17
「ま」
「こ、こら、真灯!」
サツキが少年の名を呼ぶより早く、焦燥を滲ませた男の呼び声が中庭に響き渡った。
一同の視線が集まる中、真灯が現れたのと同じ方向から飛び出すようにして姿を現した声の主は、目の前に広がる光景――位の高い公服に身を包んだ中年の男の前に立ち塞がる真灯の姿――に、まるで足が地面に張り付いたかのようにぴたりと動きを止め―――見る間に蒼白になる。
―――あの男は…
その男の顔に見覚えがあって、サツキは記憶を素早く浚った。
―――…そうだ、何度か溟楼庵で見た事がある…確か双子の御守役の…
歳の頃は20代の前半程だろうか。短く刈り込んだ髪に、穏やかな垂れ目を持つ、若い男。
聞いた話では、元々は男娼として売られてきたところ、その笛の腕前を買われて、総主直々に彼の息子達の笛の指南役にと抜擢されたのだとか。
名は何と言ったか……確か…
「葵[あおい]!」
蒼白で硬直している男の後ろから、真灯と寸分違わぬ容姿の少年が飛び出してくる。
名を呼ばれた若い男——葵は、身体をビクリと揺らして硬直を解くと、駆け寄ってきた少年——耶灯を慌てて制した。
「来るな!」
「でも真灯が!」
焦燥に駆られた叫び声。
制止を振り切って駆け寄ろうとする耶灯を後ろに押しのけるようにして、葵は真灯と真灯の対峙する清州の元に駆け寄ると、その足下にざっと平伏した。
「も、申し訳ございません!此度[こたび]は子どもが失礼を…!」
「なんだ貴様等は!」
横槍が入ったことで動揺したのか、清州が怒りに戸惑いを含ませた声を上げる。
刀に手をかける自分に臆することもなく、燃えるような怒りに染まった瞳で見上げている子どもの美しい容姿にも怯んだようだった。
その様子に葵は慌てて真灯の腕を引っ張り、地面に膝を付かせた。
「ま、真灯!早く謝れ!」
無理矢理に頭を下げさせられそうになって、真灯は暴れてその戒めを解く。
「なんでっ なんで誰も佐波様を助けないんだ!早く、最を呼んで!」
「馬鹿!場を弁[わきま]えろ!」
「嫌だ!誰か、最を…!」
「坊ちゃん、医者[せんせい]は郭[くるわ]の往診でお留守のようだ。」
今の今まで集まった野次馬に埋もれて、その気配一つ見せなかった男が声を上げる。
良く知ったその声に、サツキはギョッとして辺りを確認し、その姿を確認するなり小さく叫んだ。
「佐々目[さざめ]班長…!」
下男のような質素な衣服で小柄な身を包んだ、灰髪の男。
ぱっと見は好々爺のようにも見えるが、ふとした瞬間に若者のような精悍な表情をするこの年齢不詳の男は、サツキの直属の上司だ。
彼はいつの間にか、清州と真灯が対峙する中庭の中央近くまで歩み寄っていた。
なんで班長がここに!と叫んで問いそうになったサツキより早く、次から次へと現れる横槍に痺れを切らした清州が苛立たし気に叫ぶ。
「どうなっている!全員斬られたいのか!!」
叫ぶなり腰の刀を抜き放った清州に、その場に集まっていた使用人達は我に返ったようにどよめき、巻き添えを恐れて逃げ出す者やその場で平身する者で溢れ混乱が起こった。
「煩い!黙れ!黙らんか!!」
もはや清州の言葉など通らない。
サツキも我が身の安全を守る為に好き勝手去って行く使用人に突き飛ばされて、前のめりに倒れそうになる。
その腕を掴んで支えたのは、これまた見知った男だった。
「う、空木[うつぎ]さン!」
「また面倒なことをしてくれたなぁ、サツキ」
「うっ」
年齢はサツキよりやや年上。短い黒髪の、は虫類を思わせる、痩せた冷たいつり目の男だ。
サツキと同じ回り番・班で、同じ”副班”という肩書きを持つこの男は、何かとサツキを邪見にしている。
その割に面倒見がいい性格なのか、このように要所要所で助けてくれることも暫しある所為で、サツキにとっては憎むに憎めない存在だ。
———な、なんでここに班長と副班が揃ってるの!?…もしかして、私、見張られてた…!?
サツキが動揺しているうちに空木は至極面倒そうにサツキの腕を放すと、彼女の耳を引っ張る様にして自分の口に近づけた。
「イ、イたっ」
「屋敷が囲まれている」
「へ、へっ?」
「恐らくは清州の手の者だ。…いや、もしくは左相か」
ぎらり、とその視線を中庭で怒鳴り続けている清州に向けると、すぐにまたサツキを見る。
「どういう思案かは知らんが、総主の留守を狙ったのは間違いないだろう。あの使用人を攫う気のようだ」
「な、なぜ…!」
「分からん。———が、分かることもある」
———な、何が??
問いを出す間もなく、清州の怒声を割るようにして、嫌に飄々とした佐々目の声が響いた。
「どうやら大変な粗相があったようで…清州様のお怒りは至極ごもっともにございますれば、全てはここの秩序を守る私どもの不手際。何卒、御沙汰は手前に頂戴したく」
「っ班長!?」
その言葉に驚愕して、堪らずサツキは声を上げた。
この騒ぎは、誰がなんと言おうとその場に最初からいながら防ぎきれなかったサツキの責任だ。
責められるべきは自分なのに、その咎を、彼は一挙に引き受けるつもりで居る。
———そんな、そんなこと…!
させるワケにはいかない、と駆け出そうとしたサツキを、その肩を掴んで空木がアッサリと引き戻す。
「馬鹿。お前が出てもどうにもならん」
「でも!」
「変に動かれて迷惑被るのは佐々目班長だぞ」
「でも!!」
「『でもでもでも』と、お前は本当に頭が悪いなぁ。いいから、佐々目さんの意図をその足りない頭で考えてろ」
「か、考えるったって…!」
動揺のあまり、今にも泣き出しそうな目で空木を見上げたサツキに、彼ははぁーっとわざとらしいため息をついた。
「…佐々目さんは”時間を作ってる”んだ」
「えっ?」
「お前は大人しく見てろ。それと泣くな!鬱陶しい!」
「ううっ」
———や、優しくないけど優しい…!
荒々しく頭を叩かれて、サツキはぐずぐずと鼻をならした。
これだからこの男は苦手なのだ。いっそ全てにおいて邪見にしてくれるなら、嫌いになれるのに。
サツキがオロオロしている間にも、事態は転がって行く。
佐々目の言葉に、清州は自分を立て直す様に、大声で叫び返した。
「ではなんとする!お前の首を斬り、献上するとでも言うのか!」
「お望みであれば」
ニヤリと、まるで挑発するかのような笑みさえ浮かべて、佐々目は膝を付き頭を差し出すようにして下げた。
あまりにも平然と行われるその動作に、清州が一瞬鼻白み、次いで再び怒り喚き出す。
「わ、わ、私を馬鹿にしおって…!!お、お、お前の、お前の薄汚い首などでっ つ、償えると思ってか!!」
「よもやそのようなことは」
かかと笑って、佐々目はまるで少年のような仕草で小首を傾げてみせた。
「この身がお気に召さないのであれば仕様がない。ならばそのお怒りは、やはりこの者自身に償わせるのが宜しいかもしれませんな」
佐々目はちらりと、地面に力無く横たわる、満身創痍の佐波に視線をやった。
びくっと肩を震わせた真灯は慌てて守る様に佐波の頭を掻き抱き、その様子に平身していた葵が素早く身を上げて、真灯を佐波から引き離すように抱え上げる。
「葵っ!離せ!」
「離せるか!お前に何かあれば、俺が総主に殺されるんだぞ!」
「父上は、関係、ない!」
身体を捻って必死にその腕から逃れようとする真灯を、葵は懸命に抱えてその場を身を伏せて後ずさった。
「…父上、だとっ?」
しかし、折角逃れる機会を得た葵達を止めたのは、驚いた事に怒り沸騰中のはずの清州だった。
瞠目して葵に抱えられた真灯を見つめ、何事かに驚愕している男に、佐々目は素早く答えを返した。
「彼[あ]の子どもは溟楼庵総主様の御子、真灯様にございます。何卒、ご容赦下さいませ」
「総主の……子……」
あれが、と男が小さく呟いたのを、佐々目は聞き漏らさなかった。
束の間怒りを忘れて真灯に見入っている清州に、そうっと誘導するように声をかける。
「…先ほどの警吏の言葉によると、この罪人を”無事に”運ぶ様にとの命がおありのようで。さしずめ、尋問されるおつもりだったのでしょうが……ではどのように致しましょうか」
「…な、なにっ?」
我に返ったらしき清州が慌てて問い返すと、佐々目は平然と続けた。
「その者は、元々火事で大怪我をしていた。更にこの様子では、もう長くはありますまい。今医者はここに居らず、呼び出しても二刻はかかる。…となれば、罪人は移送する間に死に至るでしょうなぁ」
「…っ」
「喩え命が保ったとしても、この怪我では治療せねば取り調べなどに不都合が出ましょう。どのように御上にそれを報告されるおつもりで?罪人が火事で怪我を負っていたことは、既に上部なら誰もがご存知のはず。清州様がどのように説明されようと、この罪人の様子では御上は清州様が”意図的に”手を挙げたのではないかと勘ぐられますわなぁ…」
「………」
佐々目の言葉に、清州はあんぐりと口を開け、次いで憤慨したように顔を赤くした。
誰もが薮蛇だと思う中で、しかし佐々目だけは一人平然とした顔で、
「どうでしょう。ここは一つ、私どもにこの者の処罰を任せては頂けませんか」
畳み掛けるようにそう言って、再びニヤリと笑った。
彼を上司に持って2年経つサツキからすれば、あの笑みの恐ろしさを知らない人間を可哀想に思う。
あれは悪魔の笑みだ。人を誘い出し、それらしき知恵を授け、勝手に堕落していくのを待つ悪魔の微笑み。
善からぬ思惑のある輩が、彼の口車に乗せられて勝手に脱落していく様を何度も見ているサツキは、佐々目の含みのある笑みに思わず震えた。
「な、ならん!それは、私がこの手で」
「清州様の御刀で、その者を一思いに処罰されるのも良いでしょうが…果たしてそのようなご慈悲が必要かどうか」
「じ、慈悲だと?」
意外な言葉を聞いたというように瞠目する清州に、佐々目は「はぁ」と相づちを打ち、
「慈悲、にございます。このまま放置するだけで、この者はこれから死に至るまでの数刻を、苦しみの中に終えましょうに。それを早目てやるのは、慈悲というものにございましょう?」
如何にももっともらしく言う。
佐々目の言葉に目に見えて狼狽える清州の姿に、サツキはいつもながらの上司の悪魔っぷりに場違いな感嘆のため息をついた。
その横でぽつりと「泣いた鴉[からす]が…」と呟いた空木は全力無視の方向で、それでもハラハラしながら佐々目の仕掛ける罠を見守る。
「しかし…もちろん、それでは清州様のお気持ちは静まりますまいて…」
相手を落し、立て、持ち上げ、また落とす———緩急を付けながら、佐々目は言葉を繰り出す。
会話の主導権を握られているとは知らず…否、喩え分かっていたとしても、先に狼狽えた時点で既に負けているようなものだが…予想通りに清州が口を開いた。
「こ、このまま咎めもなく見過ごすことは出来ん!」
その言葉に、佐々目は笑った。年齢を更に分からなくさせる、若々しい溌剌として笑みだ。
「ならば、地下牢に繋ぎましょう。牢の中にはその死の見届け人としてそちらの警吏を御借りしたいのですが、如何ですかな」
いきなり呼ばれて、今の今まで事の成り行きを地面に平身して見守っていた警吏がギョッとして顔を上げた。
が、もちろん反論など出来るはずも無く、悔しそうな顔で再び平伏し、了承の意を示す。
それを見て取り、清州は苛立たしそうに、けれど当初よりは随分冷めた頭で思案深気に問った。
「…上部には何と報告する」
「罪人は火事の怪我で死んだ、と」
「……これの死体は」
「明日、清州様にのみ御見せしましょう」
「——っダメ!」
「あっ オイ、こら真灯!」
真灯は葵の拘束を自力で解くと、再び横たわる佐波に被さる様にして抱きしめた。
「いやだ!いやだいやだいやだ!佐波様を…!佐波様を死なせたくない…!!」
「真灯!」
堪らず駆け寄ってきた寸分違わぬ容姿の少年——耶灯は、そんな片割れの姿に狼狽えながらも、清州に向かって平身した。
「お、お願いです!真灯を…っ 佐波様を…御赦し下さい…!!」
幼子が懸命に助命を願う姿は、憐れみを誘う。
清州も子どもを斬る程の悪漢ではないのか、ぐっと喉に何かを詰まらせたように低く唸り…やがて小さく呟いた。
「…明日、だな」
「はい」
「もしその言葉を裏切るようなことあれば、お前達の目を刳り貫いて犬に食わせるからな!」
「御意に」
畏まって頭を下げた佐々目にようやく溜飲を下げて、清州は屋敷中に響き渡るような怒声を張り上げた。
「ここでの事は他言ならん!良いな!」
清州の言葉にその場にいたほぼ全ての者が、ざ、と平身した。
もし事が外に漏れれば、ここにいる者達は皆、佐波と同様かそれ以上の目に遭うだろう。
一先ず目前の安全を確保する為に躊躇い無く頭を下げる使用人たちの間で、サツキも同様に頭を下げながら、きつく唇を噛み締めた。
―――権力…
ただの肩書きが、この世界では全てを征している。
命が平等だという理念も、きっと未だ無い。
差別され、区別されるのがこの国では当然の常識で。
だから身元も保証されぬような人間は、権力の元で媚びへつらいながら生きる以外に長生きする方法がないのだ。
———佐波…
あんたは、なんでこれに逆らおうとしたの? それは、命を懸けるほどのもの?
噛み締めた唇が切れて、口の中に血の味が広がる。
そっと顔を上げ、騒ぎの渦中にありながらも地に臥し意識を失っている佐波を見つめていると、不意に視線を感じた。
無意識にその視線を辿れば、そこにはじっと熱の無い目でこちらを見つめる佐々目が。
反射的にぎくっと身体が強ばり、そんなサツキの様子に”あの笑み”を浮かべた佐々目は、視線を清州に戻すと「では」と声を上げた。
「宜しゅうございますか」
「勝手にしろっ」
捨て台詞で完全降伏した清州が、手の刀を腰に差し直すまでをじっと見つめてから、佐々目は平然とした顔で「サツキ、」と名を呼び、———そして、
「その”お客さん”を、地下牢へ」
主人公が気を失っている間に登場人物が増えて行く…
3話に出て来た年齢不詳のお方は回り番の班長さんでしたー。
そして8話に台詞だけ出て来た男が葵です。