第04話 氷菓子を食らう妖美の男
指の長い手が、空になった銀の小鉢をひらりと放つ。
小鉢は煌めいて宙を舞い、高く積まれた空小鉢のてっぺんに着地した。
ちりん。重なりあった瞬間、澄んだ音がかすかに響く。
空小鉢の塔が揺らめき、人びとがどよめくが、倒れない。柳のように元に戻る。
そのころには、美丈夫はすでに新たな氷菓子の小鉢を手にしていた。
彼は、人びとが声もなくその姿と食べっぷりを眺めているのをいいことに、卓の真正面を陣取り、いっぱいに用意された氷菓子を独り占めにしていた。
年は二十代半ばだろうか、すらりと背が高く、しなやかでありながら力強い体躯の持ち主だった。
紅い錦の長袍には、重さが倍になるのではと思えるほど刺繍がほどこされ、腰には使いこんだ無骨な剣を提げている。
癖ひとつない黒髪は腰まで届き、艶めく表面にものが映りそうだ。
青白いほど白い雪の肌、銀のさじをくわえる唇は端正、切れの長い目は潤んだ黒紫。
世にも妖しく美しい貌だが、きりりとした眉、すらりと高い鼻、涼やかに整った眉目に、甘く弱々しい風情は少しも見当たらない。
客たちは彼を遠巻きに見つめ、目を瞠っている。時が凍りついたもの。口をぱっくり開けたままのもの。何度も瞬きしたり、目を擦ったり、ぎゅっと閉じては開いてみたり。自分の頬を叩いたり、ひっぱったりするものもいる。
神仙、まさか、あれは人か、人なものか、しかし、そんなささやきも耳に入る。
(……そう思うよなあ……わかる……)
楽霆が初めて彼を見たときも、神仙招来の宴だった。席を定めない多人数の宴には、俗界に出てきた神仙がこっそり紛れ、料理や余興、人との交わりを楽しみ、その礼として恩恵を残していくと言われている。
と、銀洞老師が教えてくれたけれど、あれはただの言い伝えじゃなかったのか、神仙というものは、霞ではなく、氷菓子を食べるものなのか、と全力で凝視していたら、目が合ったのが最初であった。
妖美の男はひたすら氷菓子を食べ続けていたが、楽霆に気づくと薄く笑ってうなずき、脇にどいて場所を空けた。
楽霆は駆けよってそばにいくと、まずは七色の氷菓子を見比べ、考えこんだ。
「赤は山林檎だ」
低く麗しい声が降ってきた。
「橙は杏子。黄色は卵餡、景気よく甘い。緑は抹茶、いい茶だな。甘くて苦い。青は、まあそれなりに檸檬と薄荷」
「やめた」
「藍は藍苺で、酒が効いてるからガキには向かない。紫は黒豆と小豆だ、地味だがうまい」
「……じゃ紫」
楽霆はおすすめの小鉢をとった。探すより早く、銀のさじがくるりと目の前に差し出された。手が届かない陰にあったのを、男が取ってくれたのだ。
「ありがと、涼火さん」
楽霆は銀のさじで地味な紫の氷菓子をつついた。固い。
「姫君もなかなか苦労していると思うがな」
見ていたらしい。つつきながら、楽霆は頬がカッと熱くなるのを感じた。
「お前が怒っているアレは、やんわり波風立てぬよう誰でもやってることだぞ」
「でも嫌だ」
「もし姫君が真正面から食いついて命じたとしよう。もちろんそれでも奴らはやめるだろうが、お前の味方をしたのは明らかだから、その分、妬みやらなにやらはあとでお前に向かう。侍女からのほのめかしは、馬鹿げた悪口が聞き苦しいとも取れるから、お前に味方したとは限らない」
「……わかってる。けど嫌だ」
「太守の姫君に明らかな好意を持たれていては、ただでさえ敵の多いお前の立場がもっと悪くなるのではないかと恐れているのさ」
「知ってるよ、それは」
「それなのにお前ときたら、姫君の心遣いをまるで汲もうとしない。怒らせて、泣かせてしまうんだからな」
「でも……嫌なんだよ。凛麗、姫は楽しんでるんだ、いつもいつも上からぶっ叩きながら」
「善き者か、弱き者か、稚なき者をか?」
「違う。全然その逆」
楽霆のことばかりではない。
大熊猫の小幻奏を請われて、庭園の奥の竹林にわざわざ行けば、年少の下働きを苛めて楽しんでいた連中にばったり出くわす。
驚いた風の侍女が、甘い美声を剣のように繰って問い詰めれば、相手はみな汗だくに、しどろもどろになっていく。
楽霆の幻奏が、だしにも使われるわけだが、別に嫌だったわけではない。嫌だったのは、凛麗姫の顔だ。
不届き者たちが、地に頭をつけ許しを請えば、ものが載りそうなまつ毛を伏せ、深く憂いて見せながら、扇のかげでは小気味よさげな笑みを浮かべるのだった。
「姫君は心正しく振る舞い、下々にも目配りしているというわけだ、それくらいの娯楽は大目に見てやってもいいと思わないか?」
「思わない。思いたくねえ」
「じゃあ、そいつらの好きにさせておく方がいいのか?」
「もちろん、よくないんだけど、やっつけていいんだけど……」
楽霆は頭がぐるぐるしてきた。
「もういい……とにかくあれは嫌だ」
「理解してやれ。いざ自分がその気になれば何でもできる、喜んでもらえると思ってたんだ、あんなにつれなくしたら、かわいそうだろう」
そういいながらも、彼はあまり凛麗姫に同情した風でもなかった。楽霆の反応を面白がっているようだ。
この男はいつもそうだった。楽霆が何を言っても気にしないかわりに、妙な小難しいことを言って混乱させるのだ。
涼火。名前は二度目に会ったときに教えてもらった。今日で何度会ったのかはもう忘れた。少なくともその美貌にぽかんとはしなくなった。
神仙招来の宴で、氷菓子があるときだけ、真冬でも姿を現すが、人に紛れた神仙・神将の類ではないことも分かった。
楽霆と彼が言葉を交わすさまに、まわりの客もそう悟ったようだ。空気が緩み、安堵の声や自身への笑いが漏れる。
あれは誰か、何者なのか、知っているかと囁き合っている。
涼火はそ知らぬ顔で、新たな氷菓子に手を伸ばす。その手は白く、すらりと指が長く、つくりこそ大きいものの、よもや腰に提げた無骨な剣の柄を握って操れるとは見えない。実際に操っているところも見たことはない。
太守の宴で帯剣を許されているのは、それなりの身分の者か、その随行者だけだ。
涼火おすすめの紫の氷菓子は、小豆餡よりさっぱりして、黒豆の風味が香ばしい。たしかに美味かったが、食べているとこめかみのあたりが緊めつけられるようにズキズキしてきた。
「よくこんなに食べられるね」
楽霆は卓に重なった小鉢の塔を見あげた。
「鍛えてるからな」
涼火はくつろいだ涼しい顔をしている。
またひとつ小鉢を空にして宙に放ち、てっぺんにちりんと重ねると、次に手を伸ばすかわりに楽霆に向き直った。
神々しいまでの美貌を真正面から向けられて、楽霆は銀のさじを呑みこみそうになった。
すっかり見慣れたつもりでいても、不意打ちを食らうと腹を打たれたように息が詰まる。
造形のすみずみにまで、人間離れした艶と華が宿っている。
どれだけ眺めたところで、飽きるどころか、決して本当に慣れることなどない。
心臓の悪い老人がいきなり見たら、息の根が止まってしまうのではないか。
そんな風に思う美しさだった。
「なあ。ひとつ訊いてもいいか?」
涼火は言った。黒紫の瞳は魂を吸われそうに深く、声音は低く甘く響いた。
楽霆はまわりのすべてがぼんやりしてくるのを感じた。少しの恐れを感じたが、逃げるのもしゃくで、むしろ堂々とうなずいた。
「じゃあ訊くが、誰がお前の幻奏琴に悪さをするんだ?」
割とどうでもいい質問だったので、楽霆は拍子抜けした。
幻奏琴を手離さないのは、凛麗姫がいつどこで望んでも、いちいち取りにいく時間をかけず、すぐに小幻奏を披露してあげたいから。
それが理由だが、建前にもして、一石二鳥の防御策を取っている。
少し考えて、本当のことを答えた。
「知らねえ。どうでもいい。むしろ知りたくない」
「なんで」
「みんな俺より年上なんだぜ。見習いならともかく、正式な幻奏師は十以上だ。考えただけでみっともねえ……」
貧すれば鈍する? 僻地の村を離れれば、太守が住まう大きな街に行けば、まして幻奏技術の研鑽に身を投じた者たちであれば、人も違うと思いこんで胸を弾ませていた。
今ならわかる。彩竜市へと戻る旅道中、幼稚な夢を語る愚かな子供に、現実をどう説明していくべきか、銀洞老師がずっと頭を悩ませていたことが。
「俺が軽くとっちめてやっても、良かったんだがな」
「いいよ。自分で幻奏でぶん殴る。まだ殴り足りないんだから、仕方ねえ」
「そうなのか? お前、『輝竜天空』の瞬雷の再来かもって言われてるんだろ?」
「言っとくけど、ウチの偉い爺婆の中には、それ聞くたんびにめちゃくちゃ嫌そうにする奴もいるから」
楽霆の脳裏には星嵐導師の顔が浮かんでいた。
「でもお前は、そう言われて嫌じゃあないだろう?」
楽霆は一瞬答えに窮した。そうとも言えたし、違うとも言えたからだ。
金あり能無しの性悪楽院生にあざけられたり、田舎の出身であることや、年齢を理由に能力のほどを差し引かれたりすれば腹がたつ。
馬鹿にするのなら、楽霆ができることを同じようにやってみせろと思う。
大人でも自分に敵わないと知れば、天才と呼ばれるに何の不足があるかと思う。
だが足りないのも知っていた。
大楽院老師の一人、煖人老師が楽霆に言った。
『ああ、鋭くて痛いのお。弦がぴりぴり張りつめて、だんだん肩が凝って疲れてくるわ。もう少し弦を緩めて、まろやかに鳴ることも知りなさい。急いてばかりは、うまくいかんよ』
一度も素直にうなずいたことはない。うるさいと噛みついたこともある。だが、無視してはいけないのは痛いほど分かっていた。
分かってはいたけれど、それは心臓に食らいつく弱みだった。クソ楽院生どもに知られでもしたら、嵩にかかって責めたててくるのは目に見えている。
「あんまりそういうこと、おおっぴらに言うと煩えんだけど……ま、かなり好き」
楽霆はにんまり笑ってみせた。伝説の瞬雷がそうしていたように、当然の顔で。
「まったく。なんでお前が七夜目じゃないんだろうな」
七夜目、紫月のもとで奏でる大幻奏七番『輝竜天空』は、もっとも充実して腕の立つ幻奏師が奏でる最大の難曲だ。弾けるものさえめったにいない。
だが、楽霆は完璧に弾けるし、そう引けをとるとも思っていない。今回の『輝竜天空』の独奏役は星嵐導師だった。
「まだガキだから駄目なんだってさ」
さすがに『輝竜天空』とは言わないものの、『武頼翔王』の資格ぐらいは充分にあった。
もっとも声高に反対したのは星嵐導師だった。彼女は楽霆を『三狐舞』の独奏役にすることさえ、最後まで渋ったのだ。
「残念だったな。でも、そう嘆くことはないぞ。独奏役の祝いだ、明日にでも俺が氷菓子をおごってやる」
「いいよ、氷菓子はもう」
涼火の食べっぷりを見ているだけで一生分食べた気がした。
「俺の氷菓子を断るのか」
涼火は困ったように微笑した。その笑みが、壮絶な美貌をほんの少しだけ割り引いて、彼を驚くほど親しみやすく魅力的にする。
「じゃあ、何がいいかな。何か飾り物、耳飾りとか……」
艶めく黒髪をさらりとかきあげる。白い耳朶を金の輪が噛んで、青い宝珠が揺れている。
「そういうの要らない。幻奏のとき邪魔」
「洒落た着物はどうだ? 普段着は好きなのでもいいんだろう?」
「学院がくれるやつで充分だし、いちいち外の洗濯屋に出すやつとか要らねえ」
「遠慮しなくていいんだぞ、金ならある」
「見ればわかるよ。ほんとに要らねえだけ」
本当でもあるし、遠慮でもあるし、恐れでもあった。
涼火に貰った飾りを、厠に投げこまれたりとかしたくない。これ以上がっかりもしたくない。
いくら何でも、ここでそれは無いと信じたいが。
「じゃあ、ちょっとした普段用の……髪油なんかどうだ? 合わないとか言ってただろう?」
「あ……それは欲しい」
涼火の艶やかな黒髪をまた見る。竜族系の理想そのもの、黒々として張りのある髪だ。
楽霆は虎族系だから、髪質が細く、軽く、癖が強い。
「決まりだな。虎族系に合ういいやつを見繕って届けよう。せっかくの金色なんだ、手入れをすれば、文字どおり光るぞ」
「すっげえ嬉しい。星嵐導師なんか、人をガキ扱いして、赤んぼに塗る油なんか寄こすんだぜ」
「別に間違ってはいないぞ。やわらかい赤ん坊に使えるんだから、肌にも優しい」
「え、そういうもん?」
涼火のとなりで、楽霆は安らいでいた。ときおり恐いように感じても、離れたい気は起こらなかった。
可愛いくていばりんぼうの凛麗姫のことも、綺麗なのに口うるさい星嵐導師のことも、酒が入ってしまうとどうしようもない銀洞老師のことも、金持ちクソ楽院生どもも、ずっと年上なのに何かとつまらないことをする先輩幻奏師たちのことも、何もかもが心地よく遠のいていく。
この作品を読んでいただき、ありがとうございます!
いいねもいただいておりました。感謝いたします。
誤字報告もありがとうございました。
次回は早めにお届けできると思います。
主人公(空真)も、もう少しで出ます。