「『魔』『性』だ。面倒だから意味は自分で察しろ」
普段使わないような単語を出されて、慌てて自分の中の辞書を引く。
日常会話は不自由なく使える様になったけれど、未だに知らない言葉も多い。
回り番で使う為の遠回りな追求や回りくどい脅しなどは覚えたが、商人がするようなビジネスライクな会話は絶対出来ない自信がある。
それでも勉強の嫌いなサツキが僅か2年程でここの言語を習得出来たのは、皇国の言葉が、元の世界――日本語と酷似しているからだ。
文法もほぼ同じだし、漢字に良く似た固文字を使うところも、それを崩した平文字を使うところも似ている。
サツキはルッカと共に皇国[ここ]に辿り着くまでの約3年間、様々な国を回って来たが、暮らしていると言えるまでに拠点を構えたのも、きちんと言語を習得出来たのも、皇国[このくに]は初めてだった。
ただ発音だけは、日本語にない子音を使うものもあって苦手だったりするのだが…
そういえば、空木もまた皇国外の生まれで、確か皇国領の貧しい公領地だったとか聞いた気がする。
ちなみに皇国領とは、皇国の植民地的支配下に置かれた国の別称だ。
どこの世界でも”支配”とは同じらしく、皇国領に住む人々は自国の言葉と共に皇国の言葉を必然的に習わされるのだとか。
故に言葉に何不自由していない空木は、いつもの如く、人を馬鹿にしきった冷たい目でサツキを見下ろして続けた。
「あの使用人、お前の手には負えんぞ。さっさと諦めて佐々目さんに任せろ」
あの人ならすぐに真実を捕らえられる。と、熱の無い声で淡々と諭す空木に、サツキは沈黙で応えた。
確かに、佐々目ならすぐに佐波の本性を暴くだろう。
だが、回り番に半生を費やして来た彼は、良い意味でも悪い意味でも回り番の掟の化身のような人だ。
彼女の利用価値と存在価値を即座に計った彼が、どのような手段で佐波を追いつめるかと考えるとぞっとする。
今回のことだって、きっと最初からサツキ一人に任せる気はなかったのだろう。
傾くのは一瞬。傾いたら、二度と同じ位置には戻れない。―――佐々目がサツキの説得に頷いたのは、サツキを『泳がせ』、もし『傾けば』佐波と一緒に片付ける気だったのではないか。
――『俺たちの仕事は只一つ。疑うことのみと知れ』――
それは仲間にさえも適用される、回り番の絶対的な掟[おきて]。
黙り込んだサツキに構う事なく、空木は歩きを止める事なく言葉を続けた。
「ありゃあ厄介な質[たち]だ。もし全てが計算だったら、末恐ろしいよ。恐らく佐々目さんでも手こずるだろうな」
「…! な、何故です?」
予想外に危険視されている佐波に驚いて問うと、空木は白々とした視線を小走りに自分を追いかけるサツキに向け、
「お前あの時、清州を斬ろうとしただろう」
平然と、爆弾を落とした。
あからさまにギクリと全身を強ばらせた立ち止まったサツキに、彼は「やっぱりな」と呟いて、再び前を見据えて歩く。
ギクシャクしながらもどうにかその背に再び追いついたサツキが、何と言葉を切り出そうかと迷っているうちに、空木が何でもないことのように口を開いた。
「別に責めてやしないさ。俺だってあの男はいつか『なます切り』にしてやりたいと思ってるしな」
「ちょっ!イ、イつから私を見張ってたンですか!?」
空木の口から何気なく飛び出す『日本語』(しかも使用法合ってる!)に耳を疑いながら問うと、彼は平然と応える。
「お前があの警吏といちゃこらしてる辺りからかな」
「空木さンちゃンと目ぇ開けてました!?」
あのやり取りの何処をどう見たらそうなる!?
どうせ見張るなら正確に!と口走りそうになったサツキを、空木はじろっと見据え、
「んな事はどうでもいい。お前、なんで自分が清州を斬ろうとしたのか、ちゃんと分かってるか?」
「――え?」
「…だから、お前はもうこの件から手を引けって言ってるんだ」
お前じゃ『喰われる』ぞ、と呟く。
―――喰われるったって…
「…でも、別にあの子に嗾[けしか]けられたから、斬ろうと思ったわけじゃないし…」
ぽつりと呟き返せば、更に強く睨まれた。
「それがお前の弱さだと言ってるんだ。なぜあの使用人を庇う?疑うべき容疑者であることは明白なのに、お前はなんで”あの使用人の為に”刀を抜こうとした?その理由にも行き着かない愚鈍なやつは、回り番には要らない。早々に出て行け。」
「…っ」
「あ、ルッカは置いて行けよ。あれは役に立つ」
「~~っ!う、空木さンっ!」
冗談のように何気なく言っているが、この男はこれで至極本気なのだ。
思わず縋る様に声を上げるとサツキを、空木は冷たく眺め、
「お前はあの使用人の懐に無防備に飛び込みすぎた。その所為で正否の判断すら危うくなっている。…いや、その様子じゃあお前は既にあの使用人に完全に喰われちまってるみたいだな」
「だ、だから喰われるって」
「魔性だ」
スパッとサツキの言葉を遮って言った。
「あの使用人は、人を惹き付ける妙な才能がある。言葉、声、立ち振る舞い、視線。容姿が入れば完璧だったんだろうが、まぁあの外見でも十分通用するみたいだな。現にお前が堕ちてるわけだし。そういう人間の性を『魔性』と呼ぶ」
「…ましょう…ですか?」
ましょうって、あの『魔性』で意味は合ってるんだろうか。
でもそれって、魔性の女とか、そういう使われ方じゃなかったっけ…?
…佐波が?……………ま、魔性の女…………?
佐波のあの人畜無害そうな外見を思い出してぐるぐる思考を回しているサツキに、空木が更に続ける。
「『力になりたい』『助けたい』『守りたい』『役に立ちたい』―――正しいのか間違っているのかは関係なく、ただ人にそう思わせる才だ。勾引[かどわか]すんじゃない。本人が自分でそう思う様に仕向ける。それ故に、自分が正常に判断できていないことに気付かせない。―――なぁ、恐ろしいだろう?」
彼はそう言って、痩せた頬に笑みを浮かべた。人となりを伺わせる―――冷たい笑みだ。
「ああいう人間はな、大体無自覚なんだ。自分が発している甘い匂いにも気付かず、周りを魅了していく。魅了された人間は、己が『他人の意志』に奥深くまで侵されているのにも関わらず、それを認めない。それが自尊心に強く絡み付いているからだ。―――お前も、あの使用人に魅了されている自分を認めたくはないんだろう?…そういうことだ」
あの使用人、太夫の素質があるな、と面白そうに顎を摩る空木に、唖然としてしまう。
―――佐波が……?
……言われてみれば確かに、あの時なぜ自分が刀を抜こうとしたのか、その理由が今となってはあやふやだ。
佐波と知り合ったのはつい最近だというのに、それより深い付き合いの回り番の任務を差し置き、彼女を優先しようとした。
あの時はそれが『絶対』だという確信があったのだ。沸き上がる歓喜さえ感じた。
自分こそが正しく、間違っているのは目の前の光景なのだと。
彼女を助ける為なら、最悪刺し違えてでも止めようと本気で思っていた。―――それの正否は全く考えずに。
―――でも、あれは確かに自分の意志だったはずだ。佐波を助けたいという思いは、間違いなく自分の……
背筋を冷たい汗が流れた。
どう考えても、違和感がない。
でも、それこそが”問題”なのだと、空木は言っているのだ。
———私は……
「まぁ、だからってあの使用人が”事”の犯人だとは思ってないさ。主犯にしては身を晒しすぎるし、馬鹿みたいに無防備だ。大方、主犯かもしれない豪族家の雇い主もあの使用人の特異な体質までは知らないんだろう。知っていたら、もっと上手く利用していただろうしな」
「…ど、どうして…」
どうして、空木はそれに気付いたのだろう。否、空木だけじゃない。きっと佐々目も気付いている。
彼らと佐波の接点は一つもなかったはずだ。なのに、なぜ彼女のそれに気付けた?
不安定に移ろぐ視線でそれだけ問うと、空木は鼻で笑った。
「言ってるだろう?『疑う』ことが仕事だと。お前は先入観を持ってあいつを見ている。それはお前が”あの晩”のあいつの姿を見ているからだ。俺たちはそれを知らない。だから、出会い頭から疑ってかかれる。―――まぁ、あの容姿に少々騙されかけたのは認めるがな」
彼は面白くなさそうにそう呟いて、さっさと歩き出した。
サツキはどうにか考えをまとめようとしながら―――
ふ、と当然の事実に行き当たり、慌てて空木の背中を追う。
「で、でも、何にしたって佐波は、あの怪我じゃ助からなインじゃ…!」
清州には、明日佐波の死体を見せると確約してしまっている。
この件から手を引くも何も―――もう既に、残された道などないのではないか。
必死に追いすがるサツキに、空木は立ち止まって振り返った。
その顔にありありと「お前は馬鹿か」と書いてあって、ぎくりとする。
―――な、何か間違った事を言っただろうか…!?
戦々恐々と空木の言葉を待つサツキに、彼は数回怒鳴ろうとし、しかしそれをどうにか堪えると、深い嘆息と共に言った。
「…お前、本当に知らないのか。それともただ単に馬鹿なのか、どっちだ?」
「ど、どっち?」
「ああ、もう答えなくていいぞ。俺の中では答えが出てるからな。――いいか?」
失礼な物言いに反論する間もなく、空木は自分でサツキとの距離を縮めると、がしっとその肩を掴んだ。
―――吃驚するくらいよく似合う、怒り笑いを浮かべて。
「一度しか言わないから良く聞けよ? あの使用人は、助かる。 以上、終わり、解散。じゃあな」
「っえええっ!?ちょ、ちょっと空木さン!?」
身も蓋もなく言い放って颯爽と去ろうとする空木に飛びかかって止める。
痩せている割に力の強い彼は、サツキの体当たりに怯む事なく、しがみつくサツキを引きずりながらずんずん前方に進んだ。
全く取り合わない空木に、サツキは叫び続ける。
「ままま待って!待って下さイって!え?なンで?なンでですか!?だって医師[せんせい]も不在なンでしょう!?あれ?それとももしかしてあれ嘘ですか!?」
「…お前、本当にしぶといなぁ。そういえば班長は、お前のそのしぶとさが好きみたいだぞ。俺にはわからん価値観だが」
「お褒めに預かり光栄です!が!それより…!」
「最は本当に留守だよ。昼前郭に呼ばれて往診にいったんだ」
サツキの粘り強さに負けた形で、空木は呆れた様にそう答えて立ち止まった。
「じゃ、じゃあやっぱり最低でも二刻は戻れなインじゃ…!」
ここはサツキの世界とは違う。医療の発達は緩やかで、輸血もままならない。
火事の怪我で元々体力が落ちている佐波を、あのまま止血もせずに放っておけば、例え二刻で最が戻れても、もう処置など出来ないのではないか。
脳裏に再び浮かぶ、ぐったりした佐波の姿。
自分なら、応急の手当くらいは出来た。止血して、傷口に黴菌が入らないようにすることだって。
でもサツキはそれをしなかった。それはきっと人として間違っている。でも、この世界では常識で。
ぐらぐらと思考が定まらないサツキを見て取って、空木は呆れ果てた声を上げた。
「お前なぁ…。そもそも、ただ治療するだけなら早音を呼べば済むところを、なんでそうしないか、分かってるのか?」
———そ、そういえば…!
すっかり忘れていた早音の存在にあわあわしてるサツキを面白そうに眺めながら、空木は声量を落とす。
「清州の手の者が内部にまだいる。最であろうと、正面から行って治療なんか出来るものか」
「ええっ!?なら…!」
「だーかーらー」
らしくもなく焦れた様にそう言って、空木の手がおもむろにがサツキの頬に伸びた。
柔らかく、強引に。
まるで恋人同士の戯れのような動きでそのまま引き寄せられ、耳に吐息がかかる———
「…だから佐々目さんは”地下牢”に入れたんだろう?溟楼庵と臥龍城は、地下道で繋がっているんだ。…本当に知らなかったのか?」
う、嘘つきました…(涙)次回までサツキさん視点です…申し訳なさすぎる…orz