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溟楼綺譚  作者: 上遠野
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―――まずい。明らかにまずい。


唾を飲み込む音まで聴こえてきそうな、酷く緊迫した空気の中で、サツキはようやく我に返った。

そして必死に己の冷静さをかき集める。


何度瞬こうが覆されない、目前の光景。

男に胸ぐらを掴まれ、身体を半分宙に浮かせながらも、佐波は決して相手から目を逸らさない。

食らいつく様に、とは少し違う。相手が食らいついて来るその一瞬を狙う、老獪な獣のような目だ。

サツキの場所からでは男の表情までは伺えないが、その肥えた身体がぶるぶると震えているのが”怒り”の所為なのは明らかだった。


―――考えろ、考えろ、考えろ…


なぜ警吏が軍部のお偉いさんと一緒に来たのかなど、今はもうどうでもいい。

問題は――大変腹立たしいことに――この部屋にいる全ての命の与奪権を、この頭の悪い鬼畜セクハラ親父…もといお偉いさん、清州きよすが握っていることだ。

どうすれば男の手から佐波を取り戻すことが出来るだろうか?

男の腰ある飾りのような豪奢な刀をチラチラ見ながら必死に考える。

あれに男の手が伸びたら、お終いだ。佐波は切られる。元より怪我人なのだ。死なない理由を捜す方が難しい。

ならば、先に刀を奪うか?―――そんな事したら、明日を待たずに自分が晒し首だ。

では口で説得する?…あれだけ激昂した男を?無駄に気位が高く、見るからに陰湿そうなあの男を?……何と言って?


自分の手の先から熱が消え、小刻み震え出したのにも気付かず、サツキは額にだけ意識を集中させていた。


―――…そもそも、なぜ佐波は男に逆らった?


権力者を嫌う自分ですら、ここで生きる為には彼らに平伏さねばならないことくらい知っている。

佐波はその年齢に似合わず、礼儀正しい謙虚な子だ。その常識は身に沁みているはず。

気が短いと自負する自分ならともかく、彼女がキレるなんてよっぽど…


ふ、とサツキの脳裏に、これまでの佐波の行動や言動が過った。


気落ちした、生気の薄い顔。

容疑者だと突きつけられても動揺をみせず、自分が拷問を受ける可能性ですら、青い顔で笑って受け止めた。

まるで……そうだ、まるで、この世のことなど、もはやどうでもいいと言わんばかりに―――


―――あの娘の探し人が、すでにこの世にいなかった。それだけのことだ―――


「う、」


早音が聞いたという最の言葉に閃く。

それから導き出した答えに、サツキは思わず小さく呻いた。


―――まさか…まさかあの子、ただ単に自棄やけになってるだけ…!?


よろ、と足下がよろけそうになる。

だがそう考えると、彼女の今までの行動が理解出来る気がした。

佐波はサツキがこの部屋にきた当初から、多分、冷静といわれる状態ではなかった。

―――恐らく最初から、キレていた。

でもそのキレ方があまりにも静か過ぎて、他からはただ気落ちしているかのように見えていたのだろう。

地下をたゆたうマグマのような激情を一気に噴き出させた切っ掛けは、間違いなく清州の言動だ。

その何が彼女の逆鱗だったのかまでは分からないが…

きっと佐波は、全て分かった上でやっている。上に逆らう事の意味も、その後の自分がどうなるのかも。


―――だから尚のこと質が悪い。


いつの間にか思考が佐波を助け出すことからずれていることにも気付かずに長考していたサツキは、廊下から聴こえて来る幾人もの足音で我に返った。

しかし、その音で我に返ったのはサツキだけではない。


「…お、のれ…!痴れ者があああ!!」


佐波の胸ぐらを掴んでいた男が、硬直から解き放たれ、佐波を―――


佐波を、力任せに障子に投げ飛ばしたのだ。


声を上げる暇もなかった。

佐波の軽い身体は障子に叩き付けられ、その衝撃で障子の枠組みごと廊下に投げ出された。

どこからか甲高い悲鳴が上がる。足音がバタバタと近づき、騒ぎを聞きつけて現れたであろう使用人達が、壊れた障子の上に力無く横たわる佐波の周りを囲んだ。


「それを殺せ!」


助け起こそうとした使用人達を、清州の恫喝が止める。

びくりと動きを止めた使用人達を横に放るようにつき飛ばし、ドカドカと佐波に近づいた男は、呻いて意識を浮上させた佐波の腹に激しい蹴りを入れた。

「がっ」と空気を吐き出して、佐波の身体が廊下を飛び出し、その向こうの中庭に転がり落ちる。

乾いた芝の上に落ちた佐波が、身体を折り曲げて激しく咳き込むのが聴こえて、サツキはようやく震える身体を動かせた。


「佐波…!」


駆け寄ろうとしたサツキの腕を、横で同じ様に放心していた警吏が掴んで止める。

驚いて見上げると、彼も驚いたような顔で自分の手を見て、そして忌々し気にその手を振り払い言った。


「お前が行ってどうする!もう取り返しがつかないことくらい」

「関係なイわよ!」

「聞け!」


警吏がぐいっとサツキの肩を掴んだ。

力加減の無いそれに苦痛で顔を歪ませるサツキになど構わず、男は低く諭す様に言う。


「…お前が出ても、死体が一つから二つに増えるだけだ。それくらいは分かるだろう!」


最後の言葉は、懇願のようにも聴こえた。

緊張と動揺を隠しきれない警吏の表情に、サツキは体中の血が一気に下がるのを感じる。


―――たすけられない。


女の悲鳴が上がる。中庭に降り立った清州が、地面に転がる佐波に更なる暴行を加えているのだ。

騒ぎで集まり出した使用人達は、何事かと口々に叫びながら、怒り狂って少女を蹴り殴る清州の姿を認めると、皆石の様に硬直した。

男の召物から彼が公職であると察した全ての者は、彼に逆らうことの意味を知っている。

そしてその怒りを買った少女を、もう助ける事が出来ないことも。


―――なぜ、こんなことに。


庭から男が佐波に暴行を加える音が生々しく聴こえて来る。

呆然と震えながらそれを聴く事しかできないサツキの横から、幾ばくかの躊躇いの後、警吏が飛び出す様に清州の元に駆けた。


「清州様!どうかそれ以上は!上部から罪人を”無事に”連れ出すようにと申し使っております!」


警吏は芝の上に膝をつくと、平伏して叫んだ。

同じ公職といえど、その位は格段に違う。

さすがにここにいる他の者と同じ様に斬り捨てられたりはしないだろうが、それでも自分の職を失う覚悟は必要だった。

だが、震えながら頭を下げる警吏の言葉も、男の激昂を治めることは出来ない。


「知った事か!」


吠える様に叫んで佐波の髪をぐいっと引っ張り頭を上げさせると、思うままに殴る。

もはや受け身も取れない佐波の身体は、人形のようにどしゃりと地面にたたき落とされた。

再び警吏が声を上げる。


「清州様!これは左相様のお言葉であったはず!どうぞ、お言葉を違えるようなことは…!」


その言葉に、男の動きが一瞬止まった。

そして苛立たし気に地面を何度か踏みしめると、また佐波の胸ぐらを引っぱり上げ、ぐったりしている彼女に唾を飛ばして叫んだ。


「命を乞え!俺の足を舐め、己の指を噛み切り差し出せ!お前のような屑でも、これが最後の慈悲であることくらい分かるだろう!」


…例え命を乞えたとして、今の佐波には己の指を噛み切る程の力も残っていまい。

一目瞭然の少女の痛々しい姿に、誰もが言葉を失い、緊張して成り行きを見守るしかなかった。


けぽ、と佐波の口から赤い血の固まりが流れ、その口元が震える。


「…と、は…」


荒い吐息のようなか細い声が、この地獄のような光景には酷く不似合いな、明るく美しい庭の中に落ちた。



「…ひと、は、…み、な………とう、…とぃ…」



サツキは己の耳を疑った。


―――今、佐波はなんと言った?

掠れていて、苦痛に歪んだ声は聞き取り難かったが、全神経を集中させていた耳には、確かに聞き取れたはずの言葉。

だが肝心のその意味が理解出来ない。

いや、意味は分かる。分かるはずなのに―――


―――…ひとは、みな…


目の前の光景と、今しがた佐波が放った言葉を完全に合致させるのに数瞬を要し、


―――理解した瞬間、ガツン、と頭を叩かれたような衝撃がサツキを襲った。



―――人は皆、尊い―――



佐波の言葉は、命乞いでもなければ、男を呪う言葉でもなかった。

それは、酷くシンプルな思想。

勉強は嫌いだったが、その思想を表す名詞くらいは、サツキも知っている。


『人間が、一人の人間として人生をおくり、他者とのかかわりをとりむすぶにあたって、決して犯してはならないとされる権利』


「…『人権』…?」


―――でも、なんで今、この場でそれを…?


あまりにも場違い過ぎる佐波の言葉に、当然のように浮かんだ疑問。

それに、更なる疑問が重なった。


そういえば…今まで考えた事もなかったが、この国には―――この世界には、『人権』という言葉は存在するのだろうか。

殺人、窃盗、詐欺、差別。それらが平然と行われるのがこの世界の”普通”なのだと無理矢理自分を納得させていたが、だがでは『なぜそうなのか』というところまで考えたことは…確かに今まで一度もない。


自分の世界とこの世界では何が違う?

生まれ育った国が、なぜ平和だった?

なぜ市民は守られ、当然のように法に統治されていた?


あまりにも当たり前過ぎて、考えた事もなかった事実。


この世界との折り合いを付ける為に、必死に考えないようにしていたこと。


―――もしかしてこの世界には、人権は確立していないの…?


互いの尊厳を認め、身分の差なく権利を主張する”権利”。

サツキにとっては当たり前の思想が、この世界では馴染みの無い、ごくマイノリティの思想だというのか―――


「戯れ言を…!」


サツキが思考を飛ばしている間に、恐らく佐波の言葉の本当の意味など理解してもいないだろう清州が、佐波の胸ぐらから手を離し、遂に腰の刀に手をかける。

抵抗する力も無く再び地面に崩れ落ちた佐波を見て、サツキは咄嗟に懐にいつも忍ばせている一振りの小刀に手を伸ばした。


―――男が刀を抜けば、斬ろう。


不思議なことに、今までの緊張と迷いが嘘の様に、ただ自然とその考えが浮かんだ。

何故だかは分からないが、漠然と、今彼女を死なせてはいけない、という激しい使命感に身体と思考が支配されている。

この感情をなんと言うのだろう? 熱く、冷たく、まるで世界の全てが見渡せるような爽快感。

ようやく巡り会えた何かに、心震えるような―――泣きたくなるような、絶対的な想い。


―――佐波。


この世界にその言葉があるのかどうかは知らないが、佐波のような人間を、サツキの世界では『思想家』と呼んでいた。

どの時代でも激しい弾圧を受け、謂われない暴力と偏見に身を晒しならがも、決して諦めずに己の思想を貫く。

剣や力ではなく、己の才覚のみで戦う、歴とした勇敢なる戦士―――


―――守らなければ。


彼女を。彼女の持つ思想と、それを貫き通す意志を。


計り知れない力に突き動かされる様に、サツキがタイミングを見計らう為に男の手元に意識を集中した―――その時。


突如、佐波と男の間を、小さな影が走り割った。

それは十歳程の美しい子どもで…………


「ま、」


―――真灯!?


何処から出て来たのか、裸足で佐波に駆け寄った双子の片割れの少年にサツキはぎょっとし、その衝撃で我に返った。

———そして愕然とする。


―――今、私は…


震える手を、そっと懐の小刀から離す。

己が仕出かそうとしていた事の大きさに、血の気が引いた。


自分は圧倒的に権力の勝るこの場で、なぜ一瞬でも『戦う』という選択肢を選び、そして実行しようとした?

まるで盤上のキングを守る、捨て身の歩兵ポーンのように。

それは本当に、自分の意志だった?

―――自分には、まだ叶えていない願いや、使命があるというのに―――?


己の危険思想に冷や汗を流す。

冷静になれ!と自分に強く言い聞かせて、現状を見極めようと、目前の光景に意識を集中させた、その時。


真灯が、佐波を背に隠すようにして男を見上げ、叫んだ。


「この方は、私の命の恩人です。これ以上は、許せません…!」







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