第06話 月虹のもと、人びとは
太守の館の裏手には、馬車を回してくるための広い中庭がある。
宴に招かれた大楽院幻奏師たちにも、帰りの馬車が手配されていた。
乗客が揃って、準備の整った馬車が、次から次へと出ていく。富貴な客の馬車も回されてきて、少々混み合っている。
楽霆、十児とともに乗る幻奏師たちは、宴の客から幻奏の依頼を持ちかけられて、まだ来ない。御者はこれ幸いと、馬の面倒を見ている。
馬車の近くでぼんやり立っていた楽霆は、ふいに風を切る矢音を聞いた。
振り返ったときには、着物の背を引かれ、地面に尻もちをついていた。
見上げれば、十児が覆いかぶさるように鉄棍を構え、周囲をうかがっている。
馬車には、黒い小さな矢が刺さっていた。
そのまま立っていても、充分に顔から離れた位置だったが、楽霆の心臓は充分すぎるほどちぢみあがった。
とたんに、気を漲らせた鈴のような罵声がとどろいた。
「ばああああああああああああか!!!!!」
一瞬の静寂。震えあがって固まる馬、我に返って嘶く馬、その声にあたふたと足を踏み鳴らす馬。傍にいた者が驚く。飛びのく。
あちこちで馬車が揺れる。御者や馬丁が慌てて声をかけ、なだめる。
乗ろうとしていた者がずっこけ、まわりの者が助け起こす。
中庭は、ちょっとした騒ぎになった。
(り、凛麗!?)
思わず十児を押し退け、見回し探せば、太守の館の上階、はるか高みの小さな窓から、凛麗姫が身を乗りだしている。
乗りだしているどころではない、片脚を窓枠にかけ、外壁に片ひざをつき、脚だけでぶら下がってぴたりと構え、小型の弓を引き絞り、もう一矢放ってきた。
狙いあやまたず夜気を切り裂き、楽霆の前の地面に深々と突き刺さる。
次の瞬間には、凛麗姫はくるりと身を翻し、館のなかに姿を消した。
「な、なあ、俺も見えちゃったんだけど、今のって……」
鉄棍を下ろした十児が楽霆にささやく。
ようやく騒ぎがひと段落すると、中庭にいた者たちがざわめきだした。
幸い、矢が飛来したのには他に誰も気づいていないが、あの大声は誰の耳にも届いている。
すると、もう少し下の露台に、侍女姿の若い娘が大慌てで駆けだしてきた。
「み、皆さん、今のは、わたくしです! お騒がせしました!」
(いや、違うだろ!)
というのは、その場の全員が思ったに違いない。
愛らしい声音は似ていなくもないが、精いっぱい声を張りあげても、声の勁さが、通り具合がまるで違う。
「ほ、本当に申し訳ない! 私が許嫁を怒らせたせいなのです!」
がっしりとした武官姿の若者も、大急ぎで駆けだしてきて声を張る。
「さ、さあ、愛しい人よ。あんなに怒らないで、なかで話を聞いておくれ」
「わかりましたわ! 聞いて差し上げ……」
「いやいやいや。いい機会だ、もう婚約など破棄してしまえ!」
大して張らずとも、充分に通る声とともに、露台にもうひとり、男が現れた。
武官風の装いだが、遠目にも奇矯に結った赤い髪が夜風になびく。
身体も柳のように揺れている。片手に提げた酒瓶を持ちあげ、喉を反らしてぐびぐびあおる。
彩竜護城補・快廉、太守凪刀の異母弟だ。
「な、なんですの、一体!」
侍女は裏返った声をあげ、武官は許嫁の前に立つ。だが、快廉はするりとした身のこなしで難なく躱すと、侍女の間近に入りこんだ。
「さあ、可愛い人。こんな男はもう捨てて、俺様と仲良くしておくれ」
快廉は、芝居の役者もかくやという甘い仕草と声で、侍女の肩に馴れ馴れしく手を伸ばす。
侍女はぎょっとして快廉を振り払い、おびえて後ずさる。
「触らないで下さいませ!!」
気が昂った大声が、空をびりびり震わせる。
「近寄らないで! わたくし、許嫁がおりますのよ!」
「だからあ、もうやめちまえって、そんな冴えない馬面君。俺様と比べてみなよ、どこがいいの?」
「全部に決まっておりますわーーーーーーッ!!!」
逆鱗に触れられた竜が猛るがごとき叫びを放つなり、一目散に館内へと逃げていく。
「え、いや、さすがに見た目は……地位も……」
馬面呼ばわりされた顔を真っ赤にしながら、若い武官も許嫁を追いかける。
快廉はのけぞって笑い、また酒をあおると、天に向かって奇声をあげ、吠えた。
「馬鹿な女だ、逃がした魚は大きいぞ!」
そのころには、人びとはすっかり白けて、馬車に乗ったり、荷を載せたり、馬を引いたりが再開されていた。
「何が彩竜守護職か」
「赤猿どもの大将が、また不埒な真似を」
「母親の血だな」
誰かが吐き捨てた声を、快廉は地獄耳で逃さない。
わざわざ露台の欄干の前に戻り、思いきり身を乗りだして叫ぶ。
「今おふくろの悪口言った奴う! 誰かはわかってるぞ! よおくよおく覚えておきな!」
どこかでヒッと声が上がる。
快廉は髪を揺すって高笑いしながら、館のなかへ消えていく。
「大丈夫かい、楽霆」
十児が楽霆を引き起こし、大きな手で晴れ着の埃をはたこうとする。
「平気。手間かけちゃってごめん」
楽霆は足元の矢を両手で引っ張るが、深く食い入って取れない。十児が片手を伸ばして抜き取った。
「すげえ弓勢だな、相当な勁力だ」
「これで弓は一番苦手なんだってさ」
馬車に刺さっている方にも駆け寄り、急いで揺さぶっていると、それも十児が抜いてくれた。
「なんか結んであるぞ。矢文かな?」
畳んだまま渡されて、楽霆はそっと開いてみる。
楽譜だった。ぐしゃぐしゃに丸めた皺を伸ばして折り畳まれていた。
真ん中からまっぷたつに引き裂かれ、それぞれ矢に結んであった。
顔見知りの侍女がすばやく駆け寄ってきた。
「ご無事ですか?」
「はい」
楽霆はあたりを気にしながら、小さな黒い矢と、重ねた楽譜とを差し出した。侍女は二本の矢だけを取って袖に隠す。
「そちらはどうぞお持ちください、お約束のものです」
「やっぱり……」
伝説の瞬雷が宴の即興でつくったと言われる俗曲だ。当時の楽師が書き留めた原曲が、太守の館に残っているはずだから、見つけたら写譜をつくってあげると言っていた。
「あの、伝えてください、今日は、ごめんって……」
「月虹のもとでは、人はつい狂うもの、お気になさらず」
「あと、これ、ありがとうって……」
「それよりも、今のことはご内密に」
「言いませんよ……言うわけないだろ……!」
楽霆が睨みつけると、侍女はうっすらとほほ笑んだ。
「ありがとうございます」
「あ、俺も見たけど、言わないです、ご心配なく。さっきのあれって赤ざ……快廉サマも?」
「さあ。知っていたのか、面白半分か、何も考えていなかったのか。いずれにせよ、これであの方に借り一つですよ」
侍女は柳眉をひそめ、白い額を押さえた。
「偉い方って大変ですね!」
十児がにかっと笑う。
侍女も苦笑し、一礼して去っていった。
「いやあ、遅くなって済まない、待たせてしまったな」
「赤猿大将が、何かまたやったんだって?」
入れ違いに、一緒の馬車に乗る幻奏師たちがやってきた。十児がうなずきを返す。
楽霆は楽譜を畳んでふところに入れ、じっと押さえると、先に馬車に向かった。
◇◇
太守の館から幻奏大楽院までは、近いとはいえないが、歩いて行けない距離でもない。
裏方雑用を務めた楽院生たちは、大幻奏の熱気も冷めやらぬ市内のさまを楽しみながら、ほとんどが歩いて戻ったはずだ。
常の夜よりはるかに明るく、店も酒楼も溢れんばかりに賑わい、通りにも人びとが行きかい、音楽が、歌が、歓声が、笑いが満ちている。
だが、危険は多い。常の彩竜市の夜よりも。
ひやりとした夜気が、馬車の格子窓から入りこむ。
夜が更けるにつれ、月の光が強まってきた。
まして今夜は赤月、窓から見える夜の風景は、刻一刻と血の赤に染まっていく。
楽霆、十児と同乗しているのは、若手の正式幻奏師たちだ。
彩竜市近郊の富貴の出身ではないが、苦学して弦名を得たわけでもない、地方の豪農や商家などの、恵まれた家の出身者だった。
「ぜひ、橙月の夜の宴で、一曲披露してくれないかってさ」
「やったじゃないか、やっぱり幻奏がお好きだって本当だったんだな」
「本格的に学んだかいがあったよ、父も喜ぶ……あ、えっと、なんか、すごい俗な話で申し訳ない」
「いや、もっと恥ずかしいのは、今ここに入る全員、十児君も含めて全力で合奏しても、楽霆君ひとりに到底敵いっこないってところだね」
「何やってもぜったい、誰もこっち見てくれない!」
笑い声が車内を満たす。
弦名を得たところで目的を果たした彼らは、天才楽霆に感心こそすれ、特に羨みも妬みもしない。幻奏を極める道に、興味などないのだ。
月虹祭七番大幻奏、それも一夜目の伴奏役で充分に満足し、いずれ故郷に帰ってからの、華やいだ展望を語り合っている。女子は特に、婚姻の箔がついて万々歳だ。
いくらまだ若いとはいえ、騒々しいほど、笑ってはしゃぐ。
彼らは性悪楽院生ではない。楽霆を笑っているわけではない。
だが、楽霆はしだいに相手の鼓膜が破れるまで喚きたてたい気持ちにさせられ、幻奏琴の包みを抱きしめた。
夜気を求めて窓に顔を寄せ、物騒な感情を噛み殺す。
「大丈夫か、楽霆」
一人だけ常と変わりない十児が、となりから囁きかける。息づかいが少し違う。軽功と棒術の心得があるので、心身を整える呼吸法が身についているのだ。
彼もまた、何か別の道を歩むのだろうと、楽霆の胸に暗い水が広がる。
「たぶん、月虹のせいだよ。みんなも」
それを裏付けるように、御者がいきなり悪態をついた。馬が甲高くいななき、石畳を踏み鳴らす。馬車が揺れ動いて停止する。
「てめえ、ふらふら歩いてんじゃねえ、退け! 轢き殺すぞ!」
太守の館が手配した馬車の御者とは思えない声が夜の道に響きわたる。
それを聞いた若手幻奏師たちが笑い崩れた。
無責任にけしかけ、笑ってはやし立てる。
月虹のもとで、人の血はざわめき、心は狂う。
月虹のもとで、人の欲は自由を得て解き放たれる。
「……今年のは、なんか強いみたいだな……」
今夜は一夜目の赤月、月が満ちるのは四夜目の緑月。
だが、月虹の赤に染まった市街では、歌も音楽も歪みだしている。
歓声と笑いに、怒声が、悲鳴が、少しずつ織り交ざってくる。
「このクソが……!」
唾でも吐き捨てそうな御者の声とともに、また馬がいななく。
馬車が何度も乱暴に揺れ動くと、幻奏師たちは笑いと悲鳴をあげて大はしゃぎだ。
楽霆は格子窓にしがみついて外を覗いた。馬車の前を横切って、道ばたへと歩いていく人影が見える。十児も身を乗りだして、無事を確認している。
「大丈夫みたいだな」
楽霆はほっと息をついた。
若手幻奏師たちもにこにこ笑い、軽く手を打って喜んだ。
「……すいませんね、いま出しますから」
少しは落ち着いた声とともに、馬車が動き出す。
何事もなかったように、大楽院に向かって滑らかに進んでいく。
◇◇
去っていく馬車のことなど、空真の頭にはなかった。
ふらふらと夜風にあおられ、右に左に揺らめきながら、血の色に染まった夜を歩いていく。
「踊れなかった……」
徐々に強まる月虹にあおられ、忘れたかった光景が、とめどない後悔がふつふつと噴き出し、胸をむしばむ。
「俺は、剣と踊れなかった……でも……ごめん……ごめん……」
歩き続ける空真の耳に、ひどく澄んだ弦の音が聞こえてくる。
溢れる笑いと楽の音、歌声、そして空を切る刃の響き。
はっとして顔をあげれば、無数の煌めく灯火がどこまでも鈴なりに連なる路が見えた。
入り口の石門には『瞬雷廟』と書かれた牌。伝説的幻奏師・瞬雷の霊廟へと続く参拝路は、多くの伎芸者たちで賑わっている。
この作品を読んでいただき、本当にありがとうございます。
主人公、再登場しました。この先は空真中心で進みます。
面白いと思っていただけましたら、続きをご覧いただければ幸いです。