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溟楼綺譚  作者: 上遠野
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―――今暫く待てだと…!?


大皇都内、宮廷庁の渡り廊下を、左相さそうは肩を怒らせながら歩んでいた。

吟遊詩人が、天津国の天女もその美しさに惹かれて舞い降りると謳った美しい庭園には一切見向きもせずに、彼は無意識に立派なあご髭を撫で、先ほどの皇帝との謁見を反芻はんすうする。


その大事な御身の命にも関わることだというのに、まだ若き皇帝は左相の話にまともに取り合った様子も無く、のらりくらりと言葉をかわし『審議の結果が出るまで今暫く待たれよ』の一点張り。


最後には『憶測で騒ぎを大きくするな』と釘まで刺され、謁見の時間は半刻もたたずに終了した。

多忙な皇帝の偉大なる業務を邪魔するつもりはない。だが、厄介払いと言わんばかりに追い出されれば腹も立つ。


―――みかどは解っておられぬのだ。もし事が起きれば、ご自身の命はおろか、永き世の皇帝家に幕を引きかねぬことを…!


腹から胸にかけてわだかまる感情を持て余し、ずんずん廊下を進む左相は、ふと前方から近づいてくる人影に気付いた。


―――あれは…


ぐっとわき上がった嫌悪感を飲み込むと、左相は平然を表情に貼付けて、極めていつも通りに振る舞った。


「これは左相閣下。お久しぶりですね」


宮廷の礼儀としてすれ違い際に一応の礼を取ろうとした左相に、若い男が揚々と声をかける。

壮年の左相からすれば、まだ子どものように見えるその若者は、聞いた話だと今年で27。

ニコニコと如才ない表情をその整った顔にのせ、穏やかな声で歌う様に語りかける様は、一見するだけではただの若い貴族議員、否、議員にすら見えない。

だがこの男がその並ならぬ才覚で、僅か数年でこの地位まで上り詰めたことを知っているだけに、左相に油断はなかった。


「久しいですな、右相殿。本日は如何されました」


にこやかに、友好的な笑みを浮かべて左相が問う。議員になれば、誰しもこれくらいの技術は身に付くものだ。

左相のその問いに、右相―――皇国このくにで皇帝、左相の次に大きな権力を持つこの若い男は、まるで裏のない笑顔で言った。


「皇帝陛下のご機嫌を伺いに行くところです。閣下は、今お帰りですか?」

「ははっ 執務が忙しいからと追い出されてしまったのですよ。本日は退散致す所存で」

「おや、そうですか。では私も止めた方がいいかもしれませんねぇ」


男は「ふむ」と一つ頷き、「そういえば」と軽く続けた。


「先だての溟楼庵の大火をご存知ですか?」

「…勿論。皇都内に知らぬ者などおらぬでしょう」

「ははっ それはそうですね。失礼致しました。―――では、その大火が、何者かによる放火の可能性があることはご存知ですか?」


声色を一段低くして、どこか楽しむような口調で言う右相に、左相は平然と応えた。


「そのような噂があると聞いてはおりますな。なんでも、事前に刃物を持った男が押し入ったとか」

「さすが左相閣下。お耳が早くていらっしゃる。今警護方で調べさせているところですが、何分、全て燃えてしまってますからねぇ。証拠は殆ど、上がっていないそうですよ」


情けないことです、と嘆くこの優男が、まさか皇国内の治安を維持する為の司法機関・警護府の”実質の”総司令官だと誰が信じられるだろう。


警護府とは、軍部総統司令府と権力を二分している国家機関だ。

大体の議員は警護府や軍部から担がれた、家位の高い者たちが選出される。

もちろん議員になる者は機関からの脱却が条件とされているから、現在の総司令官は別に存在する。

だが、それは表面だけのこと。実質的には、権威の下に身を寄せるのはどこの機関も同じ事だ。


左相は、ぴくり、と眉を動かした。


「ですが、聞いた話では押し入った男は回り番が捕らえたと」

「ああ。確かに、一時は捕らえたようなのですが、火事のどさくさで…。手引きした遊女も服毒死したそうで…面目もない状況です」


ほとほと困った、という顔の男に、左相は内心で毒を吐く。


―――抜け抜けと…黒幕の第一容疑者が何を言うか。


けれどもちろん表情には出さずに、同じ様に残念そうな顔を取り繕う。


「それは難儀ですな。では、現在はその輩を手配中なわけですか。軍部こちらも、何かお役に立てると良いのですが」


左相である彼も、右相と同様国家機関―――軍部からの担ぎ上げだ。

国内でのことはどうしたって警護府に分があるが、国境付近ならば軍部にも指導権が与えられる。

もしこの男が黒幕だとすれば、わざわざ実行犯を逃がすためだけに国境を冒すようなリスクは負わないだろうが、事を”成し損ねた”輩が身の危険を感じて国外に逃げ出す可能性はある。

それを捕らえられれば、一気に全てのカタが付くのだが…


だが、そんな左相の含みに恐らく気付いているであろう男は、何も知らない無垢な若者のように笑って、


「あ、いいえ。輩の身は確保しているんですよ。まぁ、むくろとしてですが」


遊郭沿いの川で上がりました。と、さもアッサリと言い放った。

そして思わず口を閉ざした汐甫に構わず、独り言のように呟く。


「不可解なのは、上がった骸が”三つ”だったこと。そしてそのうちの一人の身元は判明しているところですかね」

「…ほう。そういえば、押し入ったのは二人でしたか。もう一人とは?」

「もう一人の骸は地方豪族の使用人らしいのですが…どうにも、そちらも不可解な話で」


言いかけて、ふと男が顔を上げる。

それと同時に、右相の後方から若い男が音もなく姿を現した。


「右相閣下」

景林けいりんか」


景林と呼ばれた右相の部下は、その感情の読めない能面のような顔を伏せると礼をとった。


「お話し中申し訳ありません。査問の準備が整いました」

「―――ああ、もうそんな時間か」


皇帝陛下にご挨拶する暇もない、と右相の青年は肩をすくめて笑うのに対して、左相は鋭く目を光らせる。


「右相殿。査問とは?」

「はい。その渦中の溟楼庵より、参考人として総主を召還しているのです。状況は不可解でも、怨恨の線が一番疑わしですから」

「ほう。しかし、右相殿が直接査問を会す程のものですかな」

「ははっ 私も参っているのですが…曲がりなりにも、あそこは皇府公認の遊郭街ですからね。”万が一”があってはならぬと、」


皇帝陛下の勅命でございます、と右相は目を細めた。


「皇帝陛下の―――」


思わず表情を固くした左相が、次の言葉を発するよりも早く、今度はまた別の男が渡り廊下を駆けて来るなり声を荒げた。


「左相様!こちらにおいででしたか―――あっ これは右相様も…!」


中年のその男は左相の側に右相の姿を見つけると、慌てて膝を折り礼をとった。

それを軽く手で制して、右相の青年はニッコリ笑う。


「畏まった礼など不要ですよ。私はここで失礼しますから」


言って、左相に慇懃に礼をした。


「長らくお引き止めしてしまい、申し訳ございませんでした」

「―――ああ、こちらこそ、貴重な時間を頂きましたな」


出来ることなら、ここで全てを問いただしたいという気持ちに駆られるのを、左相はぐっと顎を引き耐えて同じく礼をとり、けれどやはり我慢ならず、横を通り過ぎる右相に言葉をかけた。


「…そういえば、右相殿は溟楼庵の先代の総主と懇意の仲であったと伺っております。奥方とのえにしを結んだのも、先代総主の仲立ちだと。―――いやはや、羨ましい縁故ですなぁ」


彼の正室は、皇家とも繋がりのある貴族の娘だ。婚姻を結ぶことで現在の地位を得た”成り上がり”の右相を揶揄するように言う左相に、彼の足が止まった。

そして穏やかに振り返り、


「ええ。私のような何も持たぬ男を受け入れてくれた妻には感謝しています。もちろん先代総主にも、色々とお世話になりました。婿養子としての立場は、まぁ、納まりが悪くはありますが」


贅沢ですよねぇ、と笑う右相。

その姿はどこから見ても年相応の、ただの若い男だ。


―――揺さぶりも効かぬか。…忌々しい。


左相が考える限り、今回の黒幕として一番疑わしいのがこの男であることは間違いない。

ただの一仕官だった男が、あっという間に頂上まで上り詰めて来て、次は更に上―――左相の地位まで脅かしている。

…否、左相の地位ばかりではない。男の野心一つで国家が揺らぐ。それほどの才覚をこの若き右相は秘めている。


―――今回の件、その布石として起こした騒ぎだとしたら…


左相は、内心で舌打ちした。

この男の底知れぬ腹を探ったところで埒があかない。

軍部からの叩き上げである自分と同等に渡り合う男の度量には感歎すらするが、敵となるならば全力で潰す覚悟でいかねば、こちらまで引きずり込まれてしまう。

左相は気持ちを切り替え、今度こそ別れの礼を述べた。


「詰まらぬ詮索をしましたな、失敬。では、私もこれで」


後ろに今しがた来たばかりの中年の下士官を引き連れて、左相は風を切って去って行く。

その背を見送って、右相の青年は踵を返し、背後から静かに付き従う下士官に言った。


「総主は」

「閣下の執務室に通しております」

「そうか。―――にしても左相様も、お人が悪いな」


ふふ、と楽しそうに笑う男に、主に忠実な下士官の男は無言で返す。

それに構わず、男は続けた。


「気付いてはおられぬだろうが、いい線を突いてきた。いっそ手を貸してくれるなら、話は早いのだが」

「それは無理な相談でしょう。閣下の個人的な願いなど、受け入れられるどころかそれを盾にされかねません」

「わかってるさ。だからこうして、面倒なことにわざわざ首を突っ込んでいる」


至極詰まらなそうにそう呟いて、ふと思い立って下士官に告げた。


「今日は帰らぬと、家に伝えてくれ」

「…先月期から一度もお帰りになられていませんが」

「他人の家のことに口を出すもんじゃないよ」

「ですが、奥様が」


つい言い募った下士官に、男は振り返った。

男の本質を表すような、穏やかな笑顔を消した冷たい表情。

その口元が微かに歪んだ。


「僕の妻は、彼女じゃないよ」


下士官はさっと膝を折り「失礼いたしました」と頭を下げた。

それを一瞥して、男は再び踵を返す。

全てが、酷く面倒だった。いっそ地位など返上して、一人自由に行動した方がいいのではないか。

もう何度も考えた思案が過って、その度に首を振る。

身分も肩書きもない自分がこの世界でどれほど卑小な生き物であるか、知らぬ訳でもない。

動かせる手駒は、多ければ多い程いい。


―――早く。一刻も早く。


最愛の妻を脳裏に浮かべた青年は、小さく微笑むと、未だ膝を折り頭を下げている下士官に告げた。


「―――参ろう」










青白い月明かりが、部屋の薄闇を照らしている。

多くの人間がこの屋敷に滞在しているずなのに、どういうわけか物音一つしない。

まるで冥府の前にあるという、惜離せきりの谷のようだと、耳鳴りがする頭で佐波はぼんやりと思った。

惜離の谷は、死人と生者の夢の通路とも云われている。思いの強い死人が、冥府の門をくぐる前に、この谷を通って生者の夢枕に立ち別れを惜しむのだと。

”青く静かなる谷、時を刻まず。されどとどまることは許さず。おのが愚欲を制し、歩き通した者だけが、再び輪廻でまみえることを許される。”

皇国このくにの吟遊詩人ならば誰でも謳える『冥府不迷異めいふまよわずのこと』の一節を思い出し、佐波は硬直していた頬を僅かに歪ませた。


昔、佐波の屋敷に訪れた吟遊詩人が、この謳を詠んだことがある。

まるで死の世界を行って帰って来たかのように、すらすらとそらんじる男に佐波は感歎し、以織にその話を聞かせた。

すると以織は、いつもの穏やかな笑みを消して、真面目な顔で言ったのだ。


『冥府などという存在は、私は信じません。死ねば人はそれまでです』


その言葉は、佐波の知っている以織の姿とはかけ離れた、酷く冷たいものだった。

それに驚いて言葉を失った佐波に、以織はようやく自分の言葉の威力に気付いたのか、小さな声で付け足した。


『…冥府に行けば、人は業と徳だけの存在になり、現世での記憶を全て失い新たな生を受けると聞きます。私は、そんなのは嫌です』

『…どうして?』

『…私にとっては、姫様のお側にいられる、この世こそが天津国です。思い出すら失って、どうやって新しい生を受けられましょう』


それくらなら、全てが無に帰す方がどれほど心安らかか、と言う真剣な顔の以織に、佐波は一瞬固まって、そして破顔した。


『以織は吟遊詩人になれるね。いや、見世芝居の演じ手もよさそう!』


ニコニコ笑って応える佐波に、彼は少しだけ物足りなさそうな顔をしたが、すぐにふわりと笑った。

その笑みが大好きで、思わず抱きついた佐波を、彼は大切なものを囲うように柔らかく抱きとめる。

まるで幼い恋人同士のような、密やかで穏やかな、閉ざされた世界。

風が舞い、雲が流れ、やがて別れの冬が訪れた、その後も。

枯れる事のないあの日の光景を頼りに、佐波は長い長い冬を一人で歩んで来たのだ。



焦点を失った瞳が、じわりと滲む。

瞼が爆ぜるように瞬いて、ぽろりと珠の涙が溢れた。



黒衣の医師―――最は言った。


2年前の冬。”君影”は流行の病に倒れ、三日三晩の高熱の末に死んだ、と。


『あの年は例年よりも流行病による死者が多かった。溟楼庵だけでも一月期(一ヶ月)で十数名の死人が出ている。もちろん、俺も全ての死人の名前を覚えているわけではない。だが、君影の死は別だ。君影は太夫たゆうだった。ここに来て2年足らずで、遊郭の最上位まで上り詰めた。最後の顧客は、前皇帝だ』


弔いも、埋葬も、歴代の太夫一絢爛だった。と最は静かに語って、茫然自失している佐波を見た。


『死んだとき、君影は18だった。死ぬ3年程前、布津の方から流れてきたとも聞いたことがある。しかし、お前の”いおり”が、君影だという証拠はない。君影の念写も、姿絵も、顧客の履歴さえ前皇帝が徹底的に廃棄させたからな。だがもし”そう”なら…』


残念だ、と呟いて、彼は佐波の怪我の措置もそこそこに部屋を去った。

人払いをしたのは、治療をする為ではなく、このことを知った佐波が受ける衝撃を想定してのことだったのだろう。

実際、佐波は男が部屋を去るまでの間、一言も口がきけなかった。

「嘘だ」と縋ることも、「それは以織じゃない」と笑い飛ばすことも、何一つ出来ない。

ただ穴の開いた肺で呼吸をするような、底の無い桶で水を汲むような、果てしない無力感と脱力感が佐波を支配していた。



―――もし。


青白く光る障子を眺めながら、佐波は思う。


―――もし、最の云う”いおり”が、自分の探している”以織”だとしたら。


否、本当は気付いている。

同じ時期、同じ出身、同じ名の男娼が遊郭に売られてくるなんて物語よりも奇妙な話より、死んだその太夫が以織だったと考える方が遥かに自然だ。

”いおり”が”以織”である理由を探すより、ない理由を探す方が困難であることに、とっくに気付いているはずの頭が、けれど受け入れる事を拒否する。


それを受け入れるということはつまり、佐波が本当に本当の意味で、全てを失ったことを意味するからだ。

家も、家族も、仕事も失い、約束まで絶たれた人生に、一体なんの意味があるだろう。


―――2年。2年も前に、以織は逝ってしまったというのか。

佐波との約束を待つことなく、一人で、旅立ってしまったというのか。


記憶の中の以織の姿が幾つも瞬いて、肺から震える熱い吐息が溢れ、かっと目の奥が熱くなった。

絶望の雫が、次々に力無い身体から滑る落ちる。

悔しくて、全てが煩わしくて―――どうしようもなく寂しかった。

会いたい。ただ一目でいい。言葉を交わせなくとも、罵られても、恨まれても、殺されたって構わない。


ただ、ただひたすらに、以織に会いたい。


思い通りにならぬ身を捩って、佐波は泣いた。

溢れた涙は、伏せた枕に吸い取られて消えていく。

嘆きも慟哭も全て受け入れる、青い月明かりの部屋で。

佐波は絶望に終わりなどないとーーー知った。






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