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溟楼綺譚  作者: 上遠野
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元の世界でサツキが一番嫌いだったものは、勉強だった。

資格の為に学校に通ってはいたが、生まれもっての行動派であるサツキは、教科書よりも実地で学ぶ方が性に合っていたのだ。

だがそれを口にしたところで『勉強が出来ない人間の僻み』にしか聴こえないことは、9年間の義務教育+3年の高校生活で骨身に染みていた。

試験然り、就職然り、結婚然り…。

兎角とかく人間とは紙に縛られて一生を終えるのだな…と軽い絶望を感じながら、それでもサツキは平凡に生きてきた。

ある日、突然その平凡を奪われるまで。


この世界に来てからのサツキの奮闘は筆舌尽くし難いものであり…長くなるので割愛するが、この世界に来て、サツキの”嫌いなものランキング”の順位に変化が起こった。

歴代一位の『勉強』を蹴落とし、見事トップに輝いたのは―――


「お前だな。くだんの使用人というのは」


―――警吏こいつのような、『権力者』だ。


聞く者を凍らせる、”権力”を深く染み込ませた高圧的な物言い。

公服である灰藍色の詰め襟を纏い、短髪を清潔に切りそろえた、つり目の男。

男はその鋭い眼光を、部屋の中の二人―――サツキと…主に佐波に向けると、確認ではなく断定してそう言い放ち、止める間もなくずかずか部屋に上がってきた。しかも土足で。

突然の来訪者に佐波は驚きで瞠目していたが、反対にサツキは怒りの所為で痛み出したこめかみを押さえて目を閉じた。自分を落ち着かせる為だ。


良くも悪くも直情型のサツキは、怒りに冷静な判断力を奪われることも暫しある。

言ってはいけない言葉をつい口走ってしまったり、口が出る前に手が出たり…。

小学校中学年頃、そんな自分が嫌で幼なじみに相談したら、その彼はサツキに良い方法を教えてくれた。


”怒りを感じたら、まず目を閉じて10秒数える事”


その間に呼吸を意識してゆっくりにし、怒りを感じる相手や事柄をしっかりと見つめる事。

どうして自分が怒ったのか、その原因となったものは何なのか。いつまでかかってもいいから、目を背けずにきちんと原因を探す事。

本質で気の短いサツキには算数のテストより難問だったが、諦めずに何度も何度もそれを繰り返すうちに、少しずつコツが掴めてきた。

自分の怒りのポイントと原因さえ分かれば、対処する方法も事前に考えていられる。

我を忘れる直前にそれを条件反射で思い出せば、事態を悪化させずにすむ。人を傷つけずにすむ。

『自分の怒りに他人を巻き込んじゃいけないよ。サツキさんが怒っているのは、サツキさんの為なんだから』

嫌になるくらい、自分とは正反対の冷静な幼なじみのその声を思い出す度に、サツキは自分の感情制御力の未熟さを思い知った。

それは離ればなれになった、今でも。



―――しかし、何事にも例外というものがある。


例えばこのように…10数える暇もなく男の手がサツキを横切り、唖然とする佐波の着物を引き裂く様にして暴いたりしたら———それは明らかな”例外”だ。


ゴッ!


サツキは迷わず男の顎に拳を打った。

男が呻いてよろめき、膝をつく。脳震盪を起こしているのだろう。

女の力で男を一撃に伸すなんてことは難しいが、知識さえあればやれないこともない。

痛む拳をもう一度握り直して、サツキは怒髪天を突く勢いで叫んだ。


『死に晒せこの変態!!』

「さ、サツキさん…!?」


突然現れた男に着物を暴かれて一番動揺しているであろう佐波が、開けた着物を怪我をしてない方の腕でかき抱きながら驚愕の声を上げる。

それはそうだ。サツキが今殴ったのは、皇国このくにの公職…警護府の警吏けいり

つまり権力を行使する権限を与えられた『権力者』だ。

彼へ振り上げた拳は、そのまま皇国に対する反逆とみられてもおかしくない。

―――しかし。

だからといって警吏達こいつらの粗暴を見て見ぬ振りすることは、サツキには出来ない。

正義感なんて高尚なものじゃなく、感じているのは胸が焼けるくらいの激しい怒り。

サツキは、佐波の為でも、他の誰の為でもなく、『自分の為』に怒っているのだ。


「…っくそっ!蛮土人ばんどじんが…!!」


頭を抑えて呻く男は、それでも鋭さの落ちない眼光でサツキを睨み上げた。


ちなみに『蛮土人』とは、皇国の人間がよく使う、他国の人間を表す蔑称だ。

比較的文化も国の機能も他国より発達して文明的な生活を送っている彼らは、暫しこのように自分より劣るモノを卑下する。

否、それが劣っているかどうかではなく、自分たちと違うというだけで差別の対象とするのだ。

他国から流れ着いたサツキも、もちろん彼らの中では”差別”の対象であり、=(イコール)自分たちよりも劣る生き物という解釈になるのだと、同じ様に他国から流れて来た回り番の先輩から教えてもらった。

『オレはそんな当たり前のことを聞くお前さんが不思議だがねぇ。それとも、お前さんの故郷くにじゃあ違ったのかい?』

老獪な彼に笑ってそう言われて、サツキは己の浅はかな問いを恥じた。

サツキの世界にも”差別”はあった。

だが、サツキは自分が差別される側に立ったことが一度もなかった。…つまり、そういうことなのだ。

見下されれば悔しく、嗤われれば苦しい。当たり前な事実を、サツキは我が身に降り掛かるまで考えた事も無かった。


サツキは、自分を激しく睨む男を睨み返す。


「女の子の胸元こじ開けるなンてどうイうつもり!?」

「女かどうか分からなかったから確かめただけだ!」

「ふっざけンじゃなイわよ!どっからどう見ても女の子でしょうがぁあ!!」

「見ても分からなかったと言ってるだろう!!」


怒声が飛び交い、今にもお互い殴り掛からんばかりに間合いを詰める二人を、完全に取り残された佐波が呆然と見ている。

内心男の『見た目じゃ女と判断出来ない』発言に小さくショックを受けていたりもするが、そんなことよりサツキを止めなければと我に返り、叫んだ。


「さ、サツキ様!ダメです!相手は警吏様で」

「警吏だろうとさっきのは完全アウトよ!てかあなたも怒りなさイ!怒るべきよ!!」

「いいや分別をわきまえてないのはお前の方だ!身の程を知らんのか!?」

「じゃかぁあしィイイ!!痴漢が身の程を語ってンじゃなイわよこの『ボケなす』!」

「『ボケナス』…!?なんだ『ぼけな』…いや違う!痴漢だと!?お前、公職の俺を痴漢呼ばわりするとは」

「『お巡りさーん』!痴漢ですーー!」

「痴漢じゃない!…くそっなんなんだ『オマワリサーン』って!」

「あンたとは真逆の人よ!」

「そんなロクデナシを呼んでどうする!」

「ロクデナシはお前じゃぁああ!!」


どんどん下らない応酬になる二人を、かける言葉も無く佐波は眺めた。

そしてそろそろ「ばーかばーか」と最低知能レベルの口喧嘩が始まりそうな頃合いになって、ようやく口を挟む機会を得た。


「あ、あの!…警吏様?」

「イイのよこンな馬鹿に”様”なンか付けなくても!」

「貴様…!どこまで俺を侮辱する気だ!?今ここで斬り捨てることだって出来るんだぞ!」

「その前に私があンたを『なます切り』にしてやるわよ!」

「だから蛮土語を使うな!妙に気になるだろうが!」


再び始まった口論…というよりも掛け合い漫才に、佐波は困り果てながら次の機会待っていたが、ふと耳を澄ませた。

部屋の怒声で聞き取り難いが、廊下を歩いて近づいてくる足音がする。

気付いて慌てて二人にそれを知らせようとした瞬間、開いたままの障子から、男の姿が現れた。


「警吏、どうなっている!」


言いながら、こちらも土足で上がり込んできたのは、中年の男だった。

小肥りな身体を立派にあつらえられた上級の公服に包んでいるその男は、じろりと部屋の中を見渡すと、ぴたりと口論を止めて硬直している警吏とサツキに視線を向けた。


「なんだ。さっさと罪人を引き立てんか!こちらも暇ではないのだぞ!」


男は苛立った口調でそう言うと、次に再び呆気にとられている佐波に目を向け、そして、ふん、と鼻で笑う。


「その男か女か分からんやつが、そうだな。おい警吏、早く捕らえろ!」

「ちょっと!…ちょっと誰よあれ!」


突然現れたあからさまに嫌いなタイプの男に、サツキが慌てて警吏の男の胸ぐらを引き寄せ囁く。

男の登場は警吏にとっても好ましいものではなかったのか、彼は小さく「だから早く差し出していればいいものを…」と愚痴りながらも、サツキにだけ聴こえる様に低く囁き返した。


「…清州きよす様だ。皇国国護府の役員らしい…」

「こくごふ?」

「軍部だ」


―――軍部…?

国内の事件に、なぜ軍部が絡んでくるのか…。

第一、仲の悪い代名詞としても使われるくらい険悪な警護府と軍部の人間がなぜ行動を共にしている…?

極めて不審だが、とりあえずは目先のことだ。

サツキは――本当に死ぬ程嫌だったが――膝をつき形式的な礼をとった。


「清州様。本日はご足労頂き、感謝いたします。しかしながら…」

「ふん。お前、売女か?」


いつもより5割増で整った声を発したサツキの言葉を、男――清州が、まるでサツキの言葉など耳に入らぬという風に遮った。


「………………は?」

「売女かと聞いている」


敢えて聞き返してやったというのに、ずけずけと問い重ねて来た男は、サツキの身体を嘗める様に見定め、下碑た笑みで口を歪ませた。


「売女なら、買ってやるか。丁度猟犬に雌犬を宛てがおうと考えていたところよ。先頃は盛って煩いからなぁ」


―――よりにもよって、そんな下卑た会話から切り出すとは、恐れ入る。


怒り故に一瞬で血の気が引き、次いで燃え上がる様に血流が早くなるのを感じながら、けれどサツキは懸命に平静を装った。


こんなところで不興を買っても、こちらには何の利もない。

とにかく今は男を機嫌良く喋らせ、ここに来た理由と目的を聞き出す事が先決だ。


額に青筋を立てながらも”10秒ルール”で怒りを押さえ込んだサツキは、苦労して笑みの形にした口から次の言葉を切り出そうとし―――


―――しかし、サツキの代わりに男に答えたのは、先ほどまで呆気にとられていたはずの佐波だった。


「”売女”は蔑称でございます。清州様。溟楼庵ここでは、”遊女”または”娼婦”と」


静かな声だった。

責める色もなければ、怒りの色もない。

ただ事実のみを伝える彼女の言葉に、清州は一瞬、ぽかんとした顔をした。

しかしやがて佐波の言葉が意味するところに思い至ると、足先から頭の先まで這い上がって来たであろう怒りにみるみる顔を赤くし、咄嗟に懐に差していた扇子を佐波に投げつける。


「売女を売女と呼んで何が悪い!罪人の分際で俺を愚弄するとは!」


引き攣れた声で叫ぶ男。

扇子の飾り金を受けて出来た佐波の頬の傷からうっすらと血が流れる。

それを見て、彼女の台詞で硬直していたサツキはようやく金縛り状態から解かれると、信じられない展開に目を剥いた。


―――な、何事!?


隣で同じ様に警吏が目を剥いている。

「正気か!?」と今にも叫びそうな口をぱくぱくさせて、同意を求める様にサツキと視線を交わした。


―――ちょ、何この最悪な展開!


混乱で打ち震えながらも、サツキが慌てて男の怒りを鎮めようと謝罪の言葉を口にしようとした、その直前。

再び佐波が口を開く。


「善い悪いの問題ではございません。ただ、間違っていると申し上げているのです」


毅然とした物言い。

頬の傷に触れる事もなく、彼女は厭にわった目で清州と真っ向から対峙していた。

今度はサツキが呆気にとられる番だった。

先ほど警吏に着物を暴かれた時ですら文句の一つも言わなかったというのに、なぜ直接自分が受けた訳でもない清州の言葉にこうも反応しているのかさっぱり分からない。

分かるのは、今、とんでもなく拙い方向に話が転がっていっているということだけ―――


男は怒りに顔を赤く染めながら怒声を上げた。


「警吏!この塵虫の腕を斬れ!」


やはり、というか、この上なく権力者としての腐り具合を発揮した清州の台詞に、サツキはぎくりと震えた。

笑い事ではない。冗談でも、脅しでもなく、清州は本気で言っている。

だとすれば、もしかして本気で、今この場で佐波を斬らせるつもりなのか。


―――そこまで皇国このくにの権力は――権力者は腐っているのか。


あまりに理不尽な清州の態度に愕然として声も出ないサツキの代わりに、こちらもようやく不穏な事の流れに気付いたのか、警吏が慌てて返答をした。


「っ!しかし上部からは」

「煩い!生きてさえいればいいのだろう!腕を…いや、耳も、鼻も、全て削げ!今すぐだ!」


口角に泡を飛ばし、顔を怒りの赤で染め上げた清州が、駄々をこねる子どものように地団駄を踏む。


―――つ、付いていけない…!


自分で手を下さず、人にやらせようとしている時点で既にムカつきを通り越して呆れてしまう。いや、自分でされても迷惑だが。


―――と、とにかく、今はこの男の怒りを鎮めないと…!


佐波と共に土下座してどうにか許してもらえないものだろうか、と現実逃避にも甘い事を考えたサツキを裏切る様に、地団駄を踏んでいる清州をじっと見つめていた佐波が、その視線を男から外す事もなく、静かに、けれどよく通る声を上げた。


「警吏様。どうぞお斬りください」


ギョッとして佐波を見る。名を呼ばれた警吏も同様だ。

彼女はその言葉の意味を吟味出来ないでいるサツキたちなど眼中に無い様子で、不思議な程暗く澄んだ瞳で言った。


「私の腕を斬れば……顔を削げば、私があなた様に謝罪し命を乞うとお思いですか?ならば、お斬りください。あなた様にはその”権利”がある。そうでしょう?」


でも、と佐波は目を細める。


「”権力”では、私に謝罪させることは出来ない。”権力”では、私を殺すことは出来ても、意志を変えることは出来ない」

「お、おのれ…!!」


これまた一瞬呆気にとられた男は、しかし今度はすぐに佐波の言葉の意味を”正しく”理解すると、サツキが反応するより早く佐波の胸ぐらを掴み上げた。


「塵虫の分際で、何をほざくか!」


無遠慮に持ち上げられた佐波は、背中の怪我を意識してか一瞬痛みに顔を顰め、しかし次の瞬間、見る者を震え上がらせるような鋭い眼光で清州を見上げ、叫んだ。


「”権力”では何も傷つけられない!!」

「何!?」

「売女と蔑まれようが、犬と交わろうが、遊女が誇り高きひとであるように!何者にも、その尊厳を奪う事は、出来ない!」


―――既視感。

サツキは呆然としながら、どこかでこのような光景を見た事がある気がしていた。

あれは確か―――風路土かざるとのどこかで遭った、戦士の最期。

命果てるまで戦った男は、最期に咆哮を上げた。

まるで歓喜に震えるような、それは命を燃やす者の叫び。

戦う事で己の存在を明らかにする、生まれもっての戦士の気質―――


「し、痴れ者が」


サツキ同様、佐波に呑まれた清州が掠れた虚勢を張った。

しかしそれを、佐波は決して逃がしはしない。


「清州様」


佐波に名を呼ばれて、男がびくりと身体を揺らした。

怯えている。

男の3分の一程しか生きていない小娘に。

奴隷とそう変わらぬ、一介の使用人に。


胸ぐらを掴んだまま硬直した男の顔を至近距離に見据えながら、佐波はうっすらと、甘い笑みさえ浮かべた。

場に酷く不似合いな、蕩けるような眼差し。

その場にいる全員を呑み込んで、彼女はそっと囁いた。


「私を殺しなさい」


そして思い知ればいい。己の誇る”権力”の無力さを。

ーーー奪うことも触れることも出来ない、命の”尊厳”を。







4/12後半改正しました(汗)内容は変わっていませんが…

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